三十八
「……鹿野華茄……だったか?」
蒼い瞳に射竦められ、肩をビクンと震わせた華茄だったが後退る事なく、その場に跪く事もなく、千を真っ直ぐに睨み返した。
「確かに私は《累》を殺してくれって頼みました。でも、痛め付けろなんて言ってません」
「結局は殺すんだ。殺す過程をお前にとやかく言われる筋合いはない」
「だけど、こんなやり方……」
「不満か? 私はお前の依頼でこいつを殺してやってんだぞ?」
嘲笑の様な笑みを浮かべる千に、華茄はポケットから何かを取り出し、それを向けた。
華名が両手で握っているのはカッターナイフ。千が護身用にと渡したカッターナイフの刃にガムテープを巻き付けただけの簡易的な武器。
「私が依頼したのは梅村千さんです。あなたじゃない」
「私も梅村千だ。こいつが自分で作り出したもう一人の梅村千だけどな」
「……なるほど。やはり、二重人格ですか。道理で戦い方が違う訳です」
右目を失った悲痛、傷の痛みによって声色に苦痛が含まれた話し方をする《累》は華茄の前に立つと、濃紺の鞘から刀を引き抜いた。
「今なら兄があなたと再戦を望んでいた理由が理解できます。梅村千ではなく、蒼い瞳のあなたと再び戦う事を望んだ兄の気持ちを」
血で真っ赤に染まる両手で柄を握り、千に刃を向ける《累》は頬を伝う血液を肩で拭うと、熱い息を大きく吐いた。
「あなたは、梅村千にはあった武芸を尊ぶ心が欠けている。梅村千からは梅村椿に対する尊び敬う心遣いが、二人の関係性を知らない私でも感じ取る事が出来た。ですが、あなたからはそれを感じない」
「へえ、それで?」
憤慨する訳でもなく、ただ楽し気に言う千は蒼い瞳を細めた。
「あなたは殺し屋としては優秀だと私も思います。ですが、剣士としては梅村千の足下にも及ばない。兄はそんな品性の欠片もない剣に負けたことが余程悔しかったのでしょう。剣術にはかなりの自信を持っていましたから。だから、梅村千ではなく《蒼》と再戦する事を望んだ」
「だが、結果は見ての通りだ。テメエら兄妹は私よりも弱いから負けた。死ねば剣の腕も、誇りも関係ない。生きていなければ、どんな力も意味はないんだよ」
吐き捨てる様に言った千の言葉に《累》は瞬きを繰り返し、「ああ、そういう事ですか」と納得したように言った。
「あなたは梅村千を守る為に生まれたのですね」
「さすがは変態兄妹。物分かりが良いな。おい、鹿野華茄。お前に梅村千について少し教えてやるよ」
千は華茄にナイフを向け、楽し気とも悲哀とも取れる笑みを浮かべた。
「こいつはお前が思ってるほど強い女じゃない。こいつは何度も自殺を試みては失敗し、自分で殺したくせに我が子を想って毎晩泣いていた、ただの母親の成り損ないだ」
華茄は一度千から目を背けた後に、再び千に視線を戻し、二度と目を背けまいとカッターナイフを強く握った。
「私は梅村さんが強いから、ここまで付いて来たわけじゃありません。知り合ったばかりの私達の為に命を賭けてくれた、誰よりも優しい梅村さんと一緒だったから私はここまで来ることが出来たんです」
強い言葉とは裏腹に華茄の両手は震え、カッターナイフの切っ先が激しく揺れていた。睨む様な鋭い目つきなのに、目尻には涙が溜まり、今にも涙がこぼれ落ちそうになっている。
その姿を見て、千は自然と華茄に向けていたナイフを下ろしていた。
重なる。
まだ《蒼鬼》なんて呼ばれる前の千に。
ずっと泣いてばかりいた頃の千の姿と。溜まり過ぎた怒りを発散する術を知らず、悲しみに置き換えてしまっていた千と。
