7.月下に鳴く
「ぬぅわっ!」
倒れ込んだ職人の頭上を、勢いよく豪腕が掠める。
背後で土壁が巻き込まれ、脆くももぎ取られていくのを見ながら男は冷や汗をかく。
「こんなときにもか……」
「なん、ですか……あれ」
その胸元に抱かれた女性は、ただ呆然とその影を見つめていた。
「あなたは初めてでしたね」
「え──じゃ、あ」
「あれですよ。うわさの下手人」
女性な、その胸に桐箱を抱き締めた。
二人が見上げる体躯は、天井につくほどに大きい。
てっぺんのぼんやりとした小さな明かりが、二人を見下ろす目のようであった。
「いきますよ!」
「──はいっ!」
二人が立ち上がるなり、影が振り上げた腕が天井を突き破る。
天井ごと叩きつけた腕が畳ごと床を歪ませた。
からくも回避した二人は、廊下へと抜け出した。
二人が廊下に消え、影は部屋を見渡した。
片隅に転がる枠だけの三味線を見て、腕を振り上げる。
その背後へ少女が躍りかかった。
──絶好の隙ね!
だが影は、腕を背後へ振り回す。
いかなる知覚を持つのか、影は奇襲に気づいていた。
飛びかかる少女は、無手である。その小さな体では影に何をすることもできない。
「やあぁぁっ!」
それでも、少女は甲高い叫びと共にかざした拳を宙で振りきった。
空を切った拳に、影の瞳は笑ったように歪んだ。そのまま丸太のような腕が少女に迫り──
『──? ────!』
影が吹き飛ばされた。その身は宙を躍り、土壁を突き破って隣の部屋に転がり込んだ。
『────!』
粉塵のなか、影の叫びに少女が牙剥くように笑った。
「しぶとい、逃がすかぁ!」
「外には逃がしてくださいよ!」
「────は、はいぃ!」
声を受け少女は奮迅へ飛び込んだ。
少女と影の叫びが、破砕音と混じりあってけたたましい音を鳴らす。
幾度かの鈍い音が響いて、影が転がるように外へ飛び出した。
月明かりに照らされても、その姿すべてを飲み込むように暗い。その瞳が、いまだもうもうと漂う粉塵と向けられる。
影が甲高い叫びをあげると、粉塵が弾け一気呵成に少女が飛び出す。
月明かりに照らされた少女のすがたは、青白い燐光に包まれていた。
「逃げるなぁッ!」
唸る蹴りが、鍬を振るったように地面を抉りとる。
腕を振るえば、燐光とともに竹をへし折った。
『───!』
「は! この程度!」
影が拳を当てようとも、光に阻まれ動じることはない。
動く度に光が散り、少女の姿を妖しく魅せる。
「────ぅぅうウアァッッ!」
雄叫びをあげ少女は舞う。
「なん、ですか、あれ」
その姿を、職人は外廊下に立って呆然と眺めていた。
腕のなかで、女性もまた唖然とするばかり。
「まあ、うちのちょっとした秘密みたいなものです」
懐から取り出したのは、身の丈を超さんばかりの長弓だ。
同じように矢を取り出す先生を、信じられないように職人が見る。
眉間にシワのよったその顔に、先生は笑った。
「言ったでしょう。ヒミツ、ですよ」
胡散臭げな職人の視線を横目に、影と取っ組み合う少女へ叫んだ。
「ようし、そのままかち上げろ!」
「────はいッ!」
答えるなり、少女は頭を振った。
影が身じろぎしようとも、光の爪が体をつかんで離さない。
頭突きは、まるで鎚のように影を地へ沈ませる。
『──、─!』
這うように逃げ出そうとした影の尾を、光の腕が掴み取った。
「とっ、たぁッ!」
ぐんぐんと、燐光を撒き散らしながら振り回していく。
「うわぁ……きれい……」
光の舞う幻想的な光景に女性は目を奪われて、
「──あれ」
やがて燐光のなかに、青い光が大きな人影を形作るのを見た。
太い脚、長い尾、鋭い爪、尖り突き出た鼻と耳。
「犬、いや、あれは──」
「ぃやっせい!」
叫びとともに、燐光はかき消え、静かな月明かりだけが場を満たす。
空へ投げあげられた影は胴にも出来ず、もがくばかり。
「ようし。上等」
夜空を見上げながら、先生は長弓を引いていた。
「────、─」
何事かを呟きながら、空へと矢を放つ。
月に影が合わさり。
矢は確かに影を射ち貫いた。