2.淀む音
「──ねぇ、いらして……?」
静まり返った屋敷に、弾き手の声はよく響いた。
透き通った声はささやくようだが、とてもよく通る。
だが、返事はない。
おや、と弾き手は首をかしげた。
「おかしいわね……外に出たりはしないはずなのですけれど」
呼び掛けつつ廊下を進むが、答えは帰ってこない。
「お仕事に集中なさっているのでは?」
「そうかもね。でも……返事くらいはしてくれたはずだけど」
「まさか、手遅れになっちゃいましたかね?」
「いえ、それなら屋敷がもっと壊されているはず」
「そんなにお構いなしですか」
先生の言葉にうなずくと、足を止めた。
傍らのふすまに手をかける。
「たしか、この部屋なのだけれ、ど……」
弾き手がそっと部屋を覗き込むと、とたんに顔色を変えた。
襖を開け放ち、一気に飛び込む。
大事に抱えていた荷物を取り落とし、危うく少女が受け止めたことにも気づいていない。
「ちょっと、しっかりして!」
叫び声。
膝をついた弾き手はぐったりとした男を抱きかかえていた。
必死に呼び掛け続けるその姿に、先程までの飄々とした様子は消えてしまっている。
「あー、安心してください」
「そんな、何を悠長な!」
肩越しにかけられた先生の、気軽な言葉に叫んだその時。
その耳元で、規則正しい音が聞こえた。
よく見れば男の表情はたいそう緩みきっている。それを見つめる弾き手の表情は、少女にはうかがえない。
「寝てるだけですな」
「このっ!」
平手打ちの乾いた音が、よく響いた。
◆ ◇ ◆
「ご足労いただいたようで、申し訳ありません」
目覚めた男が、件の人であった。
着古した作務衣と柔げな表情が穏和な雰囲気をしめす。
だがそれらをすべて台無しにしてしまうほどに、目の回りにはっきりと現れた隈と、頬の”紅葉”があった。
呼ばれた二人を見るなり、傍らの弾き手にそっとささやいた。
「あの、本当に大丈夫なんですか。冴えない男と年端もいかない女の子で……」
「あなたも似たようなものじゃないさ」
辛辣な言葉に男は納得いかない様子で頭を掻く。
その男を見るなり、先生は感慨深く頷いた。
「やはり、そうですか。いやはや、まさかお会いできるとはか」
「ごぞんじなのですか、先生」
「彼はちょいと名の知れた三味線職人さ」
「まあ、生業はこれを見ただけでもわかりますよね」
職人が示す先には、そこにはいくつもの三味線と思わしきものがおいてある。
どれもが未完成だ。
革が張られていないもの。組合わさる前の棹らしきもの。
さらには、用途もわからぬ部品と工具の数々。
見たこともないものに少女は視線を奪われる。
うろつく視線を、職人は面白そうに見ていた。
「興味があるようだねぇ」
「え、あ、いいや、その……」
恥ずかしそうに笑みを浮かべる少女に、職人も笑う。隈がすべて台無しにしているが。
弾き手も、切れ長の目を細めて微笑む。
「面白そうなら、私が教えてもいいわよ。手取り足取り、ね」
「いやいや、作るほうだって。どうせなら私が教えてあげたいが……」
「まずは、お体を大事になさってください」
遮るように言った先生の言葉に、職人も頷いた。
わかっちゃいる、と口を尖らせながら。
「ゆっくりぐっすり、惰眠を貪りたいさ」
「あら……それはとんでもないことをしてしまいましたわ」
「いや、いいさ」
よよ、としなだれ顔を曇らせる弾き手に、きっぱりと職人は言った。
「まあ、そうなんだが仕事がつまってはいるんでね、寝るわけにはいかないのさ」
「仕事の早さにも定評があったはずですが」
「そこなんだが邪魔ばかりでね。仕事がダメかどうかの瀬戸際だった」
「では、その邪魔が……」
「突然襲いかかって、部屋中を荒らしてはどこかへ消えるのだ」
とつとつと話すその顔は、次第に青ざめていく。
「目の前だけでなく周囲まで気を配らねばならないとは大変でしょうに」
「前は長屋にいたんだが、辺り構わず暴れるんでね、申し訳なくて出てきた」
「ではここは?」
「知人のご厚意でね、離れの屋敷だそうだ。使い道もないそうでね。ここなら私一人で済む」
「襲われても、ですか」
「あなたならなんとかできると聞いてね、お願いしてみよう、と」
「ふふう、よいでしょうとも、任されましたとも!」
気をよくしたのか胸を叩く様子に、職人はため息をはく。
やり投げるように手を振った。
「とにかく、ぐっすり寝なさいな。守ってあげますからな」
「まぁ、頼むよ」
それじゃ、とさっそく寝床に潜る職人に、先生は待ったをかける。
「あぁ、一つ──顔は見ましたか」
「いんや、全部人影、さぁ……」
言うやいなや、寝入ったか穏やかな呼吸が聞こえてくる。
先生が苦笑いとともに振り向いた先で、弾き手は得意気な笑みを浮かべていた。