第二話 一
「楽な仕事だったな」
千はそんな事を呟きながら、夜道を一人歩いていた。千の独白を聞いている者は誰もいない。秋の夜風が肌に触れるたびに体を震わせ、寒さに耐えるために手をポケットに突っ込んだ。
仕事帰りの疲労した体は、今すぐにでも睡眠を求めているが、アパートまで徒歩で三十分は掛かる。下がり気味の瞼に負けないように歩いていくしかない。
歩くこと、十分。携帯電話に着信がかかる。バイブレーションと共に、初期設定のままの電子音が胸ポケットから漏れ出ている。
携帯を開き、着信相手を確認する。《青》だ。
通話ボタンを押し、携帯を耳に当てた。
「どうした?」
「仕事は無事に終わった?」
「電話に出てるんだから分かるだろ?」
「そうね、ごめんなさい」
「で? 何の用だよ?」
「ちょっと気になる事を聞いたのよ」
「気になる事?」
「ええ」
《青》の声が途端に小さくなった。
「《白》が上海にいる可能性が出てきたって」
「上海か……。七年前に行方不明になってからどこにいるかと思えば、そんなところにいたとはな」
「ええ。一応、調べてみるけどあまり期待はしないで」
「ああ。それで、他にも何かあるのか?」
話の内容を聞く限り、家に帰ってからでも出来る話だ。緊急性も無いし、わざわざ電話を掛けてまでする様な話でもない気がした。
電話の向こう側で《青》が「え?」と呟き、少し間を空けてから、小さく息を吐く音が聞こえてくる。
「もう帰ってくるんでしょ?」
「仕事も終わったし、帰るけど……」
「後どのくらいで帰ってくる?」
どうも《青》の言葉には覇気が無い。千に取り繕うように、下手に出ている気がする。
《青》とルームシェアする事になって、もう三年程になる。初めてかもしれない。《青》がここまで千に遠慮している素振りを見せることが。
「もう着くけど」
時間にして後五分といった所だろうか。アパートから一番近いコンビニエンスストアも通り過ぎ、後は真っ直ぐに歩くだけ。歩幅を緩めたとしても、十分もかからない。
「あー、うん。帰っても怒らないであげてね」
「……ああ」
何となく察しは付いた。《青》が珍しく千に遠慮している理由も。
もう一人の同居人が影響しているのだろう。緋乃が何か千に不利益になる事をしてしまった結果、《青》が千に電話する羽目になっているのだろう。
「緋乃に心配するな、って言っとけ」
「ええ。それはさっきから言ってるんだけどね……」
気を落としている様に聞こえる《青》の声。
「とにかくすぐに帰るから」
通話を切り、折りたたんだ携帯電話を胸ポケットに忍ばせると千は走り出した。とにかく早く帰りたかったのだ。もうアパートは目の前。千の手には部屋の鍵が既に用意されていた。