四十一
そこには千に服を剥がされ、下着姿の華茄が下着を取られまいと必死に抵抗している様な光景があった。
《青》の存在に気付いた瞬間に華茄は《青》に助けを求め、千は《青》を視認しても一切気にする事無く、華茄の下着に手を伸ばそうとしていた。
「おら、さっさと服脱いで風呂に入れ」
「自分で脱げますから!」
冷静に千が持っている白色のジャージを見てみると、所々に赤い斑点浮かび上がり、ズボンは白色を探す方が難しいほどには真っ赤に染め上がってしまっていた。それが血液だと裏付けるように脱衣所は血の臭いが充満している。
「結構派手にやったわねえ」
「結構なんて生易しいもんじゃねえよ。《累》が宍戸瑠璃のイジメに関わってた人間ほぼ全員殺してやがったからな。おかげさまで私達の体は死臭塗れだ」
《青》は千が持っている華茄のジャージを半ば強引に奪い取ると洗濯機に突っ込み、洗濯機の電源を入れた。
「二人共、さっさとお風呂に入って来なさい。そんな体で部屋に上がる事は許さないわよ」
「は、はい」
二人は素早く衣服を洗濯機に入れ、バスルームへと流れて行った。すぐにシャワーから放たれる水が地面を打ち付ける音が聞こえてくる。
「《累》と闘ったの?」
棚から洗剤を取り、蓋を開けながら《青》は言った。
「ああ。私の圧勝だったけどな」
「結構ギリギリだったと思いますけど……」
「うるせえな。勝ったんだからいいだろ」
柔軟剤を入れ、洗濯機の蓋を閉めた後に《青》はスタートボタンを押した。水が洗濯機内に注入されていく音が聞こえてくる。
「勝ったって……殺さなかったの?」
千が殺し屋としての依頼達成を『勝利した』などと口にする事は今まで聞いたことが無い。必ず彼女は報告の際には終わった、もしくは殺したという言葉を使用する。それに杠と呼ばれる人格が表に出ると、彼女は残忍な方法で対象を殺害する。対象を殺し損ねたことのない、殺し屋としては一級品の存在。
殺し損ねたのか、それとも逃がしたのか……。
「殺す必要がなくなったからな」
「問題ないの?」
「ああ、問題ない」
ぶっきらぼうに口にする千はどこか自信に満ち溢れており、本気でそう思っている様に《青》には聞こえた。
だが、こんな偶然があるのか……?
異能者同士が戦闘する、こんな機会が偶発的に起きるものなのか?
誰かが仕組んでいるのではないのか?
そんな疑問を《青》は払拭できないまま、難しい顔をしたまま穏やかな声を出した。
「問題ないなら、いいけど」
「《累》に関しては問題ないだろうな。でも、少し気掛かりな事がある」
「後で聞くわ。あなた達の着替え、持って来ないといけないから」
「ありがとうございます、何から何まで」
「気にしなくていいわ」
《青》は脱衣所を離れ、緋乃が眠る寝室の扉を開けると、クローゼットを開いた。千が普段来ているジャージを一組取り出し、そのジャージの色違いをもう一組手に取った。
「華茄ちゃんには少し大きいかしら……まあいいわよね」
華茄にはかなり大きいと思われるがジャージ二組と下着類を手に抱え、《青》は寝室を静かに出た。脱衣所へと直行し、洗濯機の上に二人分の着替えを置くと《青》は再び脱衣所を出た。
リビングに戻り、ノートパソコンの前に座る。温くなったコーヒーを啜りながら、ノートパソコンを開き、画面いっぱいに表示された画像を凝視。無意識に顎を擦っていた。
「どこで会った人だったかしら……」
写真に写っている男。涙を流す宍戸瑠璃と性行為中の男。
この男と私は一度会っている。自信を持ってそれは言える。
だが、どこで出会ったのか、この男が誰なのか思い出す事が出来ない。
「この男ももう《累》が殺したのかしら……?」
宍戸瑠璃のイジメに関わる人間を《累》が殺していたというのなら、この男も既に殺害されている可能性は大いにある。この男だけでなく、もう一人の若い男も。
