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第二話 三

 午後十一時を回った頃、千は眠る緋乃を起こさないように部屋を出た。《青》は仕事で外出中のため、送迎は無い。徒歩で現場へと向かうことになる。


 幸いアパートからの距離はそう遠くない。千は一度、携帯電話を開き、時刻を確認すると胸ポケットにしまった。腰にベルトで括り付けたナイフのシーフに一度触れると、千は部屋の鍵を閉めた。


 二十分程、歩いた先に少し薄汚れた鼠色のマンションが目に見えた。全三十二室の八階建てのマンション。ここが今回の仕事場。セキュリティは甘く、防犯カメラも無ければ、オートロックなどの機能も無い。千は隠れる事なく敷地内に入った。階段を悠然と上っていく。階段の段差が割と高く、七階まで上がっていくのは骨が折れる。


 千が七階に到達した時、どこかの部屋の窓が勢いよく開いた音がした。


「元気すぎるのも問題だな」


 開いた窓の音に千は苦笑した。相変わらず悠然と廊下を進んでいく。部屋番号が明記された表札を一つずつ確認していき、七〇三の前で足を止めた。


 扉のノブを回す。鍵は開いているようだ。静かに扉を開け、土足で部屋に侵入する。


 最初に千を迎えたのは脱ぎ散らかされた靴の山。靴を靴で踏み付け、山を越える。短い廊下を進み、左側に設置された扉を開ける。一歩奥へ進むと、そこはダイニングキッチンだった。


 照明は付いておらず、目の前の光景を一言で片付けるのならば、ゴミ屋敷だろうか。積み重なる様に置かれた、ゴミ袋の山。足の踏み場は見当たらず、すぐに探すのをやめた。


 キッチンシンクには洗われずに放置された食器が溢れかえっている。蠢く黒い虫が食器に張り詰めているのを見て、視線を引き戸に移した。と言ってもどこに目を向けてもゴキブリは存在した。一匹いたら百匹いるというのは本当のようだ。


 《青》に渡された情報が確かなら、引き戸の先には十二帖の洋室があるはずだ。千は引き戸に向かって歩き出した。足の踏み場はないので、ゴミ袋の上を歩いていく。


 ゴミ袋を踏み潰すたびに、中身が勢いよく外へと放たれた。異臭がさらに強くなっていく。緋乃を拾った時もかなり臭ったが、この空間はそれ以上だ。


 五つ目のゴミ袋を踏み潰したところで、ようやく引き戸にたどり着いた。引き戸に手を掛け、ゆっくりと右にスライドする。


 目の前にあるのは確かに十二帖の洋室。だが、この部屋もかなり散らかっている。ゴミ袋の山が積まれているわけではないが、それでも世間的に見れば十分に汚いと言えるレベル。


 部屋中に散乱した服と男物の下着。ゴミ箱から溢れているのは大量のティッシュペーパー。どれも全て使用済み。度重なる射精がもたらした結果。切り落とされた大樹のなれの果て。部屋に満ちた精液の香りからしてほとんどが自慰行為によるものだろう。


 確か、この部屋には男性が一人で暮らしているはずだ。男の一人暮らしならばこんなものか、と半ば無理矢理納得する。


 現実から目を背ける様に部屋の中を物色した後、視線はベランダへ。背けていた現実へと目を向けた。開いた窓。部屋へ絶え間なく流れ込む風が、カーテンを靡かせる。天空を統べる竜の尾の様に翻るカーテンの向こう側。


 月夜が照らすベランダに一人佇む女。ワインレッドのドレスに身を包み、風にスカートを煽られる姿は、童話から飛び出てきた姫君の様だ。


 清楚な見目麗しい外見。この世に蔓延る悪意とは無縁な、穢れない純真無垢な瞳。地上へ向けられる寂寥の眼差しは、庇護欲を駆り立てる。


 これが女を一目見た千の感想。


 だが、現実は残酷だ。千の第一印象を悉く否定する。


 ベランダに佇む女は、千の存在に気付くと様子が一変したのだ。


 太股から取り出された拳銃、清楚には程遠い醜い笑顔、映画で見掛けるゾンビの様な呻き声。女は狂気を宿した笑顔のまま、首を横に傾けた。


「だーれ?」


 幼い声で目の前の女は言った。予想以上に声質は若い。小学生と言っても通じるかもしれない。そんな事を思いながら、千は苦笑した。


「仕事が早いな、《大蛇》」


 千の言葉を聞くや否や、女は拳銃を構えた。銃口が千に向けられる。


「あなたはだーれ?」


 女の声に明らかな動揺が混じる。ベランダの柵に縛られたロープを隠すために女は一歩横に移動した。今更そんな事をしても、もう手遅れだと女も分かっているだろうに。


 ベランダに縛られたロープは地上へ向けて既に垂れてしまっている。ロープは常に下方向に向けて何かに引っ張られていた。ロープの先に繋がっているのは、この部屋の住人だと考えるのが自然だ。この部屋は七階。地上まで約十メートル。既にこの女の依頼は完遂されていると考えていい。