そして、私という人格を作り、守ってくれ、と懇願してきた千の姿と、今の華茄は少しだけ似ている。
「……千と《青》がお前をほっとけない理由はそういう事か」
忽然と気の抜けた独白を溢した千に、怪訝な視線を向ける《累》と華茄。二人とも千に向ける刃が揺らいだのが如実に分かる。
「螺山。お前、まだ華茄を殺す気はあるか?」
華茄の視線が千から《累》に移る。
「どうしてそんな事を聞くのですか?」
刀を構えたまま《累》は言った。
「お前の返答次第で、テメエら兄妹を見逃してやってもいい。が、お前達がまだ華茄を狙うっつうなら、テメエらを生かしてはおかない」
「……私達はあなたに敗北した。今の私達ではあなたに勝つどころか逃げる事も困難でしょう。つまり、私達は《蒼》に生かされている状態。あなたが殺すな、と言うのであれば、私達はその要求を呑みましょう」
刀を納め、右目から伝う血液を拭った《累》は折れた刀の下まで行くと拾い上げ、鞘に納めた。その瞬間に怜悧で淑やかな様相が変化し、穏やかで温文な雰囲気を纏い始める。
「優しくなりましたね、《蒼》。まさかあなたから見逃すなんて単語が出てくるとは露にも思いませんでしたよ」
「片目になったお前らなんざ、千でも殺せる。私がわざわざ手を下すまでもねえって思っただけだ。勘違いしてんじゃねえ」
「勘違いではありませんよ、あなたは優しくなった。《蒼》は今も梅村千を守る為に僕達を殺さないのでしょう? 梅村千が結んだ楔を断ち切らない為に」
華茄を見た後に笹木辺に視線を飛ばす《累》は穏やかな笑みを浮かべながら、言った。
「ふざけたこと言ってんじゃねえ。殺すぞ」
「殺されては困りますからね、黙る事にしましょう」
ナイフを強く握り締めた千を見て、《累》は安穏と笑声を上げ、食堂の出口に向かって歩き出した。
「良太くんは用務員室で眠っています。少し脅しはしましたが危害は加えていません。鹿野華茄さんも安心してください。あなたの命を狙う様な事はもうない。あなたが表の世界で大人しく暮らしている限り」
「おい、螺山。テメエは一体誰に雇われて動いてた」
《累》は振り返る事もせず、出入り口の前で立ち止まると、言った。
「それは言えません。これでも殺し屋の端くれですので、依頼人の情報を簡単に開示する事はできません。ですが……あなた達には会う資格があるのでしょうね」
「どういう意味ですか?」
強い口調で華茄は《累》の背に向かって言葉を投げ掛けた。
「真相が知りたいのであれば、明日の正午に春宵高校の校門前でお待ちください。お迎えに上がります」
「私がお前の依頼主を殺すかもな。それでもいいのか?」
「構いません。私の目的も同じですので」
「は?」
「では、私はこれで」
食堂の扉を開き、そのまま暗い校舎に消えていく《累》の後ろ姿をねめつえながら、千は舌打ちした。その後、ナイフを順手に持ち、笹木辺の前に片膝を着くと、彼女を縛っていたガムテープを切断する。拘束が外れ、自由になった笹木辺は無言で千を見上げながら、立ち上がるも千から目に見えて距離を取った。
華茄も同様に千から距離を取り、近付こうとはしない。
千はナイフをシースにしまい、タクティカルナイフの刃とグリップ、脱ぎ捨てた上着を拾った後に扉が開いたままの出入り口へと向かい、うなじを右手で掻いた。
「行くぞ。テメエの息子を迎えに」
蒼い瞳が笹木辺を流し目で捉え、冷淡に言った後に千は足早に食堂を出た。すぐに二人分の足音が聞こえてくる。その足音から二人が千から距離を取って歩いているのを理解する。
