四十三
《青》と緋乃は七時に起床。朝食の準備を開始し、さっさと食事を済ませた。その三時間後に千と華茄は起床し、眠気眼のまま脱衣所へと向かい、冷たい水で顔を洗顔。顔に付着した油や目脂と共に眠気を洗いながし、午前十時過ぎに千と華茄は朝食を食べ始めた。
「すみません、朝ご飯のお手伝いもせずに呑気に寝てて」
「良いのよ、華茄ちゃんはお客さんなんだから」
申し訳なさそうに味噌汁を啜る華茄は「美味しいですね、この味噌汁。《青》さんが作ったんですか?」と質問し、その問いを聞いた緋乃が大きな目を僅かに見開いた。読んでいた絵本から手を離し、華茄が着ているジャージを柔い力で引っ張り始める。
「……美味しい?」
「うん、美味しいよ」
「……これは?」
そう言って緋乃が差しだしたのは小皿に敷かれた紫蘇の葉の上に厚焼き玉子と大根おろしが乗せられている緋乃渾身の一品。大根おろしに醤油を垂らし、華茄はそれを厚焼き玉子の上に乗せた。一口大に箸で切り、卵焼きを口へと運ぶ。
その様子をマジマジと見つめる緋乃を見て、千は内心で首を傾げた。
何で緊張してんだ、こいつ……。
そんな事を思いながら、味噌汁を啜り、白米を口に運ぶ千は緋乃にじっと見つめられ、居心地悪そうにしている華茄を横目で見た。
卵焼きを飲み込んだのか、華茄の喉が動く。その数秒後に華茄は口を開いた。
「この卵焼きもすっごく美味しいね。大根おろしのおかげでさっぱりしてるし、朝は食欲あんまりないから助かるなあ」
次々に卵焼きを口に運び、あっという間に完食した華茄を見て、緋乃はどこか弾んだ様子で再び絵本を手に取り、読書を再開した。表情は相変わらず無表情な為に緋乃の行動の意味が分からず、華茄は暫し首を傾げ、ぽかんとしていたが、《青》が苦笑しながら説明を始めた。
「今日の朝ご飯も全部、緋乃が作ったのよ」
「あ、それで……」
緋乃の行動の意味を理解したのか華茄は数回頷き、再び味噌汁を啜った。
「この前、千ちゃんが照れて味の感想をはぐらかしたもんだから、気になってしょうがないの」
「ああ、また梅村さんのへそ曲がりのせいなんですね」
「へそ曲がりじゃねえよ。それに、後から美味しいって言っただろ」
「この通り、千ちゃんは何も分かってないのよ」
「なるほど……そういう事ですか。これは緋乃ちゃんも大変ですね」
目を合わせ、納得した様子の《青》と華茄は互いに鼻を鳴らし、呆れたように冷ややかな目で千を見た。
「どういう意味だよ、それ」
向けられる冷眼に納得いかず、千は唇を尖らせながらも白米を口にすべて運び、味噌汁で流し込んだ。卵焼きも一口で完食すると、その場を立ち上がった。
「一時間後には家を出るからな。準備しておけよ」
苛立ち混じりに言った千に対し、二人は笑顔で対応。リビングを出て、脱衣所に向かう千に終始笑顔を向け、彼女が脱衣所に消えた瞬間に二人は笑顔を解いた。
「この通り、緋乃が美味しいって言ってほしいのは千ちゃんだけだって事に全く気付いてないのよねえ」
「本当に素直じゃないんですね」
「そうなのよ。少しは素直になったかと思えば……。ちゃんと美味しいって言ってほしいだけなのにねえ」
冗談めかしてではなく、素直に美味しいと言ってほしいだけ。ただ一言『美味しい』と緋乃は言ってほしいだけなのだが、冗談という建前が無ければ、千は口には出来ないのだろう。
だから、緋乃は千が言った美味しいという言葉を冗談だと思い込み、華茄に確認したのだ。千が素直に美味しいと言わない理由は味に問題があるのではないかと思い込んで。
「本当にそういう所は成長してないんだから」
「でも、本当に美味しかったよ、緋乃ちゃん。自信持ってね」
「……ありがと」
