四十二
「余程疲れていたのね、もう寝ちゃったわ」
「だろうな。結構引っ張り回したし、何度も死体を見る羽目になったからな」
「そう……。少し後悔してるわ、華茄ちゃんの依頼を引き受けたこと」
「どうして?」
麦茶を飲み干した千は華茄の飲みかけのコーヒーに手を伸ばし、それに口を付けた。
「この依頼を通して華茄ちゃんの価値観が結果として歪んじゃった気がするのよ。人が殺される事に慣れてしまった。いや、慣れさせてしまったって言う方が正しいかしら」
「……まあ人の死に慣れたのは確かだな。親友二人に、身近な人間の死体をこうも立て続けに見れば、さすがに慣れる。まあだが、あいつは大丈夫だろ」
「どうしてそう言い切れるのよ」
「あいつ、杠に殺されそうになった《累》を庇ったんだ。私が依頼したのは梅村千だからって杠に刃を向けたんだ」
千はジャージのポケットからカッターナイフを取り出すと、ガムテ―プが巻かれた部分を手に持ち、カッターナイフの刃を《青》に向けた。まるでその状況を再現するかのように。
「あの状況であいつは正しい事を言えた。杠に負けなかったんだ、あいつは。だから、大丈夫だ。あいつはこれからも自分の信じた道を進んでいける」
憧憬するようにカッターナイフを眺め、千は口角を優しく上げた。その羨望の眼差しを見て、《青》も自然と口角を上げ、無意識に微笑んでいた。
「それよりも、お前何か言いたそうにしてただろ。パソコンに何かあるのか?」
パソコンを指で突きながら、千は言った。
「え? ああ、千ちゃんが言ってた画像のモザイク除去が終わったんだけど、華茄ちゃんに見せるべきかどうか少し悩んでたから」
そう言いながら、《青》はノートパソコンを手前に引き寄せ、開いた。ロック画面を外し、表示された画像を千に見せる。その画像を見た瞬間に千は動きを止め、呼吸すらも止めているのではないかと思える程に微動だにしなくなってしまった。
そして、無理矢理に上げたせいか歪な形になっている唇が、震えた声をリビングにぽつりと落とした。
「そういう事かよ……」
中年男性が写っている写真から、若い男性の写真を次に表示させると千は忌々しい物を見る様な目で写真を射殺す様に見て、舌打ちを鳴らした。
「なにか分かったの?」
「ああ」
立ち上がった千はリビングを出て行くと、黒いボイスレコーダーを手に持って現れ、それをすぐに再生した。聞こえてくるのは《累》と久保ゆきの会話。その会話を聞けば、久保ゆきが脅しに使用した写真が自ら用意した物ではないという事が容易に分かる。久保ゆきは匿名で送られてきたメールに添付されていた写真を使用して、宍戸瑠璃を脅迫したという事も、すぐに分かる。
そこまで判明すれば、脅しに使われた援助交際の写真とやらが何なのか、即座に答えにたどり着く事が出来る。
間違いない、この二枚の写真だ。モザイクが施された状態のこの二枚の写真を使用して、久保ゆきは宍戸瑠璃を脅迫していたのだ。その事実に、《青》も千もようやくたどり着く。
「こいつらが宍戸瑠璃を久保ゆきに売ったって事だ。その結果が宍戸瑠璃の自殺に繋がり、私達や《累》が動く破目になった」
「どうするの?」
「どうもしないさ。私達は依頼があるまで何もしない。それに……」
「それに?」
「あくまで私の憶測だが、おそらくこいつらには明日会える。それが私の勘違いだったとしても問題はない。こいつらの名前も居場所も知ってる。殺そうと思えばいつでも殺せる」
「この二人を知ってるの?」
千は携帯を取り出し、ノートパソコンに表示された画像と同じ画像を開いた。携帯に表示されている画像にはモザイク処理が施されているが、二つの画像が同一の物である事は火を見るよりも明らかだ。