教師の死体が転がる廊下を進み、迷う事無く三人は用務員室の前に到着した。扉の隙間から白い光が零れ出し、扉が僅かに開いているのが分かった。ドアノブに付着している血液を一瞥しながら、千は扉を開けた。
開けた瞬間に眩い光が視界を覆い、千は思わず目を細めた。視界が光に慣れるまで数秒。開けていく視界の中で、床に横たわり、安らかな寝息を立てている人物を見て、千は用務員室には入らず、壁にもたれ掛かった。腕を組む。
「……入らないんですか?」
敵意剥き出しの声色で言った華茄を横目で見た後に、笹木辺に視線を移し「あんたが先に入れ」と粗雑に言った。戸惑いながらも笹木辺は用務員室に入り、床で穏やかに眠っている息子を見た途端に安堵の息を吐き、足早に息子に駆け寄った。
何故か用務員室に入らない華茄は千の隣に移動し、壁に背を預けた。
「入らなくていいのか? それともどうしても私の隣にいたいのか?」
「違います。私が居ても、良太君を安心させることは出来ないですから」
そう言った後に華茄は何かを言い辛そうに千を見上げては口ごもり、それを何度か繰り返した。
「言いたい事があるなら、ハッキリ言え。面倒だ」
少し苛立ったように唇を尖らせる華茄には目もくれず、千は漫然と正面を見続けた。
「今の梅村さんってなんて呼べばいいですか?」
「……別に何でも好きに呼べばいい、千でも梅村でも」
拍子抜けした様に溜息を溢し、千は僅かに視線を落とした。白い光に混じって、蒼い光が微かに床を照らしている。
「だって、私にとっての梅村千は梅村さんですから。今の梅村さんは梅村千だけど違う人なんですよね?」
「……なら杠でいい。千も私の事をそう呼ぶ」
「杠さんはどうして入らないんですか?」
「まともな親子関係だったら、大抵の子供は母親の顔を見れば無条件で安心する。私が入る必要は無い。それに蒼い目の女が出て行っても怖がらせるだけだ」
「なんか……梅村さんと似てますね」
「当たり前だ。私も千なんだから」
「だって、螺山さんと戦ってる時の杠さんと梅村さんは全然違いましたもん」
用務員室を確認し、眠気眼で母親を見つめている良太と涙を零している笹木辺を一瞥すると、千は前を向き、視線を落とした。
「私は千を守る為に生まれた人格だ。千と同じ戦い方じゃあ負ける。戦い方が違うのは必然だ」
「私が言ってるのはそういう事じゃないんですけど……まあいいです。あの、もう一つ質問良いですか?」
「答えられる質問ならな」
「どうして螺山さんを殺さなかったんですか?」
「言ったろ。片目の《累》なら千でも倒せる。わざわざ止めを刺す必要は無いって」
「そうですけど、他に理由があるのかなあって」
「ない」
即答した千に小生意気な強気の視線を送る華茄は、そのまま千から視線を外し、千と同じ用務員室の光に照らされている床を眺めた。
「聞かないのか?」
「何をです?」
「こいつが父親に孕まされたって話」
「もう聞かなくても分かるほどに杠さんと螺山さんが教えてくれましたから。お父さんにレイプされて、梅村さんが子供ごと子宮を刺したんですよね?」
「ああ」
「心配しなくても、私は他の人には言いませんし、知ったからって梅村さんを軽蔑する事もないです」
壁から背を離し、一歩前に出た華茄は千の両手で持ち、包み込むように握った。
「辛い過去が楽しい思い出になる時は来ないかもしれないけど、それでも私は知れてよかったと思います。梅村さんが優しい理由に気付けたから、聞けて良かったです」
「綺麗事だな」
千は瞑目し、鼻から静かに息を吐き出すと、目を開いた。
