第三話
両親と旅行に行ったことが千には無い。旅行だけではない。近所の公園に遊びに連れて行ってもらった事も無ければ、授業参観などの学校の行事にも参加してもらったことが無い。両親の事を聞かれて、思い出す事といえば、過酷な修練の日々。
あらゆる武器に触れさせられ、体に武器本来の特性を叩きこまれる日々。斬られ、砕かれ、剥がされ、突き刺され、重火器以外の全ての武器を、その身に受けてきた。全身に付いた細かな傷は、ほとんどがその名残。大人になってから付いた傷も当然あるが、修行で付いた傷の方が遥かに多い。
千が十歳になる頃には、扱えない武器は無くなり、両親に無様に切り伏せられる様な事も無くなっていたが、両親と親子らしい会話をした事はほとんど無かった。
千の両親もまた暴力の渦の中で、生き抜いてきた裏の人間。今でこそ一線を引いた二人だが、その実力は今も健在。その気になれば千を切り伏せる事など容易いはずだ。
人と戦う事しか頭に無い両親だ。家族で出掛けたいと思ったことも無ければ、普通の家族になりたいと思ったことも無い。実の親に殺されかける事が日常の子供が、仲良く両親と手を繋いで遊びに行きたいと思うだろうか。普通だったら思わない。無条件の愛を向けられない以上、無条件の愛を向ける事も無い。
ほとんど会話をしないまま時が過ぎ、《青》とルームシェアをし出してからは一度も会っていない。電話や便箋のやり取りも無いため、事実上の絶縁状態、というのが、今の千と両親の関係だ。それを苦に思った事はないし、連絡をこちらから取りたいと思った事も無い。
連絡を取ってない現状が一番楽でいい、という事だ。
「千ちゃん、ちゃんと聞いてるの?」
ベランダの柵にもたれ掛かりながら、青空を眺めていた千は、視線だけを動かし《青》の顔を見た。困った様な表情で、千の顔を覗き込んでいる。《青》の顔がすぐ横にあるというのは、何とも言えない恐怖を感じさせる。
「顔が近い……」
右手で《青》の顔を遠ざける。何故か踏ん張っているが、千は手に力を入れる事をやめない。
「ちょっ、千ちゃん。話を聞きなさい」
「話は聞くから顔を遠ざけろ」
手の力を抜くと、千の言葉通りに《青》は千と少し距離を取った。パーソナルスペースは適度に守ってほしいものだ。
「で、なんだよ?」
「なんだよ? じゃないわよ! 今日、緋乃とお出掛けするって言ってあったじゃない?」
「だから、準備してあるだろ?」
《青》の顔がまた近づいてくる。千の全身を見つめると、憤怒の表情を浮かべた。
「そんな恰好でどこへ行こうっていうのよ?」
《青》が怒るのも無理はない。千は今、上は長袖のTシャツ一枚だけ。下はジャージ、と外に出ていくにはあまり適さない格好をしている。
千が《青》から視線を外すと、彼の大きな手が千の頭を鷲掴みにした。力任せに首を曲げられ、無理矢理《青》の笑顔と対面させられる。顔は笑っているが、目が笑っておらず、千は思わず引きつった笑みを浮かべた。
「着替えなさい?」
「……はい」
千はベランダから出ると、クローゼットを開けた。ジャージを脱ぎ捨て、Tシャツの上にジーンズ生地のジャケットを纏い、下はデニムを穿いただけのシンプルな恰好。千は、服には興味があまり無い。今着ている服は全て、《青》が見兼ねて買ってきたものだ。様々な服を買っては千に渡してくる《青》だが、肝心の千がそれをコーディネートしようとしないので、現状はあまり変わっていなかった。
「また、そんなラフな格好して……」
「いいだろ別に。楽な恰好がいいんだよ私は」
千の服装問題は、千が強引に終止符を打った。納得してない様な《青》だったが、一度大きな溜息をつくと、彼はもう何も言いませんよ、と思春期の娘を持つ母親の様な足取りで、キッチンへと向かった。シンクに水が流れる音が耳に届く。彼は料理で使った調理器具を洗い出した様だ。
「朝ご飯、そこに作って置いてあるから早く食べちゃってよ。あ、緋乃はゆっくりでいいわよ? そこの女心の欠片も無いガサツ女の事だから」
[ガサツ女って……。まあ間違ってはないけど]
焼いたトーストの上にバターを塗っただけの物を、一生懸命に頬張っている緋乃の横に腰を下ろした。
千も皿の上に乗せられたトーストに齧り付く。パンを数回噛んだ後に飲み込むと、コップに注がれた冷たい牛乳で口の中を潤わせる。
横で食事をしている緋乃を拾ってから、一週間が経とうとしていた。彼女の体に付けられた痣は、まだ消えていない。痩せ細っていた体も多少肉は付いてきているが、同年代の子供と比べればまだまだ細い。
