四十
日付が変わる三十分前。午後十一時三十分。机に置かれたデジタル時計が二十八秒を示した時、《青》の携帯に『江ノ島慧』という名前が表示され、そのすぐ後にバイブレーションが部屋に響き渡る。寝室で眠っている緋乃を一瞥しながら、《青》は携帯を持ってベランダへと移動。通話ボタンを押した。
「どうしたの?」
「《青》に頼まれていた写真のモザイク処理が終わったから、君のパソコンに送っておいた、と直接伝えようと思ってね」
「……それで? 本当の用件は?」
「近い内に《白》の子供を連れて、私の所に来てくれないかな?」
「どうして? もし、緋乃に変な事するなら」
「しないよ。出産に立ち会ったからね。成長した姿を一度でもいいから見ておきたいんだ」
《青》はベランダの柵にもたれ掛かりながら、乾いた笑みを溢した。
「本当かしらねえ?」
「本当だって。第一、私の部屋には器材がない。実験する事は不可能だ」
「まあ連れて行く分には私は構わないわよ。私と千ちゃんが居れば慧を相手にしても余裕だし。まあ、千ちゃんがなんていうかは分からないけれど」
「なら、すぐに千に確認してほしい」
「残念ながら千ちゃんは仕事中よ」
「標的はまた殺し屋かい?」
「最初は普通の一般人だったんだけどね。何の因果か今回の目標は《累》よ」
「《累》……。ああ、螺山忍か。彼なら千が殺したはずじゃなかったかな?」
「確かに殺したはずなんだけどね、本人曰く甦ったらしいわよ。っていうか、何で《累》の名前知ってるのよ? 私ですら知らないのに」
「彼も君達と同じ実験被験者だからね」
「でも、あの実験場には私達以外の被検体はいなかったわよね?」
「彼は君達三人が実験中に死亡した時の事を考えて用意されたスペアだ。それ故に君達とは別の場所で実験が進められていたんだよ」
「別に私達と同じ場所で実験すれば良かったじゃない」
「御上の考える事は私には分からないさ。私達は言われるがままに指示された薬を投与して、君達の世話をしていただけだからね。あの場で科学者の仕事を全うしていた人間の方が少ないよ」
「そう……全ては蓮路の掌の上ってわけね」
「あの実験そのものが不可解だったからね。君達に投与されていた薬品は私を含めた全ての科学者が知り得ない謎に包まれた薬品だった。あの薬を用意した人間が蓮路という事はハッキリしているんだけどね。奴が何処でそんな薬を手に入れたのかは謎に包まれたままなんだ」
「そりゃ、実験終了後にほとんどの実験関係者が死んでるんだから、謎のままでしょうよ」
「そうだね。私個人としてはオーパーツを見ている気分だったよ。人間の脳内構造を作り変え、新たな脳内細胞を形成し、異能と称すに相応しい固有能力を付与する。あんな薬が世に出回ったら、世界は終わるね」
電話越しでも慧が目を輝かせている光景が想起できる程に、楽し気な口調で慧は言った。
「何でそんなに楽しそうなのよ?」
「考えてみなよ。全員が被験者になれば、君達も私も普通だ。異常なのはむしろ被検体以外の人間という事になる。もしこの世界に異能者が溢れれば、この世界の在り方は大きく変わると思わないかい?」
「思わないわよ、馬鹿々々しい」
「そうか、残念だ。そう言えば千は二代目《累》と戦っているんだろう? 心配しなくていいのかい?」
「千ちゃんには常に最強の千ちゃんが付いてるから大丈夫よ」
「ん? どういうことだいそれは?」
《蒼鬼》という都市伝説を生み出したのは厳密に言えば千ではない。千が危機的状況に陥ると表面化するもう一つの人格、千が杠と呼んでいる人格が成した所業だ。千よりも暴力的で、粗雑。千と対照的な荒々しいナイフ捌きとは裏腹に実力は千を軽く上回る。
圧倒的な実力を誇っている《累》も杠には勝てない。それに千自身の腕前も決して低いわけではない。むしろ、最強に近い部類に入る。が、それでも千は《累》には勝てないだろう。彼女が抱える心の傷が必ず足を引っ張る。
それでも《青》は敗北の心配はしていない。杠の存在理由を知っているから。彼女が生まれた理由を知っているから。
千は対人戦ならば絶対に敗北はしない。
「とにかく千ちゃんは大丈夫って事よ。それで二代目ってどういう事よ? あんた何か知ってるの?」
電話の向こうで何かを啜る慧は少し間をおいてから悠然と答えた。
「螺山忍も被検体だからね。死んだ後でも利用価値があると踏んだんだろう。今から二年前に螺山忍の妹、螺山傘に兄の脳の一部を移植したと私は聞いているよ」
「例えそうだとしても、妹が二代目《累》になるとは限らないじゃない」