「私の質問に答えて?」


「私もお前と同じだよ。この部屋の人間を殺しに来た」



 お前をな……。



 千の言葉を聞いた途端、女は勝ち誇る様な嘲笑を千に向けた。嘲笑を向けられた事に対しては何の感情も抱かない。


 だが、次の女の行動には動揺を隠せなかった。千に向けていた拳銃を下ろし、あろうことか、太股に括り付けてあるホルスターに収納したのだ。さすがの千も思わず、事態を呑み込むのに僅かばかり時間を要した。


 舐められているのだろうか。それとも、同業者は皆、兄弟だとでも思っているのだろうか。それとも。


「あなた同業者なのね。私の名前をいきなり言うんだもの。驚いてしまったわ。でも残念。ここに住んでいた男なら、もう死んだ。あなたが来る、少し前にね」


 やはりこの女は《大蛇》で間違いない。千は不自然に思われないように、表情を作った。満面の笑みではなく、口角を少しだけ上げ、軽く目を細めた気障な微笑み。少し不自然だろうか、と不安になる。


 目の前の女は、千に敵意が無いと判断したのか、警戒を少し緩めた。驚くほど単純なのか、演技なのか。


「そうか。一応、死体を確認したいんだが」


「ええ。構わないわよ。御覧なさいな」


 千はベランダへと歩き出した。常に警戒は、し続ける。拳銃以外にも刃物を隠し持っているかもしれない。いざとなれば、咄嗟に対応するしかないのだ。気を緩める事は出来ない。と言いつつも、体は常に脱力を心掛ける。無駄な力は、蛇足だ。力みすぎれば本番で、重大なミスを犯しかねない。若いとはいえ、目の前にいる女は既に、いくつもの仕事をこなしている正真正銘のプロだ。


 不自然な足取りにならないように心掛けていると、《大蛇》は全くの無警戒でベランダからこちらに向かって歩いてくる。疑問符が浮かびそうになるが、千と《大蛇》はすれ違った。奇襲も無く、千はベランダへと一歩踏み出した。罠が無いか素早く確認する。一見、罠らしき物は無いが、あまりベランダへ出るのを憚っていると怪しまれるため、千はベランダの奥へ。ロープの先を確認する。


 男性の頭が真っ先に見え、それから体。ゆらゆらと浮かぶ死体は、外から見たら、マンションで無残な死を遂げた怨霊のように見えるだろうか。


 背後から襲われる事もなく、千は洋室でこちらを嘲笑うかのように、見ている《大蛇》へ目を向けた。


 その表情の意味を考えるより先に、千は跳躍。視認するのが難しい細いワイヤーが千の足元を通過する。月明かりに照らされたワイヤーは、ハッキリと千の視界に捉えられる。楕円上の輪が形成されており、丁度千の腕と腰を合わせた程の大きさの輪は千を縛り上げる事なく《大蛇》の下へと帰っていった。


 《大蛇》の手にはいつの間にか、自身のワイヤーで怪我をする事の無いように皮の手袋がはめられていた。


 千は柵の上に着地すると、感情を取っ払った目で《大蛇》を見た。


「勘がよろしいのね」


「お前は、間抜けだな」


 《大蛇》の顔に少しばかり、怒りの感情が灯る。太股から拳銃が再び抜かれた。どうやら、拳銃を一度しまったのは千を油断させる為のものだったらしい。柵から降り、素早く部屋へ戻る。後ろ手で窓を閉め、遮光カーテンで月明かりを遮ると、千は女に向かって突進。


この部屋の照明は付いていない。唯一の光源であった月明かりも遮断した。僅かな時間だが、暗闇と同化できる。《大蛇》の目を欺けるはずだ。それは千も同じではあるが、暗所でもそれなりに動ける自信があった。


 腰に付いたナイフを右手で引き抜き、《大蛇》の喉元を掻き切る様に、横一直線に薙ぐ。だが、手に肉を切った感触が残らない。ナイフが空を切った実感が確かにあった。躱されたのだろうか、という疑問は闇の中では確認することが出来ない。心に宿った動揺を舐める様に、左腕に何かが絡みつく。


 左腕が左方向に引っ張られる。腕が千切れるのではと錯覚するほどの力で。巻き付いているのは感触的にロープの様な物。千は両手でそれを力任せに引っ張った。力が均衡しているのか、腕に巻き付いたそれは、常に左方向に力が働き続けている。


