三十二
左から高速で走行してきた大型トラックが十字路を突っ切り、男達が反応する前に彼等を轢いた。トラックの走行音が肉と骨を破壊した音を完全に掻き消し、千は目だけを動かし、眼前から突如として消えた二人を追った。
とてつもない速度で吹き飛んだ七三分けは電柱に背中から激突し、地面に顔から落ちていった。右腕は肘から先が明後日の方向へ曲がり、右足も同様。膝から先が折れており、歪な曲線を描いている様にも見える。
スキンヘッドは民家の庭に吹き飛んでいったために姿は確認できないが、空中を激しく回転して飛んでいた彼の首が不規則かつ柔軟な動きをしていた瞬間を千は間違いなく目撃した。スキンヘッドの男の首は確実に折れ、命を落としている。
一瞬にして、二人の男が肉塊に変わった事には動揺を示さず、千は七三分けが倒れている電柱の横に停車したトラックを睨み付けるように見た。
ブレーキランプが十字路を赤く染め上げ、エンジンが生み出す振動が大気を震わせる。そして、エンジンが停止すると同時に運転席の扉が開き、トラックから小さな老人が現れた。杖をつき、ピクリとも動かない七三分けの前に立つ。
その老人を千は知っていた。駅で千の過去を言い当てた謎の老人。小難しい考えを脳内で張り巡らしていそうな偏屈な顔。曲がった背中は綺麗な曲線を描いているというのに、立ち姿からは何故か力強さを感じ取れた。
老いた外見に反して、眼前で杖をついている老人からは老いというものを全く感じない。得体が知れない相手を前に、千は無意識にタクティカルナイフを強く握り締めていた。
「……貴様、まだ生きているのだろう?」
老人は表情を変えることなく、倒れたままの七三分けに言った。自然と千の視線も七三分けに移動し、いつのまにか千の隣に立っていた華茄も七三分けと老人を懐疑的に見つめた。
老人が言葉を投げ掛けた数秒後、七三分けの顔が僅かに浮かび上がり、飢えた狼の様な鋭い目付きで老人を見上げていた。鼻は折れ、額から流れ出る血液が右目を伝い、血涙の様に赤い雫を細い顎からポタポタと絶え間なく流している。
「テメエ……か。うちのお嬢を……轢き……殺したクソ……野郎は……」
「……お嬢とやらを殺したのは『轢き屋』と呼ばれている殺し屋だろう」
「轢き……屋……?」
そう言った七三分けは大きく咳き込み、七回目の咳の後に血塊を吐き出した。地面が赤く染まり、老人の杖に吐血した際の飛沫が付着する。
老人はそれを横目に見つつも意には介さず、軽い足取りで運転席へ上がり、一人の男の亡骸を七三分けの前に雑に置いた。外見は千と変わらないであろう二十歳前後の青年。喉元に大きく開いた穴からは大量の血が未だに流れ続けており、七三分けの前を血溜まりに変えていく。
「……この男のことだ。既に死んでいるがな」
「あんたが……やった……のか?」
「……ああ」
「そうか……感謝……する…………」
七三分けは老人に一言、感謝を告げると、そのまま安穏と瞼を下ろし、頬を地面に着けた。閉眼した七三分けに老人は手を合わせ、瞑目する。それから数十秒後に老人は開目し、僅かに体を右側へ向け、千達を視界に捉えた。
視界が重なった瞬間に千はほぼ反射的にナイフを老人に向け、腰を落としていた。息を吐き、全身に蔓延る無駄な力を抜いていた事も後から気付く。
警鐘が鳴っている。この老人は危険だと本能が、千が培ってきた直感が幾重にも告げてくる。だが、血溜まりに佇む老人から何故か視線を逸らせない。両足は逃げる事を拒否し、右手は和式ナイフのグリップを掴み、勢いよく引き抜いた。順手で持ち、老人に切っ先を向ける。
「……蒼き瞳の鬼よ。金色の夜叉の下へ、儂が送ってやろう」
思わず瞠若する千は息を呑み、吐き出そうとした言葉すらも飲み込んでしまった。
何故、知っている……。
千達が実験によって手に入れた変化する虹彩を。
今や千達に行われた人体実験を知っている人物は数える程度。計画を発案し、資金を工面した蓮路と被験者三人、科学者の中で唯一生き残った慧と千の両親。そして、実験を秘密裏に引き継ぎ、千達を監視している国の暗部。
もし、この老人が慧と同じ科学者の生き残りならば、千達の素性を知っている理由に説明が付く。もし、この老人が国の暗部を任された人間で、千達を監視する立場の人間ならば、説明が付く。
だが、それらの可能性は一瞬にして消失した。
老人の瞳が黒色から、桔梗の花の様な青みを帯びた紫色に変化した事で、千は完全に言葉を失い、眼球が飛び出るのではないかと思う程に瞳は大きく見開かれた。
「……あ、あの、金色の夜叉って誰のことなんですか?」
華茄が口にした問いは千が喉奥に飲み込み、失った文言。それを華茄は戸惑いながらも言った。
言葉に吸い寄せられるように千に向いていた紫色に光る瞳が左に逸れていき、華茄を捉えた。
「……貴様らが《累》と呼んでいる殺し屋のことだ」
「……なんでお前が《累》の居場所を知ってる?」
千は瞑目し、一度だけ深く呼吸をした後に言った。老人の視線が千に戻る。
「……そこに転がっている殺し屋から聞いただけだ」
「無理矢理聞き出したの間違いだろ」
