6.今宵の音は…
夜半。ぼろになっている離れの一室。
明かりをともしたなかで作業をする男がいた。職人である。
今手掛けるのは棹。糸を調整させる天弦と胴を芯から合うよう削り出していく。
簡単なようで、少し歪むと音も変わってしまう大事な作業だ。
一層慎重に作業を終えると、垂れる汗を一拭き。
そして、戸へと声をあげた。
「出てきてください。いらっしゃるんでしょう」
ひょっこりと女性が顔を出した。右腕に下げた篭には、白猫も顔を見せていた。
「へへ、来ちゃった」
「おや」
意外、と職人は目をしばかせた。
てっきり妙なあの二人組かと思ったのである。
女性のつられた左腕に職人は目を見張った。
「それですか、矢傷というのは」
「あれ、まだ言ってなかったはずだけど」
「あの二人から聞きましたよ。いいんですか。出歩いたりなんかして?」
「腕ですもの。薬は一緒に巻いていますから痛みませんし」
「それなら余計、安静にしておくべきでしょうに」
「閉じ籠っていたら、心までなまってしまいます」
ほうれ、とその場で回って、跳ねて見せる。
「ああそんなにはしゃいで……!」
不安げな職人もよそにくるりと回って見せると、自慢げに胸を叩いた。
「この通り!……あれ、ほんとに痛くない」
信じられないように傷を見つめる。
あれえ、と首を傾げるすがたに、職人は肩を落とした。
「心配して損しましたよ」
「あ、あれ、そんなことないよ、ほら、いまだって、あぁ、痛いいたぁい!」
「ほぉれお前さんはどうなんだい」
悶える彼女も、すでに職人の視界にはない。
篭の中の猫に手を伸ばせば、にわかに首を伸ばしてみせた。
首筋を撫でれば、心地良さそうに目を細める。
そしてやおら立ち上がったかと思うと、職人の腕をかけ登り、首にのった。
「おお、お前さんも元気じゃないか」
「ふふ、あなたのことも好きなのよねぇ」
女性は、作業台へと目を向けた。
そこには、作りかけの三味線が置かれている。
まだ骨だけ。音も満足にだせないだろう。
「今日も、作っていらっしゃいますのね」
「ああ。ちょっと遅れているが、まだ仕事がある」
「そうなのね」
「なあに、せっかく頼まれた仕事だ。やれるならやるに越したことはない」
邪魔が入るだけだからな、とさもないように鼻を擦った。
肩に乗る猫をあやしていると、彼女がそっと手を延ばす。
「ほら、こっちにいらっしゃい」
猫を抱き上げると、肩にのせた。
猫が左腕を踏むのも気にしてない。痛みが引いているのは確からしい。
猫がしっかり肩に収まると、
「あなたはまだお仕事なのでしょう。これ以上邪魔しちゃ悪いわ」
「仕事の催促、してしまったかね」
気まずそうにほほを掻く職人に、彼女はクスリと笑った。
「あら、ちょっとほほ赤くない?」
「──この騒ぎでね、ぶつけたんだ」
猫をあやしながら、彼女は工具の音をただ聞いていた。
職人が手を動かす度に、形が作り上がり、木々の香りが部屋に満ちる。
女性はほほを押さえ、その背を見つめていた。
ただ、目の前に一心を注ぐその眼差し。それが、彼女はとても好きであった。
身動きもせず、じっと見つめている。
刺激の無くなった猫は、所無さげに身をよじるばかり。
ただ、時間が流れていく。
突然の物音に彼女は目を覚ました。
夜分遅いこともあったのだろう。いつの間にかうたた寝をしてしまっていたらしい。
職人は物音に気づくことも、寝ることもなく一心に三味線作りに向かっていた。
──そういえば、夜食もまだでしたかね
せっかく軽食をつくったのだが、言いそびれてしまった。
物音はちょうどいいとおもったのだけれど。
音の方を見ると、壁際のところに箱があった。
「あら、この箱……」
継ぎ目も見当たらない、見事な作りの桐箱であった。
広く、薄い作りのそれは無造作に壁に立て掛けてあったのだろうか、底を上に向けていた。
さきの物音はこれが倒れた音だったのだろう。
もし床に放置でもされていれば、付かずに踏んでしまったかもしれない。
危ないなぁ、と思いつつも、戻しておこうと手に取った。
爪があたり、乾いた音をたてる。
そのときになって、職人も箱に気づいた。
「あ、そ、それは!」
「──え」
泡を食ったような慌てように驚いた拍子に、音もなく蓋が空いた。
なかにあったのは、丁寧に折り畳まれた布のようなもの。
きれいな地であったがよくみれば、ひきつったようなあとがいくつもある。
それはまるで、
──傷だらけ、ね
ほう、と見つめていると、職人が急に手を伸ばした。
有無を言わさず箱と蓋を取り去ると、きれいに納めて大事そうに抱え込んでしまう。
「どうしなんです、そんな急に」
「いや、その……いけない、これはいけない」
慌てふためき、堰を切ったように止めどなく言葉を重ねる。
どうしたのかと、彼女もいぶかしんでいると、肩の白猫が、声をあげた。
威嚇の声。
これを聞いたのはずいぶんと久しぶりに思う。
だが、この子もそこまで怒るだろうかと横目にみて、
「──え」
猫の顔は襖に、外に向いている。
彼女の肩から降り、牙を向いた。
毛は逆立ち、延びた尾が天を突いている。
「ね、ねぇ……なにか、いるの?」
問いに答えることもなく、威嚇を続けている。
後ずさった肩を、職人がつかんだ。
抱き寄せられたかと思うと、担ぎ上げて猫に背を向けた。
「あっ、職人さん!?」
「──来るぞ」
え、と呆けたその時、白猫が職人の足元を走り抜けた。
追うように職人も踏み出した瞬間、
「────!」
甲高い叫びと共に、ふすまがぶち開けられる。
大きな影が、現れた。