 目が暗闇に慣れてきた。微かに見える、綱の様な物が左腕に絡みつき、その先にはドレスの様な影。《大蛇》はこちらに体を向けている様にも見える。千の腕を正確に狙ってきたことといい、《大蛇》は見えているのかもしれない。暗闇でも熱源探知できる第六感器官を持つ、蛇のように。


「間抜けはあなた。わざわざ私の狩り場に足を踏み入れるなんて。間抜け以外の何者でもないわ」


 愉快そうに笑う《大蛇》の声。徐々に体が《大蛇》の方へと引き摺られていく。均衡していた力関係が崩れようとしている。清楚な見掛けに惑わされそうになるが、想像以上の膂力。気を抜けば一瞬で絡み取られる。


「そこの男を殺す依頼を引き受けてしまったのが、あなたの運の尽き。それがあなたの限界。その程度の運命だったの。でも、良かったわね。最期の最期に私という存在を一目見ることが出来た。最高のハッピーエンドね、あなた」


 眼前の女は勘違いをしていた。その勘違いに気付いていない。気付くことはこの場では決してない。千は愉快そうに口を歪めた。


「なあ、私はお前と争うために来たわけじゃない。見逃してくれないか?」


「それは出来ないわ。私の事を知ってしまったし、あなたは私の事を知っていた。あまり情報を漏らす訳にはいかないの。あなたにはここで死んでもらうわ」


「今、私をここで殺せば、先ず疑われるのはお前だ。私はお前の情報を持っていた。ここで私を殺せば、お前の情報は間違いなく売られる。それでもいいのか?」


 千は視線を動かさず、俯瞰で足元を確認する。細かくは見られないが、構わない。


「その時はその時よ。死ぬ時の事なんて考えてないわ。殺せれば私は幸せ。特にあなたの様な綺麗な顔をした若い女を殺す瞬間が一番たまらない。私より美しい女なんていらないのよ」


 もう少し。あと少し。


「そうか。それは大変だな」


「……何が?」


 千は左足を振り上げた。足下にあるのはティッシュが山積みになったゴミ箱。


「お前は地球の女全員、殺さなきゃいけないってことだよ!」


 左足でゴミ箱を蹴り飛ばした。ティッシュペーパーと共にゴミ箱は、《大蛇》にぶつかった。大量のティッシュペーパーが彼女の全身に散らばる。腕に絡みついていた物が僅かに緩む。千は力任せにそれを引き剥がす。間髪入れずに、千はナイフを構えようとした所で、千は目の前の光景を見て動きを止めた。


《大蛇》の顔に付着した一枚の丸まったティッシュペーパー。まだ使用されて間もない様だ。《大蛇》はそれを右手で取った。そのティッシュには、乾ききっていない精液がべっとりと付着していた。


「いや……いや……いやよ……いや。汚い……。怖い怖い怖い。怖いよ……。助けて、ママ、パパ」


 ティシュを無造作に放り投げると、《大蛇》はその場でしゃがみ込んだ。耳を塞ぎ、体を震わせている。歯がガチガチと歯ぎしりし、髪を乱している様子は、プロの殺し屋とはかけ離れた姿だった。


 無色透明の殻にでも閉じこもってしまったかのような《大蛇》の下へと歩いていく。千の存在に目を向ける事も無い。戦意も失われてしまったようだ。涙を零す瞳は、どこか遠い場所を見つめている。千は《大蛇》の首にナイフを押しあてた。


「ママ? ……助けてママ」


 怖い夢を見て親に泣きついている子供。そんな顔だった。


 その顔を見ても、特に何も思うことは無い。心を苦しめることもない。


「私はお前を生んだ覚えはない。蛇はさっさと冬眠でもしてろ」


 押し当てたナイフを勢いよく手前に引いた。首の肉を切った感触が手に伝わる。動脈を断ち切り血飛沫が引き戸に飛び散った。


 崩れ落ちる様に床に伏した《大蛇》の頭を足のつま先で小突き、顔を自身の方へと向ける。


 鼻水や涙で、醜く汚れた顔。白目を剥いた瞳のせいか、その顔は美しさとは掛け離れたものとなっていた。


「運が無かったな。私は『同業者狩り』だ」


 千は同業者からは基本的には二通りの名で呼ばれる。「同業者狩り」もしくは、「殺し屋狩り」と。殺し屋を殺す殺し屋。プロの同僚殺し。それが千の仕事。


 千は部屋を後にし、アパートへ向けて歩き出した。遠くでサイレンが鳴っている。千はポケットに手を突っ込むと、空に向かって息を吐いた。


 冬が近づいてきている。冬眠の準備を怠った《大蛇》は永遠に眠りについた。そんな童話があったな、と思いながら家で眠っているはずの緋乃に思いを馳せる。今度、絵本を買ってやろう。《青》に聞けば、知っているだろう。


 早く、帰ろう。


 千は少し早歩きになっていることに気付かないまま、アパートへと帰っていくのだった。

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