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三十五

 月明かりが差し込み、並べられた机や椅子が神秘的に反射している食堂の扉を開け、千と華茄は速度を緩める事もなく、躊躇う事もなく、食堂へと進入した。


 向かう先は月光が差し込む巨大な窓。その前で月夜を眺めているペストマスクの殺し屋と全身を震わせる淑女の下へ、迷う事無く、真っ直ぐに千達は進む。


 千は上着を脱ぎ捨てると、右手に和式ナイフを順手に、左手にタクティクスナイフを逆手に持ち、《累》と五メートル程の距離まで進むと立ち止まった。


 《累》が振り返り、怯えた様子の笹木辺が顔を上げる。よく見れば、両手両足はガムテープで縛られている


 酷い顔だ、と千は思った。


 恐怖に怯え、泣き叫ぶ事すら出来ず、発言など到底できない劣悪な環境に身を置かれた者がする薄弱な表情。


 どうして笹木辺が恐怖に震え、完全に《累》に委縮してしまっているのかはすぐに分かった。笹木辺の全身にはまだ乾いていない飛散した血液が付着していた。服にも、両手にも、顔にも、血液が付着している。


 見せたのだろう。首を刎ねる瞬間を。刀を振るう姿を。死と血が蔓延る『殺し屋』という醜悪でしかない職業の何たるかを。


「安心してください。この淑女を殺すつもりはありませんので」


「ああ、お前も安心しろよ。私はお前を殺すつもりで来てるから」


「それは僕が、あなたの言うルールに反したからですか?」


 楽し気な口調で、《累》は言った。からかう様な、と言った方が正しいのかもしれない。


「私は殺し屋だ。依頼があれば誰だろうと殺す」


「なるほど。大人になったのですね、《蒼》も。僕が見惚れた、女も子供も、同業者ですら無差別に殺し、殺戮の限りを尽くした《蒼》はもういないのですね。残念です」


 華茄と笹木辺が驚いたように千を見つめ、千自身は二人の視線を気にする事無く、鼻で笑った。


「そんな奴もういねえよ。私が知ってる《累》もな。お前は誰だ? あんな雑魚の真似をして、どういうつもりだ?」


 《累》に和式ナイフの切っ先を向ける。が、《累》は特に反応を示す事無く、再び窓から外を見上げた。雲間に隠れた月は光を降り注ぐことは無く、食堂に闇を落とす。黒いペストマスクが闇に溶けて輪郭を失っていく。


「言ったでしょう? 僕は《累》。あなたを殺す為に甦ったと」


「そんな糞みたいな妄言を貫き通すんだな? お前は」


「妄言も何も、真実ですから」


「そうかい。なら、もう何も聞きやしない。お前の仮面を剥がして真実とやらを確かめるだけだ」


「では、開戦の前に一つ賭けをしましょうか」


 《累》は左腰に携えている二振りの刀から、一振りを引き抜くと、それを笹木辺の首筋に当てた。なぞるように首筋を伝って行き、切っ先が顎に触れる。そして、《累》は刃を翻すと、峰で笹木辺の顔を無理矢理に上げた。


 自然と視線が重なり、震える瞳が千と華茄に救いを求めて揺れ動く。


 その狼狽する姿を確認すると、《累》はコートから無線受信機を取り出し、音量調節用のダイヤルを回した。瞬く間に音量が上昇していく。最初は微かにしか聞こえていなかった雑音が、千達にも鮮明に聞こえる音量に到達した時、その雑音が人の声だった事に二人は気付いた。


「お母さん……助けて……。怖いよお……お母さん……。助けて……」


 途切れ途切れに聞こえる少年の声に真っ先に反応したのは笹木辺だった。瞠若し見開かれた瞳からは大粒の涙が零れ出し、半開きの口からは熱い吐息が漏れる。


「良太! 良太を、私の息子をどこにやったんですか!」


 笹木辺の怒号にも似た絶叫が食堂内に響き渡り、それでも《累》は臆する事無く、刀の峰で笹木辺の顎を強打した。そのまま前のめりに倒れた笹木辺は顔だけを《累》に向け、睨むように見た。


「では、賭けといきましょうか《蒼》。《蒼》が勝ったら素直に良太君の居場所を教え、この淑女も無傷で解放しましょう」


「お前が勝ったら?」


「僕が勝ったら、《蒼》が鹿野華名、笹木辺良子、笹木辺良太の三名を殺してください」


 千は不敵に口角を上げ、全身から力を抜いた。そして、間髪を入れずに口を開く。


「私は別に構わないぞ、それで」


「ちょ! 梅村さん!」


 華茄が大声で抗議するが、千は視線を《累》に合わせたまま、口を開く。


「勝ちゃいいんだよ」


「それはそうですけど……」


 まだ納得していない様子の華茄を無視して、千は次に笹木辺を見た。


「あんたはどうだ? あんたも反対か?」


 笹木辺はほとんど間を空けずに、すぐに言った。全身はまだ恐怖に震えているけれど、表情に迷いは見られない。


「……お願いします、梅村さん。息子を助けて下さい」


「ああ、任せておけ。あんたもあんたの息子も私が助けてやるよ」


「では、賭けは成立ですね」


 笹木辺に向けられていた刀が鞘に納まっていく。刃が完全に納刀された瞬間に《累》が放つ空気が一変する。空気が刃を纏ったかのように肌を刺激する《累》の殺気がひしひしと伝わり、華茄が思わず後退ってしまうほどの威圧感が食堂内を支配していく。


