1.始まりの音
夜のとばりも落ち月明かりが街に満ちる。
静まる街に突如として、雷鳴のごとき轟音が響いた。
轟音は幾度か重なり、そのなかに時おり怒号と悲鳴が混じる。
その騒ぎのもとは、町の一角、ある長屋であった。
長屋の屋根や壁には大穴がいくつも空いていた。
そしてその中ほどでは脆くも崩れ去り、一つに連なるはずの長屋が二つに分かれてしまっている。
「火薬でも弾けたのか」
「それにしては火の手がないぞ」
町人らが何事かと集まり見つめる先で、積み上がった残骸からほうほうのていで這い出る男がいた。
「おぅいあんちゃん、大丈夫か」
「大丈夫大丈夫、もう慣れたよ」
崩れそうな体を町人らに支えられながら、男は平然と答える。
そこへ、人混みからからどたばたと何人か飛び出して寄ってきた。
「ちょっとぉ、職人さん、またなのかい!?」
「迷惑かけます」
「これで何度目だ?」
「片手は超えたはずですね」
「よおやるなあ、ほんと」
「慣れちゃいました」
おばちゃんが、青年が、老人が。
矢つぎ早に放たれる言葉に、職人と呼ばれた男はは一つ一つ頷いて答えていく。
彼らはこの長屋の住人である。
口調はきつくとも、誰も男を心配していた。
「また派手だねぇ」
「えぇ全く。何が何やら」
背後からかけられた言葉にも、職人は答えた。
頷いて、ため息を絞るように答える。
「それでも困るんだよねぇ、ああいうの連れ込まれちゃぁ」
重なるような盛大なため息に職人は振り向いて、
「────あ、はは……どう、も……」
そこには大家の巨体。
冷や汗が一つ、こぼれた。
◆ ◇ ◆
「さっさと起きてくださいよぉ」
「まだだ、もう二刻は……」
少女が眠る男を揺らす。
しかしいくらやっても、のれんに腕押し。
終いには布団に深く潜りこみ、出した手だけをヒラヒラ振る。
「こん、のぉッ!」
しびれを切らした少女は、布団に手をかけると、一式まとめて引き抜いた。
男が宙へと転がり出るが、少女は一切見向きもしない。
しばし宙を舞った男は、床に無慈悲に叩きつけられた。
「たぁ、た……ひどいじゃないかい。たった二刻だろう?」
「何がたったです! 起きるといってからもう半刻たってるんですよぉ!」
それでも男は必死に這いずり、片隅に放られた布団にたどり着いてすがり付く。
少女はすぐさま布団を剥ぎ取って、丁寧にたたんで押し入れへ放り込んだ。
「ま、待ってくれよ、せっかくよく眠れているんだから……」
「ならもう少し早く寝て、早く起きてくださいよ」
「研究があったんだから仕方ないだろう!」
「いつもそれですね、あなたは!」
片隅に追いやられてふてくされる男には目も向けずに、箒をはく。
男は埃と一緒にされているのにも構わずふてくされていると、
「そうやって石になっているなら早く次の仕事を見つけてください!」
「石はこの前解いただろう」
「そういう依頼でしたけど、その報酬はもうすぐなくなっちゃうんですよ!」
「依頼来ないんだから仕方ないだろう!?」
「なら探しなさいよ先生!」
それなら、とばかりに先生と呼ばれた男は、懐に手をやる。
ほれ、と取りだし投げた巾着は、ジャラリと重い音を立てた。
財布である。
そう理解するなり少女は血相を変え、先生に押しつけた。
「要りませんよ!」
「なんでだ。この私がくれてやるというのだよ!」
「研究費はやらんといったのはあなたでしょうが ! そこからまたもらったりはしないと決めてるんです!」
「くれとか要らんとかワガママだなあ!」
「私にも意地があるんです! そもそも”私に銭”じゃなくて”あなたに仕事"と言ってるんですです!」
ぎゃあぎゃあとけたたましい声が、近所に響く。
押して、押されて、倒されて。
なにか音たつ度に、部屋のどこかで物が落ち、もうもうと埃がたっていく。
その最中、立て付けの悪い戸がきしむ音をたてて開いた。
「先生はいらっしゃって?」
「……お客様?」
「ですね」
動きを止めた二人の間を、透き通った女性の声が響いた。
◆ ◇ ◆
「粗茶ですが」
「わざわざありがとう」
わずかに下げられた頭にそって、黒髪がはらりとこぼれた。
薄絹を被っていて、顔は伺えない。ただ、わずかに頭を下げたときにこぼれた黒髪は、艶やかなものだった。
「いやはや、お久しぶりです」
「あなたもご健勝のようね」
気さくな二人を、少女は意外そうに見ていた。
「ご存じなのですか、先生」
「彼女、三味線の弾き手ですよ。ちょっと教えてもらったことがありましてね」
「そこらのカトンボのほうがいい音を弾きましたね」
「ああ、そうですか……」
うなだれる先生に、弾き手の女がクスクスと笑う。
この女、声からするにうら若いように思える。
しかし顔は目深にり被った薄絹で見えず、唯一見える手は細長い指も白粉を塗ったように真っ白で判別はつかない。
口を開けば出る声は、鈴を転がすような少女にも、しわがれた老婆のようにも聞こえる。
そして所作の一つ一つは、熟れた果実のような艶やかさ。
果たしてこの女がなんなのか、少女にはさっぱりわからなかった。
「あなたに頼みをしたいのですが」
「いや、まあ、ちょっと用事が──」
渋る先生に、少女がにらみをきかす。
押し黙り、ばつが悪そうに目をそらした。
「あら、取り込み中でしたら、また今度にいたしますが──」
「──お受けしましょう!」
答えたのは、少女であった。
目を剥く先生をも押しやり、満面の笑みで答える。
「ちょっとぉ、まだ決めたわけじゃ!」
「さっさと顔を洗ってきなさいな! 行きますからね!」
先生は、うめくことしかできなかった。
◆ ◇ ◆
弾き手によって案内された屋敷は、生い茂る竹藪のなかに埋もれるようにしてあった。
天まで届かんばかりに高い竹藪が光を遮って辺りは薄暗く、そこかしこに空いた大穴も相まって、おどろおどろしい気配がしている。
その惨状は、案内されていても、廃墟であるようにしか思えない。
「おお、まさしくな良いところじゃないか」
先生は一目見るなり、嬉しそうな声をあげた。
嫌気の見える少女にも、嬉々とした笑顔を向ける。
「……ほんとにここなんですか?」
「借家だそうだけどね」
「いや、そういうことじゃ──」
「まぁ、行ってみればわかるさ」
浮わついた足取りのあとを、肩を落としてついていく。
そこに、渋っていた様子は微塵もない。