三十七
「テメエは《蒼》《蒼》うるせえんだよ。私の名前は梅村千だ。間違えてんじゃねえぞ」
先程まで激痛と呼吸困難に悶えていた千は見る影もなく、意気揚々に立ち上がった。床に落ちている和式ナイフとコンバットナイフを拾い上げ、和式ナイフの刀身に映った自身の蒼い瞳を見た後に、千は曲芸師の様に手の中でクルクルと回し始める。
浮かび上がる蒼い瞳は千に全てが止まった世界を映し、千だけがこの止まった世界で唯一動きを見せる。和式ナイフに映る蒼き瞳は恒星の様に自発的に輝き、その瞳に照らされるように浮かび上がる千の笑顔は思わず怖気を感じるほどの冷酷さを多分に孕んでいた。
そして、華茄も笹木辺も、《累》ですら言葉を失っている中、千は和式ナイフとコンバットナイフを逆手に持つと、首を僅かに傾け、胡乱に微笑んだ。
「その仮面、邪魔だな」
「え?」
《累》の間抜けな声が空気中に放出された頃には千は《累》の前に立っており、和式ナイフは器用にもペストマスクのみを切り裂いていた。真っ二つに切り裂かれたペストマスクは地面に転がり、千は一瞬で《累》から距離を取った。
マスクが切り裂かれた際に生じた刃風により、頭部を覆っていたフードが剥がれ、マロンペーストのショートカットと怜悧な印象を残す美しい容姿が月夜に照らされて、明瞭に千達の視界に映る。
その容姿を見て、千は笑顔を消し、冷漠な眼差しを浮かべ、華茄と笹木辺は二重の意味で驚きを表情に表した。
「……螺山さん」
月夜に照らされながら佇んでいるのは、春宵高校の事務所で働く事務員である螺山で間違いない。感情の乏しい怜悧で無表情な美しい容姿。凛とした佇まい。早々忘れるはずもない要素を多分に持つ彼女を見間違うはずがない。
だが、千は笹木辺の呟きには一切の反応を示さなかった。《累》が螺山であろうが、誰であろうが、目の前にある現実を見た今では《累》の正体など大した意味を持たない。
月夜を照り返すかのように光り輝く金色の双眸。
螺山の瞳は金色に染まり、千の蒼い瞳同様に光輝に満ち溢れている。
その瞳は間違いなく、異能を宿す瞳。辛い実験の果てに手に入れた光り輝く瞳。
どういうことだ、とは千は思わなかった。千達の他に被検体が存在していたとしても、何もおかしい事ではない。全てが秘密裏に進められた人体実験、計画だ。千達が知らない秘密があっても不思議な事ではない。
もしかしたら、千達が知らないだけで被検体は無数に存在するのかもしれない。
けれど、千が口を噤んでいる理由は四人目の被検体に対する驚愕ではない。千が口を噤んでいる理由、それは初めて同じ異能者と対峙する高揚からだ。《青》、《白》と敵対していない以上、千は異能者達と命を懸けた戦闘を行うことはない。
それに、蒼い瞳を発現してから気付いた事がある。自身の身体能力の飛躍的な向上。人間離れした膂力の獲得。千達が手に入れたのは異能だけじゃない。異能を使用する為に適した肉体も千達は同時に手にしている。
おそらくそれは螺山も同じ。彼女もまた千達と同じ異能と常軌を逸した身体能力を手に入れている。
身体能力によるハンデはない。そして、《累》の異能はおそらく『人格管理』。兄である《累》と自身の人格を任意で交代する事を可能とし、共有する事を可能とする異能。
互いに異能を持っているという事は異能によるハンデも無い。
全ての条件が対等ならば、勝敗を決するのは二人の技巧、経験値の差。
ならば、負ける気はしない。
千は食堂を震わす程の高笑いを上げ、一歩ずつ《累》に近付いていく。先程の《累》がそうしたように無防備に無警戒にナイフを持つ両手をだらり、と下げながら千は不敵な笑みを浮かべながら、ゆらゆらと酔っ払いの様に近付いていく。
「おい、螺山ああっ! せっかくテメエの大好きな《蒼》様が本気見せてやるっつってんだ! もっと嬉しそうにしろよ、オラ!」
《累》は表情を変えず、折れた刀を鞘に納めると、濃紺の鞘に納まった刀に手を添えた。
「そんな話は今初めて耳にしましたので。ですが、本気を見せてもらえるというのならば、こちらも今度こそ本気で対応いたしましょう」
「お前の本気になんか興味ねえよ」
口角を上げ、千は脱力していた全身に瞬時に力を込めた。姿が掻き消えるほどの速度で床を駆け、千は《累》の右側に移動。《累》が千の姿を捉える前に右手が添えられた鞘目掛けて、和式ナイフを振り下ろした。
《累》は僅かに刀を抜刀し、千の和式ナイフを受け止める。が斬撃の重さに耐えきれず、体勢を崩した。右膝が床に向かって曲がっていく。その隙を見逃す事無く、千はコンバットナイフを和式ナイフの上から全力で叩き付け、《累》を強引に跪かせた。
跪いた瞬間に千はコンバットナイフを引き、《累》の顔面に渾身の蹴りを放った。僅かに体を引き、衝撃を軽減させる《累》だが、常軌を逸した膂力を獲得している千の蹴りは《累》を数メートルは吹き飛ばすほどの威力を発揮。
吹き飛び、机を、椅子を薙ぎ倒していく《累》を見て、千は再び高笑いを上げる。《累》は丁度華茄達の前で動きを止めた。華茄達の目が自然と地面を転がる 《累》を追い、そのすぐ後に足下が覚束ない歩き方をしている千に視線を移した。