 華茄と笹木辺は完全に委縮してしまい、瞳からは動揺と恐怖が見て取れた。


 雲間に隠れた月が再び姿を現した瞬間に、《累》は穏やかに開戦の合図を告げた。


「では、始めましょう」


 言葉を言い終えるのとほぼ同時に刃は抜き放たれ、月光に煌めく銀光は既に千の眼前に迫っていた。目で捉える事は不可能の高速の居合。千ですら微かにしか見えない剣閃。


 千は直感を頼りに後方へ跳び、高速で放たれた刀を回避するとパイプ椅子を《累》に向かって蹴り飛ばした。それとほぼ同時に千も《累》に向かって直進。居合の挙動に入った《累》に合わせ、千も右手の和式ナイフを構える。


 とてつもない速度で転がりながら向かってくるパイプ椅子を、《累》は居合の要領で柄を用いて吹き飛ばし、高速で納刀。向かってくる千に合わせて、再び居合を放った。


 迎え撃つように千は和式ナイフを高速で放ち、居合を止めると、刃を滑らせ懐に進入。左手に持ったタクティカルナイフを横一文字に薙いだ。が、タクティカルナイフの刃はペストマスクの嘴に刹那の瞬間受け止められ、嘴の先端を切り落とした瞬間に、千は蹴り飛ばされた。


 床を転がり、机の脚に激突。すぐさま体勢を直し、ナイフを構える。が、体勢を直している間に《累》を見失い、千は後退りながら、周囲を確認。呼吸音を最大限まで消し、足音は完全に消した。視覚聴覚を研ぎ澄まし、脱力。


 そして、和式ナイフを逆手に持ち替え、体を独楽の様に回転させながら、右側に遠心力をたっぷりと乗せて振るった。振るった瞬間に刃と刃が激突し、右手に伝わる鈍重な衝撃と共に甲高い金属音が千の眼前で響き渡る。目の前には刃を弾かれ、納刀が遅れている《累》の姿があった。


 すぐさま距離を詰めようとするも、《累》は帯から刀を外し、千の予想を上回る速度で納刀。再び居合を撃つ姿勢を作ったのを見て、千は後方へ跳躍。《累》から大きく距離を取った。


 そこで初めて千は自身が冷や汗を掻いていた事に気付く。


「相変わらず、美しいナイフ捌きですね。ナイフで僕の居合と同等の剣速が出せるのは《蒼》か梅村椿くらいですよ」


「そりゃどうも」


 汗を拭いながら、千は言った。


「ましてや僕の居合をそんな小さな刃物で完全に相殺しているんですから、驚嘆に値します」


「お前の居合が貧弱なだけだ。過大評価が過ぎるぞ」


「試してみますか? 過大評価かどうか」


 《累》は黒の塗り鞘に納まった刀を帯に戻すと、濃紺の鞘に納まった刀を帯から外した。僅かに腰を落とし、濃紺の鞘に納まっている刀の柄に右手を添える。先程と同様に居合を放つ姿勢に即座に移行していく。


 それはおそらく千だから感じ取る事が出来る違和感。《累》と刃を交えた事のある千だからこそ気付ける微かな変化。


 先程よりも腰が若干深く落ちている。鞘に添える手の位置が若干手前に移動している。

 

 千もそうだが、一度滲み込んだ習慣や癖は意識的に変えない限りは変えられない。ナイフの持ち方、刃の角度、親指を添える位置、順手逆手など、深く考えずに持つと、毎回正確に同じ位置を持っている。最も慣れ親しんだ持ち方を、最も得意とする位置を体が覚えている。


 この変化はおそらく偶然ではない。《累》の中で何かが切り替わった。


 そして何よりも、千が知る《累》は帯から刀を外すような動きを見せたことは一度だってない。


 穏やかな笑声がペストマスクの向こう側から聞こえてくる中で千は内心で何度も問いを《累》に投げた。


 誰だお前は? 一体何者なんだ?


