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三十六

 千の事など眼中にないかのように無防備に歩き出す《累》の前に千は立ち塞がり、ナイフを構えた。コンバットナイフを順手から逆手に持ち替える。


 だが、《累》はその姿を見ても臨戦態勢に移行しない。真っ直ぐに歩き続け、千との距離を無警戒に縮めていく。


 いや、違う。《累》が縮めているのは千の背後にいる華茄との距離だ。


「させるかよ!」


 素早く《累》の右側に回り、千は和式ナイフを振るった。狙うは柄。いかに高速の居合を放てる剣の達人であろうとも、柄を失った刀では持ち前の武芸を発揮する事は不可能。千は迷う事無く、刃を振り下ろすも、《累》は刀を素早く抜刀し、軽々と受け止めた。


 すぐにコンバットナイフを振るい、追撃。柄を握っている右手を狙う。が、《累》の左手が千の左手首を掴み、ナイフは動きを止めた。逃れようと左手を手前に引こうとするも《累》の膂力がそれを許さない。


「動きが単調になっていますよ、《蒼》」


「気のせいだよ」


 千は和式ナイフを滑らせ、《累》の左手を狙った突きを放った。瞬時に千の左手から手を離す《累》は千から素早く距離を取り、再び居合の構えを取ろうとする。が、右手が柄に添えられる前に千は距離を詰め、コンバットナイフをすくい上げる様に振り抜いた。


 顔を僅かに逸らす事で躱されるコンバットナイフ。千は振り抜いたコンバットナイフを逆手から順手に戻し、次の一手を放つ。順手に持ち替えたコンバットナイフを断頭台の様に振り下ろすも、大きく体を仰け反らす事で《累》は千のナイフを躱した。


 ナイフはコートの繊維を切り落としたのみで、肉を切り裂いてはいない。それでも千は追撃を続ける。距離が離れれば、即座に居合が放たれる。速度の違う二つの居合を見分けるには鞘に向かう右手の動きを見極めるしかなく、その時間は正に刹那的。


 また、二つの速度変化を可能とする居合を回避し続ける事は出来ない。必ず捌けなくなる時がくる。


 認めなくてはならない。この殺し屋は自分よりも強いと。故に防御に徹すれば必ず敗北するという事実を。


 二本のナイフによる目にも留まらぬ高速連撃は次々に躱され、捌かれ、喉元を切り裂くために最後に放った渾身の一撃も弾かれてしまう。


「弱くなりましたね、《蒼》。僕を殺した時の君はもっと研ぎ澄まされていたというのに。崩壊した倫理観を振りかざし、血に濡れた刃を更に血で染める姿は正に狂気と言わざるを得なかった。今のあなたには殺し屋が備えているべき闘争本能が欠如しています」


 連撃を捌ききり、千の渾身の一撃を弾き返した《累》は、攻撃を弾かれた衝撃で体勢を崩している千から後方に跳び、地面に着地した瞬間に抜刀。刃を翻し、刃ではなく峰で千の脇腹を強打。多量の息と唾液を虚空に吐き出した千の喉を、柄を用いて高速で突いた。


 激しく後方に吹き飛んだ千は食堂に設置されたパイプ椅子と机を幾重にも吹き飛ばしながら、柱に激突してようやく動きを止めた。


 喉を柄で突かれた衝撃で呼吸が覚束ず、起き上がろうとするたびに脇腹が激痛を示す。立ち上がろうと全身に力を込めた瞬間に脇腹が発する激痛が立ち上がる事を拒否。千は再び地面に平伏す様に倒れた。


「あなたは《蒼鬼》という都市伝説が生まれるほどに斬殺の限りを尽くした。あの時のあなたは正しく最強だと僕は確信していました。梅村椿とは正反対の理不尽で暴力的なナイフ捌き。僕の居合を素手で受け止め、握力のみで刃を破壊するほどの常軌を逸した膂力。都市伝説なんかじゃない。あの時の《蒼》は本物の鬼の様だった」


 激痛と呼吸困難に身悶える千を見下ろす様に立つ《累》は、黒鞘から抜刀した刀を千の首筋に当てた。《累》を見上げた瞬間に首の皮が裂け、千の首筋を血液が垂れていく。


「どうすれば、あなたを《蒼鬼》に戻せるのでしょうか?」


 見上げた瞬間に映るペストマスクからは表情は窺えないはずなのに、どこか悲しみを帯びて見えた。どこか悲嘆染みた口調がそう思わせるのかもしれない。


 そして、口調は突如として冷淡な声色へと変わっていく。


「あなたの父親がしたように、あなたを強姦すればよろしいですか? それとも、あなたがしたように、あなたの子宮が存在した場所にもう一度刃を刺せば、よろしいですか? もしくは、あなたが名もなき我が子を殺したように、あちらの二人を殺害すれば、あなたの瞳は蒼に戻りますか?」


 瞼が自然と最大まで上がる。覚束なかった呼吸は完全に止まり、心臓の鼓動が回数を重ねる度に大きくなっていくのを如実に感じる。早鐘を打ち続ける心臓が酸素を求め、呼吸を再開する頃には千の視界は平衡感覚を失い、目に映る全ての物が歪んで見えていた。


 なんで……なんで知ってる……。


 なんで、と何度も内心で唱えては荒い呼吸を繰り返し、揺れ動く瞳は最早何を捉えているのか定かではない。眼前に向けられた刃は曲刀の様に捻じ曲がって映り、嘴が切り裂かれたペストマスクも歪んで映り、嘲笑を浮かべているかのように見える。


 そして、次に千が朧気に捉えたのは華茄と笹木辺の表情だった。何もかもが歪んで見える景観の中で二人の表情は分かり易かった。驚愕と悲哀。その二つが混ざった様な同情染みた表情、視線。その表情も次第に歪んでいき、千を嘲り、見下している様に映っていく。


 やめろ……そんな風に見るな……。


 やめろ……やめろ……やめろ……。


 私は……私だって……。


「もう何も聞こえていないようですね、残念です。さようなら、《蒼》」


 首に当てられていた刃が離れ、《累》が千の右側に回る。そして、抜刀された刀を上段に構え、迷う事なく、千の首目掛けて振り下ろされた。 


 血液がこぼれ落ち、床を赤に染めていく。周囲に拡散されていく血液の香りが食堂を埋め尽くした頃に華茄と笹木辺は唖然として、千と《累》を見つめていた。


 その異常な光景に驚愕も悲哀も消し飛び、二人はただただ棒立ちしていた。



 千は振り下ろされた刀を右手で受け止めていた。ナイフでもなく、素手で。



 振り下ろされた刃を右腕一本で受け止める千の右手からは血液が絶えず流れ、床に零れ落ちていく。が、刃を受け止めた右手は切り裂かれてはいない。切り裂かれる事なく刃は受け止められ、刀も右手も静止画の様に動きを見せないように見える。


 だが、すぐに変化は生じた。握り締められた刀身にヒビが入っていく。刀身に浮かび上がる亀裂は波紋の様に広がっていき、最後には刀を握力だけで粉々に砕いた。


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