この男達を調べる必要はあるだろうか。この写真がもし援助交際であるというのならば、この二人がイジメに関わっていたとは言い難い。子供達の幼稚な発想に巻き込まれた愚かな大人ではあるが、罪とは呼べないのではないだろうか。
「全ては華茄ちゃん次第ね」
《青》達は依頼無しで動く事はしない。この男達を《青》達が自発的に殺しに行くという事は絶対にない。それに千の言葉を信じるのであれば、宍戸瑠璃を殺した者達への復讐は間接的にではあるが、ほぼ完了している事になる。これ以上の復讐は華茄には必要ないのではないか、もうこの復讐劇に幕を下ろしてもよいのではないのか、と《青》は思っていた。
当然華茄から依頼があれば、情報を集め、この男達を標的と定める事は問題ない。
だが、これ以上は危うい。
これ以上華茄の依頼を引き受ける事は、倫理の境界を曖昧にしてしまう恐れがある。殺人という行為に対しての価値観や認識が軽視される恐れがある。
大切な一人娘を持つ父親として、これ以上少女の未来を歪ませる事は避けたい。
溜息を吐いた後に《青》はコーヒーを啜った。
この世界は歪んでいる。いや、世界ではない。この世界に住む人々が歪みつつある。殺し屋などという職業が実在してしまうこの世界。そして、そんな職業に縋ってしまう人が存在するという事実こそが、世界の歪みを証明してしまっている。
緋乃と暮らしてから、如実に感じる様になった。この世界の醜さに。幸福で在り続ける事の難しさを。
この世界は常に天国と地獄を乗せた秤に揺られている事に、私はようやく気付けた。
僅かな歪みで、綻びで、幸福は一瞬にして悪い方へ傾いてしまう。《大蛇》や今回の《累》の一件で私達はそれを思い知らされた。
きっと、私達が平穏な生活を望むには全てが遅すぎたのだろう。千も私も罪を犯し過ぎてしまった。償い切れないほどの罪を私達は今も重ね続けている。
一体どこに逃げれば、誰にも脅かされる事なく平穏に暮らせるのか……。
啜ったコーヒーを飲み込み、《青》は自嘲気味に笑った。
「宇宙にでも逃げようかしら……」
「《青》さん、宇宙に行くんですか?」
リビングに入ってきた華茄はタオルを首に巻き、顔を上気させながら、《青》の対面に腰を下ろした。《青》は自然な手付きでノートパソコンを閉じ、コーヒーを一気に飲み干した。
「死ぬ前に一度は行ってみたいわよね。華茄ちゃんもコーヒー飲む? インタスタントで悪いんだけど」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
「了解。ちょっと待っててね」
キッチンに向かう途中で冬だというのに下着一枚で脱衣所から出ようとしている千の姿を目撃し、《青》は無言でリビングを飛び出し、扉を閉めた。下着姿の千に詰め寄っていく。
「千ちゃん、早く服着なさい。華茄ちゃんがいるの忘れたの?」
「別に構わねえだろ。一緒に風呂入った仲だし」
「親しき中にも礼儀ありって言うでしょうが」
「はあ? 今さらあいつにどんな礼儀を払うってんだよ」
「服を着るって礼儀を払いなさい、今すぐ」
千を脱衣所に押し込み、《青》は脱衣所の出口に仁王立ち。千はぶつぶつと文句を言いながらも、ジャージを着用し、《青》と共にリビングへと向かった。
リビングに戻り、千は先程まで《青》が座っていた場所へ腰を下ろし、《青》はキッチンへと今度こそ向かった。
「千ちゃんもコーヒー……」
暖房が入ったリビングで団扇を取り出し、力強く扇いでいる千を見て、《青》は言葉を飲み込んだ。
「麦茶でいいわね」
麦茶が入ったグラスとコーヒーが入ったマグカップを持ち、《青》は二人の前にそれぞれ飲み物を置いた。麦茶を一気に飲み干した千のグラスに再び麦茶を注ぎ、《青》は千の隣に腰を下ろした。
「念のために《累》を殺さなかった理由を教えてもらってもいいかしら」