「私も直接この目で見た訳ではないからハッキリとは言えないけど、螺山傘は兄同様剣の達人で、兄である忍よりも剣の腕は良かったらしい。そして、兄の脳細胞を妹に移植後、実験中には明らかになっていなかった螺山忍の異能が明らかになったのさ」
「……その異能って?」
夜空を彩る星々の幻想的な煌めきを漫然と見つめ、その輝きに全く心揺さぶられる事なく《青》は質問を投げた。
「螺山忍の能力は『人格再現』さ」
「『人格再現』? なにそれ?」
「兄の脳を移植したからと言って螺山傘の人格が変質することはない。彼女は今まで通り、螺山傘としての人生を送る、はずだったんだ。だが、兄の脳細胞を移植後、彼女の脳は螺山傘の肉体と脳を異能に適した形に変えてしまった。それも薬なしでだ」
つまり、《青》達が薬で無理矢理に異能に適した肉体へと変化を遂げたのに対し、螺山傘は兄の脳細胞を移植した事で自発的に肉体を変化させたという事になる。それを踏まえると、《青》達の脳細胞を他者に移植すれば、異能者は作り出せるという事に他ならない。
《青》が息を呑むのと同時に、慧が息を整える。
「その後、螺山傘は兄である螺山忍の人格を完璧に再現した、らしい。被験者にしか見られない虹彩の変化も見られた、と聞いている。螺山傘は復元された兄の意思を受け入れ、《累》として行動していたのではないか、というのが私の考えかな」
「あまり驚異的な異能とは思えないけど」
「そうかな? 再現するのは人格だけじゃない。身体能力も癖も、当然剣術も完璧に再現する。戦闘中にいきなり戦法が変わったら困らないかい?」
「それは……困るわね。でも、少し面白いかもしれない」
二重人格対別人格。両者共に戦闘中に戦法が変わる異能者同士の死闘。しかも、戦うのは限りなく最強に近しい二人。そして、もう一人の千が負ける事は絶対にない、と《青》は踏んでいるが、それも異能者が相手ならば結果は分からない。彼女が絶対に敗北しないという保証はないのだから。
「面白いってなにがだい?」
「異能者同士が戦ったらどうなるのか、気にならない?」
「どうだろうね。異能は不可能を可能にする力ではないから、結局の所は異能者の実力に左右すると私は思うよ」
「科学者のくせに夢がないわねえ」
「科学者だから、非科学的な事には現実的なのさ」
「どういう事よ、それ。ねえ、一つ聞いてもいいかしら?」
「なんだい?」
「慧ってどこから情報を仕入れているの? 慧が知ってる情報はどれも並の情報屋じゃ手に入れる事すら出来ない国家機密ばかりよね」
「……それは直接会った時に話すよ」
「そう。なら千ちゃんが帰ってきたらまた連絡するわ」
「分かった。気長に待っているよ」
「ええ、気を付けてね。それじゃ、また」
「ああ、また」
通話を切り、《青》は部屋へと戻るとマグカップにインスタントコーヒーを入れ、そこにお湯を注いだ。スプーンでコーヒーを混ぜつつ、机にマグカップを乗せ、《青》はその前に腰を下ろす。
机に置かれた家電量販店の広告に目を通し、赤丸で記された場所を見て、《青》は優しく微笑んだ。赤い線で囲われているのは間違いなく液晶テレビで、歪な丸の形状からして、緋乃が描いたものだとすぐに分かる。
「三か月小遣い無しで手を打ってあげましょうか」
肩肘を着きながら、《青》は静かなリビングに向かって、そうポツリと呟いた。それからノートパソコンを開き、《青》は慧から送られてきた画像ファイルを開いた。画面上に展開する宍戸瑠璃が強姦されている最中の画像が二枚。依頼した通りにモザイクが除去された画像。
若い男と中年男性の横顔がハッキリと映っており、どちらも興奮した様子で鼻の穴が広がっていた。荒い息遣いが聞こえてきそうな程に口は開き、頬に伝う汗が鮮明に映し出されている。
何度見ても、良い気分はしない醜悪な画像。事情を知っている以上は官能的にも映らない。その醜い画像を見て、《青》は首を傾げ、顎を人差し指で擦った。
「この人……」
《青》が脳裏から記憶を引っ張り出していると、玄関扉の鍵が開いた音がリビングに響く。扉が開くと同時に微かに聞こえる話し声に耳を傾けながら、《青》はノートパソコンを閉じた。
扉が開いてから一分ほどが経ったにも拘わらず、中々リビングに入って来ない人物を迎えに行く為に《青》は立ち上がり、リビングを出た。その瞬間に脱衣所の灯りが点いている事に気付き、自然な足取りで《青》は脱衣所に入った。
が、脱衣所に入った瞬間に移った光景に《青》は足を止め、瞬きを繰り返し、視線を左右に動かした。