最初は、少しの量を数回に分けて食事する事しかできなかった緋乃も、一回の食事で人並みには量を食べられる様になってきている。最初を思えば、緋乃の体は良い方へと向かっているのではないだろうか。千は微笑むと、トーストに再び噛り付いた。
トーストを食べ終えた緋乃が、皿とコップを持って《青》がいるキッチンまで歩いていく。それを横目に見ながら、千はコップに口を付けた。牛乳を口に含むと、二人の会話に耳を傾けた。
「……前田。お皿持ってきた」
「え……あ、うん。ありがとう緋乃」
思わず牛乳を吹き出しそうになる。ギリギリの所でせき止めた牛乳を飲み込んだ。トーストを齧りながら、視線を感じて振り向くと、《青》が鬼の形相で千を見ていた。
どうやら、緋乃が《青》の事を彼の本名である前田と呼ぶのは、千のせいだという事らしいのだ。緋乃がこの部屋に初めて来た時に、千が深く考えずに口にした彼の本名。それをどうやら緋乃は覚えていたらしい。彼が働く店で使っている名前、キャサリンや《青》の通称は全てスルーして、緋乃は本名である前田剛二から名字だけを抜き取り、親しみを込めて呼んでいるのだ。
千は慌てて《青》から目を逸らした。急いでトーストを食べ終え、牛乳も一気に飲み干した。皿の上にコップを重ね、千もキッチンへ。
「《青》。今日も良い焼き加減だった。相変わらず最高だったよ」
震えた手で、《青》は皿とコップを受け取った。怒りに満ち満ちた表情。怒髪、天を衝くとは正にこの事だろう。千が何か取り繕おうと言葉を探していると、緋乃が千のジャケットを引っ張った。
嫌な予感がする。この純粋で幼い口は何かを言おうとしている。可愛らしい声で何を言い出すのだろうか。千は息を呑んだ。
「……千ちゃん。前田、怒ってる?」
今、一番《青》が聞きたくない言葉。「千ちゃん」という呼称をたった今、緋乃は口にした。
「千ちゃんばっかりずるい! 私もちゃん、って付けてほしい」
「……前田ちゃん?」
「違うのー。本名は嫌なのー」
千は緋乃を連れてキッチンから離れた。絨毯の上に緋乃を座らせ、その前に千も腰を下ろす。
「緋乃。《青》の事は《青》ちゃん、って呼んでやれ」
「……前田は前田だよ?」
「確かにあいつは前田剛二だ。だけどな、《青》ちゃん、って呼んでほしいみたいなんだよ」
「……でも前田だよ?」
「だからな。あいつは《青》って言う」
「前田だよ?」
「前田だな」
千は諦めた。意外と緋乃は頑固だ。
すまん《青》。私には無理だ……。
「きゃっ!」
《青》の悲鳴と共に、食器が割れる甲高い音が響き渡る。不意に鳴る高音には、さすがの千も心臓が飛び出そうになる。キッチンの方へと振り返ると、彼の丸まった背中が見え隠れしていた。それは小さな丘の様だ。
「何やってるんだよ。びっくりするよな、あけ……の……?」
緋乃は耳を塞いでいた。小刻みに震える体。回数を追う毎に激しくなる呼吸。怯えた表情は年頃の少女がする様な類のものではなかった。命の危険が常に差し迫っている様な、戦場に丸腰で立たされ続けている様な、そんな表情。千が幼少期に鏡越しに見た、自身の姿と重なった。
目の前の少女を見て、千は本当に少しの時間、考えた。今、この少女が求めている事はなんだろうか。今、この少女の不安を取り除いてやれる方法は何だろうか、と。
短い時間の思考は、答えを生み出す事は無かった。どうしていいかは分からない。ほとんど無意識だったかもしれない。
千は、緋乃を抱き抱えた。背中をさする。しばらく、そうしていると緋乃の呼吸は正常に戻った。体の震えも落ち着きを取り戻していく。
顔を上げた緋乃と目が合う。千は笑みを作ろうとして失敗。変質者と思われかねない歪な笑顔を披露した。不細工な笑顔を見て、緋乃は口を開けて呆けていたが、どうやら安心はしてくれた様だ。千は、ほっと胸を撫で下ろす。
皿を片付け終えた様子の《青》が、キッチンから顔を出した。
「ごめんなさいね! 千ちゃんへの憎悪が積もりに積もって。……あんた達、何してんの?」
怖いわ。
「何って、ポイント稼ぎ?」
「ちょっと、抜け駆けはずるいわよ」
「ほら、さっさと準備しろ。《青》が遅いせいで、緋乃が前田を嫌いになりつつある」
「は、早く準備するわ!」
緋乃を抱き抱えながら立ち上がる。緋乃は千の胸に顔を埋めていた。両手は千のジャケットを掴んで離そうとしない。
この少女の中には濃密な恐怖がまだ植え付けられている。小さな篝火では届きそうにない程の根強い闇が、少女の心に根付いている。虐待がもたらした災厄は今、この瞬間も緋乃の心を蝕もうとしているのだ。改めて、その事を実感させられた。