開いた瞬間に今までは停止していた時間が鮮明に動き始める。蒼い瞳が失われていく感覚が電気の様に全身を駆け巡り、自ら作り出した半身が別れを告げて消えていく。
またな、千。
ありがとう……杠。
「良いんですよ、私はそう思ったんだから」
「お前に慰められてるようじゃ、私もまだまだだな」
「何でですか……あ、目の色が」
千の黒に戻った瞳を見て、華茄は短い時間驚いていたが、すぐにハッとなり微笑んだ。
「やっぱり黒い目の梅村さんの方が落ち着きますね」
「気持ち悪い奴だな、お前。それと、さっさと手を離せ」
「え? あ、ごめんなさい」
慌てて握っていた手を離す華茄は千から視線を外し、そっぽを向いた。少し丸みを帯びた華茄の横顔を眺めながら、千はそっと口を開く。
「まあだが……ありがとう」
極小で呟かれた言葉に華茄は即座に反応し、すぐに心底驚いた表情を浮かべ、千を見つめた。それから驚きに満ちた顔が悪戯心満載のにやけた表情へと変わり、華茄は白い歯を覗かせた。
「すみません、今なんて言いました?」
極小で言ったとはいえ、廊下は静寂に包まれている。聞こえていないわけがない。千は呆れたように息を吐き、華茄の頭を軽く小突いた。
「チビで童顔のくせに生意気って言ったんだよ」
「ちょっ、人が気にしてる事を……。美人でスタイルが良いからって何でも言っていい訳じゃないんですよ」
「お褒めに頂き光栄だ、お・チ・ビちゃん」
千が華茄の頭を撫で回すと、千の手を右手で払い除け、涙目で華茄は千を睨んだ。
「悪い悪い。お前は小学生みたいで可愛いよ」
「全然慰めるつもりないじゃないですか!」
「二人共、仲良しさんですね」
用務員室から出て来た笹木辺は千と華茄を見て、にこやかに微笑み、背で眠っている良太を一度担ぎ直した。穏やかな寝顔で眠っている良太を見つめ、千は視線を落としながら、言った。
「……こんなことになったのは私のせいだな。すまん」
「そうなのかもしれませんが、私達が助かったのは梅村さんのおかげです。だから、私は感謝していますよ」
「私が怖くないのか?」
目を細める笹木辺は背中で眠る良太を見た後に、優しい笑みを浮かべた。
「正直に言うと、まだ少し怖いです。でも今は、梅村さんが側に居る事が何よりも心強いと思いますよ。こんな場所に一人は怖いですから」
死体が無数に転がる校舎内を三人は漫然と見渡し、自然と足は出口へと向かって行った。用務員室の灯りが消えると同時に暗闇が通路を覆い、華茄と笹木辺はほぼ同時に千の服を掴んだ。二人を導く様に千は暗闇の中を歩き、出口へと到達。扉を乱雑に開いた。
鍵が掛かっていないという事は《累》も同じ出口を通ったのだろう、とそんな事を思いながら、千は校舎を出た。
寒冷を帯びた風が白雲を次々と遥か彼方へと運んでいき、月光が地上に微かな光を落としている。
その月明かりに照らされながら、こちらへと歩いてくる人影が二つ。黒いコートを身に纏う二人はどちらも人相が悪く、コートの下に着ているスーツが膨れ上がるほどに体格が良い。
体格が良いと言っても肥満ではなく、鍛え抜かれた筋肉によってスーツが膨れ上がっている事は一目瞭然で、右胸が不自然に膨れている事から、武器を忍ばせている事も千はすぐに気付いた。
右手を和式ナイフのグリップに添え、千は迷わず自分達に向かってくる男二人に焦点を合わせた。
だが、男達は千には見向きもせず、千の背後にいる華茄へと焦点を固定していた。戸惑う華茄の表情を見て、華茄とこの二人は面識が無い事を瞬時に理解し、千は華茄の前に立ち塞がる様に立った。




