5.想うのは…
「今日は静かねぇ」
寝床から身を起こした女性は、差し込む春の日差しに目を細めた。
薄手の寝間着に身を包む彼女は左腕を吊っている。
「あなたもはいいわね、あっさり眠れて」
膝上で眠る白猫を撫でていると、顔を歪めた。
震える手で、左腕を押さえる。
「──ぅつっぅ……まだ痛むわね」
その様子に白猫も目を覚まして、女性を見上げている。
白猫も、腹に包帯を巻かれて痛々しい姿になっていた。
心配そうに鳴く猫に、撫でることでなだめて、
「私までこうなっちゃってんじゃ、あの人はどうなってしまうのかしら」
その時、つんざく鶏の鳴き声がした。
引き裂かれる静寂に、驚き、思わず立ち上がろうとして、
「あら!?」
起き上がった拍子に、白猫も一緒に持ち上げてしまった。
とっさに受け止めはしたものの、ひどく傷に響く。
驚いた白猫も機嫌悪そうに身をよじり、降りて歩いていってしまう。
「だめ、そっちは外よ───」
よほど居心地が悪かったのか、傷も構わず白猫は外に向かっていく。
日差しのさす庭へと躍り出た白猫をひょい、と誰かの腕が抱き上げた。
「おお、お前さん怪我しているじゃないか。さすがにおとなしくしていなさいな」
そこにいたのは、細身の男と少女。
男は猫の傷に響かぬよう、腕で抱えあげている。
指先でその顎を撫でれば、ごろごろと喉をならした。
「あ、ずるいですよ先生!」
「ん、ほうれ」
差し出した猫の背を少女が撫でようとして、
「シャアァァッ!」
威嚇されて、目を見開いた。
「──え、なんで」
それでも、懸命に笑顔で手を伸ばして。
無慈悲に振られた猫の手に払われた。
「なんで?」
「ふむ……おぅいお前、そんなにこの娘が嫌いか、おい」
先生が軽く首もとを撫でると、緩やかに尻尾が振られた。
微笑むように目を細める猫に、少女もずるいと不満をあげる。
心地良さそうにする猫の姿を、女性は意外そうに見つめていた。
「あらぁ、その子がはじめての人にそんなに良い顔するなんて珍しいこともあるものねぇ」
「お邪魔しています。先程の話、もしやとある三味線職人さんのことかな」
「ご存じなの?」
「ええ、よぉく」
頷いて、
「その職人さんの問題のため、調査していましてね。協力願いませんか」
聞くなり呆けていたかと思うと、彼女の顔に満面の笑みが浮かび上がる。
気が抜けたように、その場に崩れ落ちた。
「ああ、もうこれで安心なのね」
「いや、まだ終わったわけではないのですが」
「あら。 弾き手さんのご紹介じゃないの?」
「彼女のこと、ご存じで?」
「今度ね、三味線教えてもらうのよ」
苦々しい表情をする二人に。
「あの人のご紹介なさった方なら大丈夫です。私ではもう打つ手なしだったの。ありがとうございます!」
先生と呼ばれる男の手をとり、涙をにじませて大事そうに抱き締める。
すると、苦悶を浮かべてその場にうずくまった。
「おや、大丈夫ですか」
「ちょっと、腕がね……」
左腕を抱え込み、脂汗に顔を濡らしながら、懸命の笑みを浮かべる。
「このくらい、大丈夫……よ!」
しなだれる髪から覗く、力強い眼差しと共に放たれた言葉。
めくるめく変わる彼女の様子に二人はただ、顔を見合わせるしかなかった。
◆ ◇ ◆
寝床の上で女性は寝巻きをはだけ、白く細い体をさらしていた。
先生はその先、真っ白な腕に指を這わせている。
指を動かす度に彼女は吐息を漏らし、ときに小さく息を呑む。
「──っ、せんせぇ、そこはぁ……」
「おっと、すみません。ここは痛みましたか」
先生その姿にうなずくと、取り出した壺から薬を塗り、薄紙を貼った。
さらに押さえるように、包帯を巻いていく。
あっという間に出来上がっていく先生の丁寧な手つきを、女性は関心して見つめていた。
「矢傷ですかね」
「ええ、そうらしいの」
考え込む先生の様子に、彼女は首をかしげる。
「矢傷、見たことありません? ずいぶん手慣れていますのに」
「いや、疑う訳じゃないんですけどね。矢傷。矢傷か」
「この手際をみるに、お医者様かなにかでしょうか?」
「正確には違うんですけどね、似たようなことをよくやりますので。はい、これでよし」
包帯の端をそっとまとめあげると、少女の方へ目を向けた。
少女は床にうずくまっていた。
対面には同じように白猫がうずくまり、じっと睨みあっている。
そっと少女が手を伸ばせば、猫がはたき落とす。
また手を伸ばしては、はたき落とされる。
家に上がった時にはすでに少女と猫の攻防は始まり、今に至る。
いい加減猫も逃げたいのだろうが、そうもいかないようであった。
その猫の腹には、大きく巻かれた包帯がある。
「猫の傷も同じですかな」
「ええ、あの子も矢傷ですね」
「昨日遅く、ね。射られたらしいの」
歯切れに悪い言葉に、先生は首をかしげる。
「何があったのか、覚えていないのよね」
「射られた程度で覚えていない、というのは珍しいですな」
そうなのよね、と女性も不思議そうに首をかしげて、
「とりあえずなにか取られた様子はないのだからよかったけれど」
「お強いお方だ」
ポツリ、とつぶやかれた言葉に、彼女は目を向けた。
「そんなことないですよ」
「そうですかね。突然覚えのない大きな傷を負いながら、そうも笑っていられるのですから」
しみじみと一人うなずくようにして、
「回りの人を怖がっても別におかしくないと思いますよ」
「あの子たちもあの人によくなつきました」
眺めた庭は、春の日差しに照らされている。
「さっきのあなたみたいに猫を抱いてくすぐって、猫も気持ち良さそうにしていてね」
懐かしむように目を細めて、
「あの子たちが気にしないなら問題ないんだなって」
「ずいぶんと、あの猫を信頼なさっているようで」
「物心つく頃からずっと居ましたからね。姉妹みたいなものです」
「では、姉様にもお薬を差し上げましょうか」
先生が猫に手を伸ばすと、少女もそちらに目を向けた。
少女の気がそれた一瞬。その一瞬に猫はそっと女性のもとへ向かう。
はっと少女が気づいた時には、すでに駆け出していた。
「あ、待って!」
「今回は諦めなさいって。無理することでもないでしょうに」
「諦めないとかいつも実験のとき言ってるでしょ」
「すっぱりやめるのと時機を待つのは別ですよ」
漏れる不満をよそにひょいと彼女の膝に猫は
飛び乗ると、前足で何度も叩いた。
構え、と言わんばかりの叩きっぷりに彼女も苦笑いをこぼす。
「まったくもう。少しは大人しくしなさいな」
「しかし怪我を負っているに元気ですな」
「ええ、さっきみたいにうろうろしてばかり。でも今日はおとなしいほう」
「怪我ですからかね」
「相手もいませんからね、寂しいんでしょう」
「あの子”たち”と先程もおっしゃってましたな。どんなお相手が」
「ただの喧嘩相手ですよ」
そんなこと言うな、とばかりに、猫の足は勢いが増す。
「黒猫。濡れ髪のように真っ黒な、ね」
やがて疲れたのか、ぐてりと白猫は女性の足の上で目一杯に寝転がった。
ふてくされたようにあくびを一つ。
「その黒猫、今どこに?」
「ついこの前、死んじゃったわ」
ポツリと、呟いた。