第二話 二
部屋に帰った千が見たものは、乾いたタオルで布団を一心不乱に叩いている《青》と、彼と同じく、タオルで布団を叩いている緋乃の姿があった。
二人が叩いている布団は千が普段から使っている物だ。
その布団に出来た大きなシミ。円形に出来たそのシミを二人は乾いたタオルで叩いて、水気を取っているようだった。
「ただいま」
緋乃の体が、ビクッと跳ねた。緋乃が千に見えないように背中を向け、目を擦ると、《青》に背中を押される形で振り返った。
窺うように千の表情を覗き、目が合う度に逸らされる瞳。彼女の赤い瞳は右に左に泳ぎ、一か所に定まらない。表情は緊張のせいか固く、全身が微かに震えている。まるで千が脅迫している様にも見えなくもない構図であった。
「何があったんだ?」
千は膝を折り、緋乃の目線に高さを合わせた。緋乃の定まらない視線を無理やり合わせる。
「……おねしょ」
「おねしょ……」
布団に出来たシミ、乾いたタオル。シミを叩く二人。全てが繋がる。
基本的に緋乃には千の布団を使わせている。おねしょしたとなれば、千の布団にしてしまうのは必然。その事に怒りも悲しみ無い。
だが、どうすればこの少女を安心させてやれるだろうか。方法が思い浮かばない。小さい子供の面倒を今まで見たことは無く、幼少期から大人にばかり囲まれて育ってきた千だ。しかも、子供は苦手な部類に入る。
千が黙っていると、緋乃の顔は更に曇った。涙が目尻に溜まり、今にもこぼれ落ちそうになっている。
千は無言で立ち上がると、机に畳んで置いてあるタオルを手に取った。
「緋乃」
棘が無いように意識して紡いだ優しい声。千の精一杯の努力。
その声を聞いた緋乃は、手に持っていたタオルの力を緩めた。体の震えも鳴りを潜めた。
「私達は、おねしょしたくらいじゃ怒りはしない。お前がおねしょしたなら一緒に拭いてやるし、朝になったら干してもやる。だから、そんなに落ち込むな。お前をここに置いておくって決めたのは私達だ。なんでも言っていいんだ。私たちは対等だからな」
緋乃の頭を一度撫でると、千はタオルでシミを叩きだした。気恥ずかしさから向き合い続ける事は出来なかった。
シミを叩いていると、背中に軽い衝撃。何かが重なる様に千の背中に乗った。背中に熱いものが伝わってくる。鼻を啜る音と、嗚咽。肩から見える緋乃の頭を千は優しく撫でた。微笑を浮かべながら。千の表情を見て《青》もうっすらと笑みを浮かべた。
どのくらいの時間、親子亀の様になっていたのかは分からないが、緋乃は千の背中から離れた。千と《青》の間に陣取ると、一緒になって布団を叩き始めた。
三人で叩きまくったおかげか、水気はかなり取れ、大人二人はキッチンからスプレー缶を持ち出した。消臭成分が含まれた殺菌スプレー。
先ずは大人二人が布団に向かって、噴射。ミストが大気中に噴出。ミント系の香りが部屋に漂った。
その光景を見ていた緋乃は僅かに口を開き、チラチラと千の持つ殺菌スプレーを見ている。表情が動かないせいで分かりづらいが、興味津々なようだ。
「緋乃、一緒にやるぞ」
緋乃にスプレーを持たせ、緋乃の手に重なる様に千は手を添えた。ノズルを引き、噴射口からミストが放たれると、千を見た。もう一度やれ、と催促しているのだろうか。千はもう一度ノズルを引いた。
「おー」
表面的には分かりにくいが、驚いているようだ。それを見て千は顔を綻ばせた。もう一度ノズルを引いてやる。
「おー」
また緋乃は驚いた。ただ、スプレーを噴射しているだけだというのに緋乃の目には新鮮に映っているようだ。もう一度だけ緋乃の驚く顔が見たくて、千はノズルを引いた。
「おー!」
今までで一番の驚き。千の顔は緩みまくっていたが、《青》と目が合うと表情を戻した。気の抜けた顔など《青》には見せたことがない。日常においても必要最低限の会話しかせず、仕事でも必要な会話以外はほとんどしない。
自分はどうしたのだろうか。笑いの沸点が低くなっている気がする。
少し考え、緋乃を見た。この少女に影響されたのだろうか。この少女を拾う前ならあり得なかった光景だ。この少女の影響と考えるのが自然なのだが、それを認める事は何故か納得出来なかった。
この少女に心の在り様を変えられつつある。それが何だか悔しくて、千は心の中で否定した。
「殺菌は終わりよ、二人とも。まだ外は暗いし、干すのは日が出てからね」
緋乃の手からスプレーを取り上げると名残惜しそうに見つめていたが、無視。することは出来ず、一度だけスプレーを噴射させた。《青》から咎めるような視線が飛んできたので、緋乃からスプレーを、今度こそ取り上げた。
「千ちゃん。今日の仕事だけど、そこに資料置いてあるからよろしくね」
《青》が指差す方へと目を向けると、茶封筒が机の上に置いてあった。B5サイズのコピー用紙が数十枚。千は封筒からコピー用紙を全て取り出すと、封筒を机の上に置いた。そこに書かれているのは、ある殺し屋の情報。
目標を締め落とした後ロープを首に掛け、窓の外から突き落とす。薬物も刃物も使用していないため、全てが自殺として処理される。自殺に見せかけた他殺。それが殺し屋《大蛇》のやり方。本名は不明。国籍も、年齢も不明。使用する武器も不明。既に分かっている事は若い女性だという事だけ。
「ほとんど不明なんだが」
「ほとんど情報が無い殺し屋なのよ。大きな後ろ盾があるのか、個人の能力が高いのか分からないけど。それだけ集めるのも結構大変だったんだから」
「依頼が来たなら情報が少なかろうが、やるだけだ。問題はない」
「気を付けてね。寝首を掻かれないように」
「嫌な事いうなよ」
千は先ほどまでの穏やかな笑みではなく、皮肉めいた笑みを浮かべると、千はコピー用紙を茶封筒に戻した。
居間から出ていこうとした矢先、千の足に小さな存在が抱き着いてきたことで歩みを止めた。緋乃の赤い瞳が見上げてくる。
「どうした?」
千が頭を撫でると、緋乃は僅かばかり目を細めた。
「千ちゃん……ありがと」
不意に感動が込み上げてくる。表情が緩みそうになるが、《青》がニヤニヤしていたので短く咳払い。緋乃を足からそっと引き剥がす。
「どういたしてまして」
居間を出ていった千は、脱衣所に入ると表情を緩めた。少しだけ口角を上げる。やはり、自分は変わったかもしれない。そう思いながら、緩んだ表情のまま鏡に映る自分と視線を交錯させた。