千は倒れたまま微動だにしない《累》を見て、弓形に口端を上げた。
「おい、早く立てよ螺山ああっ! まだ始まったばかりだろうが! この程度で死んじまった訳じゃねえよな?」
その言葉を聞いてか、《累》は立ち上がり、左手で流れ続ける鼻血を拭った。床に血を多分に含んだ唾を吐き出し、再び刀に右手を添える。
「また居合か、芸がねえな。だが、私も鬼じゃねえ。お前がどうしても居合で私を殺してえなら、チャンスをくれてやるよ」
千は二つのナイフをシースにしまい、悠然と《累》の前に立った。千が立つ場所は正しく《累》の間合いの中。刀が届く絶妙な位置に千は丸腰で立っていた。
華茄や笹木辺は勿論のこと、《累》ですら目を僅かに見開き、二の句を継げないでいた。千だけが笑みを浮かべ、悠揚と佇んでいる。
「ほら、撃てよ。私の気が変わらねえうちに」
千の言葉通りに《累》は僅かに腰を落とし、足を開いた。剣術には詳しくない華茄や笹木辺ですら、彼女が次に取る行動が分かる。この戦闘で何度も見た居合の構え。放たれる刃は華茄達には見えなくても、彼女が居合を得意とし、自信や誇りを持っているのは分かる。
絶対に殺せる自信があるからこそ、この状況でも居合を放つのだと、漠然とそう思いながら、華茄達は眼前で繰り広げられる異様な光景を傍観した。
《累》が居合を放つ構えを取っても武器を構えない千に、傍観している二人が不安を込めた視線を送っても、千は向けられた視線に反応する事はしない。ただただ口角を上げていく。
「断言してやるよ、私はナイフを使わない。ハンデとしては十分だろ?」
「後悔しても知りませんよ?」
「しねえよ。テメエごときの剣で」
その言葉で千は初めて螺山の瞳が感情的に揺れ動いたのを見た。動かなかった表情が初めて強張り、視線が鋭くなる。纏う空気が明らかに研ぎ澄まされていく。千は様相が変化した《累》を見て、相好を崩した。
「……これで終わりです」
「来な!」
緩やかに抜刀されていく日本刀。美しい波紋が月光により幻想的に煌めき、刃こぼれ一つしていない刃が狂気を帯びて鞘から解き放たれていく。
全てが止まった千の視界ですら動きを見せる居合は、今日放たれた居合の中で間違いなく最速。
だがそれでも千から見れば、遅すぎると一笑できる速度。
千は刀が放たれる直前に右足を突き出し、鞘頭の前に右足を置いた。究極的に高まった千の動体視力は刀が放たれる軌跡を正確に予想する事が出来る。
そして、居合は鞘から高速で刀を抜刀し、相手を斬りつけるか、相手の攻撃を受け流す型、技術を中心に構成された武術。
どちらにしても、抜刀しなければ居合は不成立となる。
つまり、いかに抜刀速度、納刀速度が速かろうが、抜刀する事をそもそも制すれば、居合を放つ事はできない。もし千の突き出した足を見て、刀を抜刀する角度を変えたとしても、千の類稀な動体視力と身体能力があれば、見た後に余裕で対応する事が出来る。
案の定、抜刀する際に角度を変えた《累》を見て、千は足の位置を僅かに落とし、放たれた刀を右足で押し込み、強引に納刀状態に戻した。
刀が鞘に納まった瞬間に千は黒鞘から、刀身が半ばから折れている刀を解き放った。
「人を殺す技術にプライドなんか持ってんじゃねえよ、お前も、千も。勝った奴が正義、生き残った奴が正義だ。私の言ってる事が分かるか?」
千は左足だけで跳躍し、左膝で《累》の鳩尾を強打。そのまま背後に倒し、《累》を机に叩き付けた。瞬時に机に飛び乗り、《累》の両腕に両膝を乗せ、両手の動きを封印。折れた刀を《累》の首筋に当てた。
「つまり、お前の正義は私が今からぶっ壊すって事だ」
「いいのですか? 私を殺せば、良太くんの居場所が分からなくなりますよ?」
焦る事もなく淡々と言った《累》に向けて、千は白い歯を覗かせた。
「知るかよ、そんなこと」
「梅村さん!」
笹木辺の悲痛な叫びが木霊し、千の高笑いがそれを無情にも掻き消していく。
「あばよ」
順手に持った刀が振り下ろされ、《累》の喉元に向かっていく。死が直前に迫っているというのに《累》は眉一つ動かさず、冷淡な瞳で迫る刃を見つめていた。
その不感な姿を見て、千の嗜虐心が加速する。
刃の行き先を喉元から、満月の様に光り輝く金色の右目に変更。千は縦一文字に《累》の右目を切り裂いた。皮を裂き、その奥に存在する眼球を裂いた気味の悪い感覚が千の右手を通して脳を震わせる。
舞った血飛沫が大量に千の顔面に吹きかかり、千はその感覚に快感を覚えているかのように口角を限界まで上げた。
右目が切り裂かれたことでようやく苦痛を表情に浮かべた《累》は右目を押さえようと両腕を動かそうとする。痛みからか、火事場の馬鹿力なのか、両腕の力は凄まじいが、千はそれを完全に封殺。右目から絶え間なく流れる血液を傍観し、再び刀を構えた。
「もう左目もいらねえだろ」
その言葉通りに千は《累》の左目に向かって、刀を振り下ろそうとした。だが、誰かが左側から千に突進し、千は机の上から落下。手からこぼれ落ちた刀が地面を転がっていく。
頭を強く打ち付けながら、千は僅かに体を起こし、自身に突進した正体を自らの瞳で見定めた。