「この画像を送って来た奴だ。高原樹とその父親。高原敦久で間違いない。商店街で精肉店やってるんだが《青》も見たことくらいあるだろ」
それを聞いて、《青》も思い出す。この写真に写る人物を今朝見た事に。
「ああ、今日華茄ちゃんを送る時に見たわ。気が強そうな奥さんと話してた男の人じゃないかしら」
「は? 母親は脳梗塞で倒れたって聞いてるが……」
「そう言われても、普通にピンピンしてたわよ」
「へえ。こりゃ、とんだペテン師だったかもな」
不敵な笑みを浮かべる千はまだ湯気が立っているコーヒーを口にした。《青》は画面が表示されたままのノートパソコンを閉じ、スリープモードに切り替えると自身のマグカップを手に持ち、再びリビングへと向かった。慣れた手付きでコーヒーを一杯作っていく。
すぐに湯気が立つコーヒーを片手に同じ位置に座ると《青》はコーヒーに一口だけ口を付けた。
「それで? 気掛かりなことがあるって言ってたけど、どんなこと?」
「この前、変なジジイに会ったって言っただろ?」
「ええ、確か千ちゃんの過去を正確に言い当てたっていうお爺さんよね?」
「そう、そのジジイだ。そのジジイは私と《累》が被検体だって知ってるような口ぶりだった。現に私と《累》の変化した後の目の色を言い当てやがったし、何より、あのジジイの目の色も変化しやがったからな。気掛かりにもなる」
「《累》が被検体だった事はさっき慧から聞いたから驚きはしないけど、そう……五人目の被検体ねえ」
慧という単語で《青》は慧が切り出してきた用件を思い出し、少しの時間言うべきか迷いながらも、結局口に出した。
「慧で思い出したんだけど、今度緋乃を家に連れて来てほしいって慧に言われたんだけどどうする?」
「慧には色々と聞きたい事があるからな。家に出向く事自体は構わないが、緋乃を連れて行く必要あるのか? 出来れば合わせたくないんだが」
「それは私も同感だけど、何故か緋乃に会いたがるのよ。出産に立ち会ったから成長が見たいとか最もなこと言ってたけど、どうもきな臭いのよねえ」
「だが、この部屋に閉じ込めたままってのも気が引けるし、かといって無闇に外に出す訳にも行かないしな。どうするべきかねえ……」
「そうなのよねえ……」
二人は同時に眠っている緋乃を見た。小さな手で布団を握り締め、穏やかに眠る彼女の寝顔を見て、二人はまたもや同時に溜息を吐いた。
「まあ私達が側にいれば問題はない、か……」
「そうね。私達が側に居れば問題はない、わね」
「まあそれも、今回の件が完全に片付いたら、の話だけどな」
「今は明日の事だけに集中しましょう。慧は急ぎの用件じゃない訳だし」
「だな」
目を閉じ、優しく微笑む千を見て、《青》も自然と微笑んだ。
今回の依頼を引き受けた動機は千の過去と少し似ていたから。彼女に復讐の疑似体験をさせたいと思っていたからだ。正直、それ以外に理由は無かった。
だが、鹿野華茄という少女が千に齎した恩恵は《青》の予想以上に大きかったのかもしれない。彼女との間に何があったのかは分からないが、他人と一線を引く千が華茄に対し、気軽に冗談を口にし、この部屋に連れてきた事に良い意味で《青》は驚いていた。
「何笑ってんだよ、気持ち悪いな」
目を開いた千が笑顔を浮かべている《青》を見て、顔を強張らせた。
「別に、緋乃が可愛いなって思っただけよ」
「なおキモいな」
「自分の娘を可愛いって思って何が悪いのよ」
「悪くはねえけど、《青》がニヤニヤしてるとなんかなあ……」
「なんかってなによ?」
「なんか……気持ち悪いんだよなあ」
「それただの悪口でしょうが」