全く気にしていないかのように淡々と口にした緋乃は絵本を次ページに進め、すぐに没頭し始めた。だが、一瞬だけ《青》と華茄を一瞥した後に緋乃は絵本の縁を強く握り締めた。
「……今度は頑張るね」
「ええ、一緒に頑張りましょう緋乃」
「頑張ってくださいね、二人共」
無反応の緋乃の頭を《青》は撫でた後に千が食べた朝食をシンクへと運び、蛇口から水を流す。そのすぐ後に華茄が自身の食べ終えた食器をシンクに運んだ後に自然と布巾を手に取り、《青》が洗い終えた食器を乾拭きし始めた。
その事に礼を言いつつ、《青》は次々と食器を手渡していく。
「一つ聞いてもいいですか?」
「どうぞどうぞ。答えられる質問なら何でも答えるわ」
「梅村さんのお父さんってまだ生きてるんですか?」
自然と食器を手渡す速度が緩やかになりつつも、《青》は正直に答えた。
「調査中、といった所かしらね。生きているのか死んでいるのか、私にも分からないの。……千ちゃんから聞いた?」
華茄は首を振り、暗い表情を食器に映しながら、答えた。
「いえ、《累》が言っていたのを聞いて知りました。でも、あの時の梅村さんの表情が忘れられなくて。怯えた子供みたいな表情で私達を見てたから……」
「……杠という人格には会った?」
「はい、会いました。梅村さんを守る為に生まれた存在だって」
「千ちゃんもね。何度も自殺しようとしているのよ」
「え?」
「分からなくなってしまったのね。尊敬していた両親に裏切られて、初めて命を奪って、自身の存在意義を見失ってしまったの。だから、千ちゃんは死のうとして、でも結局死ねなかった」
「どうして……ですか?」
「止めてくれた人がいるからよ」
優しく穏やかに《青》は苦笑しながら言った。
「《青》さん、ですか?」
「いえ、私だけではないわ。千ちゃんのお母さんがずっと止めてくれていたの」
最後の食器を華茄に渡し、《青》は水を止めた。
「けど、自殺を止めたことが結果的に千ちゃんの精神をより不安定にしてしまった。だから、千ちゃんは自分を守ってくれる最強の自分を作り出し、その結果、千ちゃんは立ち直る事ができた」
《青》はシンクに背を預け、緋乃に背を向けながら話をつづけた。
「華茄ちゃんが見た怯えた様な表情っていうのはね、千ちゃんの心の傷そのものなの。千ちゃんの心の傷は癒えたわけじゃないのよ」
「……梅村さんも言ってました。心の傷は癒える事はあっても、完全に消える事はないって。だから、受けた傷がぼやけるくらいに大切な何かを見つけられるといいなって」
「そんなことを千ちゃんが?」
「はい。でも、《青》さんと緋乃ちゃんと話してる時の梅村さんを見てたら分かります。梅村さんの傷をぼかしてる大切な何かが何なのか」
華茄は緋乃を見て、《青》を見て、最後に部屋全体を見渡しながら言った。どこか誇らしげにも見える優しい笑みを浮かべて、華茄は悠然と息を吐く。
「そうであってくれると嬉しいわね」
華茄を横目に見ていた《青》は瞑目し、頤を下げると小さな笑声を上げた。
「絶対そうですよ。そうに決まってます」
「そういう事にしちゃいましょうか。さあ、華茄ちゃんは準備しちゃいましょう。鬼の居ぬ間にね」
目を開き、華茄と視線が重なった瞬間に相好を崩した《青》はキッチンから離れ、華茄を引き連れて、寝室へと向かった。
きっと、真の意味で千の心の傷を癒し、ぼかしているのは緋乃のおかげだ。彼女の存在が千を守られる側から守る側に変化させた。その変化が彼女の人生観を大きく変化させる事に繋がった。この変化が彼女を癒す最も大きな要因になった。
きっと、そういう事なのだろう。
千が杠を頼らなくなる日は近いのかもしれない。
彼女が本当の意味で自立する日はそう遠くないかもしれない。
《青》は口角を僅かに上げながら、クローゼットの扉を意気揚々と開いた。
「さあ、着替えましょうか。華茄ちゃん?」