「《蒼》。私は兄ほど甘くはありませんよ?」


 右足を踏み込むと同時に放たれる刀は、先程よりも段違いに速い。千の予想を遥かに上回る速度で刃は千の喉元目掛けて薙ぎ払われる。ナイフで弾く事など考えもせず、千は思考するよりも先に後方へ下がっていた。防衛本能が千の体を勝手に動かした、と言ってもいい。


 切っ先が千の喉元を掠め、皮と肉を浅く裂く。垂れていく血液が服に流れ着く前に《累》の追撃が眼前に迫る。


 《累》の右手が柄に触れた瞬間に抜き放たれる超高速の居合を再び後方に下がり、躱す。空を切った刃も瞬く間に納刀され、再び刃は超高速で放たれる。


 千は放たれた刃ではなく、放たれる直前の鞘の角度と《累》の手の角度を見て、和式ナイフを振り抜いた。火花が飛び散るほどの高速で放たれた刃と刃の衝突。数分前にナイフで刀を弾いた時とは比べものにならない程の衝撃が右腕を通して千の全身を震わせる。


 何とか手からナイフがこぼれ落ちそうになるのを堪え、千はいつの間にか納刀され、再び放たれた居合を直感だけで軌道を読み、逆手に持ったタクティクスナイフで何とか捌いた。


 その瞬間にタクティカルナイフは完全に破損。刃が宙を舞い、食堂の隅に避難している華茄と笹木辺の前に黒い刀身が突き刺さる。


 千は刃を失い、グリップだけになったタクティカルナイフを《累》に投げ飛ばし、距離を取りながら、腰から刃渡り二十センチの黒い刀身を持つコンバットナイフをシースから引き抜いた。


 和式ナイフとほぼ同じ刀身を持つコンバットナイフでは刀身の長さを利用した技巧は使えない。千は舌打ちしつつ、コンバットナイフを逆手に持った。


 今の千の動体視力では今の《累》の居合を捉える事は出来ない。手の角度や柄の角度を見て、直感的に予測するしかない。が、予測が外れれば、簡単に片腕が斬り落とされる。その恐怖と緊張が、千から集中を奪おうとする。


 だが、やるしかない……。


 恐怖と緊張を息と共に吐き出し、千は再び刀を帯に戻している《累》を射抜いた。が、《累》が口にした言葉によって、すぐに視線から鋭さが薄まっていく。


「なるほど。私だけでは倒すことは難しいようです、兄さん」


「そうみたいだね。じゃあ、僕も手伝うよ」


「では、一緒に参りましょう。先手は兄さんから、お願いします」


 感情の起伏が少ない大人びた女性の口調から、再び千の知る《累》に戻り、また慇懃な女性の口調に戻る。戸惑いを隠せず、千はナイフを強く握り、息を呑んだ。頬を伝う大量の汗を肩で拭う。


「似非兄妹喧嘩は後にしてくれ。虫唾が走る」


「では、行きますよ《蒼》」


 同時に踏み込んだ両者は一瞬で距離を詰め、千は和式ナイフを、《累》は黒鞘に納まる刀を引き抜き、振り抜いた。激突する刃は甲高い音を立て、火花を散らす。


 そこで感じた『違和感』の正体に気付きながらも、千は左手に持ったコンバットナイフを瞬時に順手に持ち替え、《累》の喉元狙って横一線にもう一度振り抜いた。


 が、後方に回転しながら千のナイフを簡単に躱す《累》は千に向き直る頃には納刀を終え、既に右手が柄を掴んでいる。だが、掴んでいる刀は黒鞘の刀ではない。掴んでいるのは濃紺の鞘に納まった刀。瞬時にその変化に気付いた千は膝を大きく曲げ、即座に屈んだ。


 頭上を通過する刀と共に刃風が髪を揺らし、千は左に転がった。転がりながら、パイプ椅子を手の甲で殴り、《累》に向かって吹き飛ばした。すぐに起き上がり、体勢を直すが、千は苦笑を堂々と浮かべ、千の平静を乱す動揺を隠す事無く表面化した。


 千も初めて対峙する技。先程、千が感じた違和感が確信に達した瞬間に千の脳裏には、逃走すべきか、という考えがよぎっていた。


 《累》が繰り出してきたのは居合の速度変化。高速の居合と、超高速の居合。《累》はその超人的な速度を誇る居合の剣速を使い分けた。


 千や、母であり師でもある千の数段上の実力を持つ梅村椿ですら、そんな芸当は出来ない。ましてや、戦闘中に剣速を正確に変化させることなど出来はしない。


 高速の居合も、超高速の居合もどちらも全力で放っているからこそ繰り出せる速度。どちらも手を抜いていては放つ事は不可能の文字通り必殺の居合。


 故に千や椿では再現できない。


 何故なら千と椿が出せる剣速の最高速度は一つしかないから。最高速度を使い分けるなどという発想にそもそも至らない。


 パイプ椅子を容易く切り裂いた《累》は苦笑を浮かべている千を見て、どこか落胆した様に刀をゆっくりと納めた。


「まさか、逃げるおつもりですか《蒼》?」


「そんなはずはないよ。だって、そこの二人を連れて僕達から逃げるなんて不可能だからね。《蒼》もそこまで馬鹿じゃあない」


「ですが、兄さん。《蒼》から戦意が削がれたのもまた事実ではないでしょうか?」


「それを確かめるとしたら、そうだね……あの二人のどちらかを殺せば分かるんじゃないかな?」


「妙案です、兄さん。どちらの方が効果的だと兄さんはお思いですか?」


「それは鹿野華茄さんで間違いないよ」


「では、そうしましょう」

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