白い歯を覗かせて、乾いた笑いを漏らす千はポケットからナイフ二本と壊れたタクティクスナイフを取り出すと、テーブルに乗せた。棚から砥石を取り出し、慣れた手付きで和式ナイフとコンバットナイフを研いでいく。刃こぼれが酷い和式ナイフを丹念に研ぐ千の表情はどこか楽し気で、刃が綺麗に整っていく度に口角を上げていく。
《青》は完全に壊れているタクティクスナイフを手に取って、呆れ混じりの笑声を溢した。
「派手に壊したわねえ」
「使いやすかったから気に入ってたんだけどな。一撃でぶっ壊されたよ。さすがは《累》だ」
「何それ、皮肉? あの《累》の剣をナイフで捌ける千ちゃんの方が私は凄いと思うんだけど」
「いや、今回は危なかった。《累》の異能に私は手も足も出なかったからな」
「確か、慧が言うには『人格再現』だったからしらね、《累》の異能は」
「まあそんな所だ」
千はナイフを研ぎながら、《累》の正体が螺山忍の妹である螺山傘である事を話し、自身がいかに苦戦したのかを赤裸々に語り出した。兄である《累》には対応できたが、傘の剣には終始翻弄され続け、人格が切り替わり出してからは防戦一方であったことを淡々と告げた。
「私が言うのもなんだが、異能ってのは卑怯極まりないな。実力が互角でも、勝敗は異能の性能差が決める。殺し屋として動いてるなら問題ないが、真剣勝負なら大問題だ」
「だけど、それも実力の内に入るんじゃないかしら。異能者と一般人なら分かるけど、異能者同士の戦闘なら、条件としては五分五分でしょ? 異能も無敵ではないわけだし。面白そうだなとは思うけどね」
「結局はそうなるのか?」
「私はそうなると思うわよ。私達の異能を本気で破ろうと思えば、いくらでも破る術はある。極論を言えば、どれだけ動体視力が上がっても、皮膚が硬くなっても、核の炎は避けられないし、呼吸を止められれば当然死ぬ。結局私達は人間なんだから、必ず不完全な部分が存在する。して当たり前なのよ」
「だから、異能の性能差は勝敗に関係ないって?」
「関係はあるでしょうけど、崩せない力は無いって事よ」
「そうかあ?」
どうも腑に落ちていない様子の千は首を傾げた。その様相を見て、《青》は苦笑しながら、口を開いた。
「別に考えに違いがあってもいいでしょう? 私達は同じ人間じゃないんだから」
その答えを聞いた千は口角を上げ、満足そうに微笑むとコーヒーを一気に飲み干した。
「そうだな。だから、私達は一緒に暮らしてるわけだしな」
「ええ。同じ考えの人間ばかりだったら気持ち悪いでしょう?」
「まあな。違う考えを持っていたお前だったから、私は救われた訳だしな……」
「急に何? 気持ち悪い」
「いや、別に……たまには素直になろうと思ってな」
《青》はニヤニヤと表情を緩ませながら、小さな寝息を立てている華茄に視線を飛ばした。
「華茄ちゃんに言われたの?」
「違う。私が成長しただけの話だ」
「はいはい。よく成長しました」
千の頭をガシガシと撫でると、速攻で手を払われ、寝室へと消えていく千を見届け、《青》はグラスとカップ二つを両手に持ち、キッチンへと向かった。蛇口から水を流す。水がシンクを打ち付ける音が絶え間なく流れ続け、静寂に満ちたリビングに響き渡っていく。
「そう……救われていたのね……」
唇を固く閉ざし、声を殺した。目の前が霞んでいく。涙が視界を潤ませ、流れ続ける水が正常に見えなくなっていく。
コップを洗う間、鼻を何度も啜り、涙を何度も拭った。それでも止まらない涙と鼻水を蛇口から流れる水で流した。
最後にタオルで顔を拭き、《青》は蛇口を止めた。
「……さあ私も寝ますかね」
リビングの電気を消し、《青》は寝室に入ると扉を閉めた。