鼻で笑いながらも、千は警戒を強めた。老人が言っている事が事実なら『轢き屋』を殺したのは、この男で間違いない。それに虹彩が変化する瞳を有しているというのならば、千達と同じく実験の被験者である可能性が高い。つまり、固有の能力を有している可能性がある。油断は出来ない。
「お前は何者だ? 何の為に『轢き屋』を殺した?」
「……儂は先を見通す者。故にこの男を殺した。我が同胞を守る為に」
「同胞? 誰のことを言ってる?」
「……分からぬのならよい。さあ、どうする?」
「私がお前を信用してると思うか?」
「……思わぬな」
「なら、お前に案内されるつもりはないって、分かるだろ? 私達は自分の足で向かう。《累》の居場所を教えろ、ジジイ」
老人は驚く事も、怒る事もなく、冷淡に千を見つめた。妖しく光る桔梗色の瞳に射竦められ、千は思わず顎に力を入れていた。が、華茄の手前、後退る事はしない。
「……貴様の隣にいる無力な少女が通う学び舎にて、金色の夜叉は貴様らを待っている」
千達に背を向けた老人は空を見上げると厳かに語り出した。
「泡沫の夢はやがて弾け、夜明けと共に汝に試練を与えるだろう。困難に抗う者には死を。死を恐れるならば、困難から目を背けよ。さすれば生は保たれる」
老人は頤を落とし、一歩ずつ前に歩き出した。
「……覚えておけ、蒼き瞳の鬼よ。既に我等の命運は貴様に委ねられているという事を」
「何の話をしてる?」
「……半身を大事にな」
意味深な言葉を残して去っていく老人の背を二人は見送りながら、互いに顔を合わせ、首を傾げた。老人が残した言葉の意味を理解できないまま、千は両手に持っていたナイフをシースとポケットにしまい、駅がある方角に向かって歩き出した。
二人が歩き出してから二十分程でパトカーが鳴らすサイレンが遠くの方で木霊し、音がする方向に顔を向けながら、華茄は口を開いた。
「あのお爺さん、何者なんですかね?」
「私が聞きたいっての。だが、まあ……」
あの偏屈な老人が口にした『儂は先を見通す者』という言葉が千は気掛かりだった。その言葉通りに受け取るのならば、彼には未来が視えているのかもしれない。その力が彼の桔梗色の瞳には備わっているのかもしれない。
あの瞳がどれだけ先を見通しているのかは分からないが。
それでも千が気掛かりに感じている、この憶測は有り得ない話ではないのだ。自分達が手に入れた特殊能力と呼ぶに相応しい異能が、一見考慮する価値もない憶測を完全に否定できないものに変えてしまっているから。
もし、あの老人が本当に未来を予知する力を持っていたとしたら、彼の言葉は無視する事など到底できない重要度の高い言葉に変わる。
千は面倒臭いと、思いながら溜息を吐き「後で慧に確認するか……」と内心で愚痴を零した。
「だがまあ、なんですか?」
「だがまあ、たまには先人の知恵に従うのも悪くないかもな」
「あんな中二の話を信じるんですか?」
「中二ってお前な……。お前達から見たら私達の職業も大分中二だろ」
「いや、まあそうですけど。でも、実在してるならもう中二とは言えないですよ。私が言ってるのは、あのお爺さんの話し方とかの話で。あのお爺さんも目の色変わったし」
「話し方はともかく、まだあの爺さんの言葉を否定するには材料が足りないって事だよ。あの爺さんが口にしたのは未来の話だからな。完全には否定できないさ。それよりも、だ」
華茄の肩に手を回し、千は華茄を引き寄せた。耳元に口を寄せる。
「お前、《青》に目のことは言わないって約束したんじゃなかったか?」
「あ……」
先程、華茄は「あのお爺さん『も』目の色変わった」と言った。つまり、他にも虹彩が変化する人間を知っていると言っているようなものだ。千や《青》ならば問題ないが、実験に携わった人間が聞けば、間違いなく勘付く。
勘付かれたら華茄の人生は終わりだ。情報漏洩を防ぐ為に大勢の科学者を殺害し、研究所すらも木端微塵にした人間達ならば、一般人を消すことなど容易い。老人が言った様に無力な一般人なら尚更。
彼等なら保身の為にそれくらいのことはする。間違いなく。
「あんまりベラベラ喋ると困るのは自分だからな、気を付けろよ。私達を敵に回して良い事なんて一つもないぞ」
「はい、肝に銘じておきます……」
深刻そうな顔で俯いてしまった華茄の頭に手を乗せ、ガシガシと乱雑に撫でた後に千は華茄から再び距離をとって歩き出した。
「多分、お前を信用できると思ったから《青》も、お前に目を見せたんだ。だから、信用を棒に振るなよ、無力な少女」
冗談めいた朗らかな口調で言った後に千は華茄の背をぽんと叩いた。
「『も』ってことは梅村さんも私のこと信用……してくれてるって……ことですか?」
「さあ、どうだろな。とりあえず、私は出会ってまだ数日の奴を信用したりしないって事だけは言っておこうか」
「え? それって信用してないってことなんじゃ……」
「さ、無駄話は終わりだ。緊張感を持て」
「え? え? 結局どっちなんですか?」
「どっちでもいいだろ、そんなこと。早く行くぞ」
華茄の左手を掴むと、千は早歩きで歩き出し、強引に華茄の口を噤ませた。時間的に仕事帰りのサラリーマンが多い駅周辺に到着するまで二人は一言も話す事なく、電車にではなく、タクシーに乗り込み、春宵高校へと向かうのであった。