「おい、鹿野華茄。説明しろ」
「なんで私が……。まあいいですけど」
湯気が立つコーヒーに息を吹き掛けていた華茄は唇を尖らせ、眉を顰めていたが、すぐに説明を開始した。千の別人格、杠が《累》の右目を切り裂いた事に加え、《累》に華茄への殺意が既に失われている事を確認した事が《累》を殺さなかった理由だと華茄は口にした。千も彼女の言葉を否定しない。
つまり、華茄が言っている事に嘘偽りはないという事になる。
《青》は少しばかり言葉を失い、呆然と横目で千を見た。
杠が目標を殺さなかった。千を守る為ならば、どんな人物も問答無用で惨殺した彼女が目標を殺さずに見逃した。その事実に《青》は言葉を失っていた。
それでもすぐに冷静を取り戻し、《青》は言葉を吐き出した。
「……そう。でも、勝ったのよね?」
「ああ、勝った。だから、《累》も潔く退いたんだろうな」
「どういう事ですか?」
「《累》は私と闘う事を望んでただろ? 私に勝つために奴は動いていたみたいだが、奴は負けた。螺山は兄貴の意思を尊重してただけみたいだったからな。勝敗が付いた時点で《累》本人の目的は済んじまったんだろ」
「だから、あんなにあっさり引き下がったんですね」
「まあ、それは明日螺山に聞けば分かんだろ」
「明日、《累》に会うの?」
目を僅かに見開き、《青》は千と華茄を交互に見た。すると、二人はほぼ同時に首を縦に振った。
「奴が誰に雇われていたのか、これで分かる」
「本人曰く、真相が知りたければ来いって言ってました。なので、会いに行こうと思います」
「真相……」
「はい。《累》に依頼した人が分かれば、瑠璃にどんな風に関わっていた人なのかも分かるはずなので」
《青》は僅かに視線を落とした。ノートパソコンが視界に入る。
見せるべきなのか……。
この画像を見なくとも真相が分かるというのなら、これ以上の情報は必要ないのではないだろうか。事態が解決に向かっているのならば、尚更。
「どうかしたのか?」
千が怪訝に見つめている事に気付いた《青》は取り繕う様に笑顔を浮かべ、首を横に振った。
「何でもないわ。気を付けて行ってらっしゃい。華茄ちゃん今日は泊まっていくのよね?」
「ああ、泊まっていく。迎えに行くの面倒だからな」
「なんで千ちゃんが答えてるのよ……」
「あ、あのお邪魔じゃなければ泊まらせていただけると助かります」
「そんなに遠慮しなくても大丈夫よ。でも、明日学校は?」
「あんだけ大量に死体が校内に転がってるんだ。授業どころじゃないだろ。どうせ休校だよ」
「え? どういうこと?」
千の雑な説明の後に華茄が校内の状況を律儀に説明してくれたおかげで、《青》は千の言葉の意味を納得。首を縦に振った。
「確かに、教師が大量に殺されたんじゃ授業どころじゃないわね」
「むしろ、殺されなかった教師がどれだけいたのか知りたいくらいだな」
「二年生の担任を受け持っていた教師は全員殺されてたと思いますよ」
「そう……」
淡々と口にした華茄を見て、《青》は呆然と言った。スマートフォンで時刻を確認した後、立ち上がり、寝室へと向かう。
「さ、もう遅いから寝ましょうか。お布団準備するわね」
「あ、手伝いますよ」
「じゃあお願いしようかしら」
「はい!」
嬉しそうに《青》について行く華茄と共に二人は押し入れから布団を取り出し、緋乃が寝ている布団の横に敷いた。布団カバーを重ね、その上に伸ばした布団を置き、枕を置いていく。あっという間に寝床の準備が完了し、華茄は倒れこむように布団に寝転がった。
「お前はさっさと寝ろ。夜更かしすると背が伸びねえぞ」
「はい、そうします……」
ゆっくりと瞬きを繰り返す華茄は三十秒もしない内に寝息を立て始め、ピクリとも動かなくなった。華茄の体に布団を掛け直し、《青》はリビングへと戻っていく。




