三十
結んだ小指を眺めていると、背後で扉が開いた音が聞こえてきた。扉を半分だけ開けて、覗く様に見ているのは母である佳代と、妹の天だ。ニヤニヤと小馬鹿にした様な笑みを浮かべている天と、穏やかな笑みを浮かべ、口元に手を当てている佳代を見て、華茄はすぐさま扉に近付いていった。
「ちょっと、家の外には出ないでってさっき言ったでしょ?」
「お姉ちゃん、今の人誰? 彼氏? 優しそうな人だね。ちょっとごついけど」
「違うから。ほら、早く入って」
二人の背中を押し、華茄が強引に家に押し込もうとすると、佳代が笑みを強め、弾んだ調子で家に戻って行った。
「あらあら、そんな必死に否定して。華茄ちゃんにもやっと春がやってきたのかしら」
「だから違うってば!」
二人を家に押し込み、最後に華茄が家に入ると、扉を閉め、鍵も閉めた。開かない事を確認する。そして、天と共にリビングへと向かい、三人掛けのダイニングソファに二人は腰を下ろした。すぐにコーヒーを三人分持って現れた、佳代が華茄の隣に腰を下ろす。
三人でテレビ画面を無言で眺め、そこに映っている春宵高校を華茄はぼんやりと見つめた。速報、という見出しが右上に表示され、その後には「轢き逃げ、高校生多数死亡」と記された報道番組。アナウンサーが春宵高校前の信号付近で状況を説明し続け、一瞬だけ映りこんだ血痕を見て、華茄は当時の状況を鮮明に思い出す。
危機一髪だった。千が居なければ、華茄は死んでいた。それに彼女が華茄を連れ、あの場を離れていなければ今頃、面倒臭い事情聴取を受け続け、警察署に居たかもしれない。
コーヒーを啜り、華茄はゆっくりと飲み込んだ。
「こんなこと言うと何だけど、華茄ちゃんも天ちゃんも無事で良かったわ。もしここに二人の名前が載ってたりしたらって思うと」
「大丈夫。私も天もちゃんと生きてるから」
「そうだよ。お母さん心配し過ぎ」
「だって……天ちゃんの中学では殺人事件が起きるし、華茄ちゃんの高校では轢き逃げ事件が起きるし、心配になっちゃうじゃない」
「殺人事件? なにそれ?」
華茄は薄情なまでに感情の起伏を見せずに言った。
「お姉ちゃんも知ってると思うけど、私が通ってる中学って旧校舎がまだ残ってるでしょ? そこに高校生が四人死んでたんだって。全部首を斬り落とされた状態で」
その四人は華茄を追い回していた上級生であることは間違いない。今朝に紗南から連絡も来ているし、《累》が華茄達と別れた後にどこへ向かったのかは想像に難くない。
「へえ……」
「へえってお姉ちゃん気にならないの?」
あまり華茄が興味を示さなかったことに不満顔の天は、唇を尖らせた後にコーヒーを啜った。
「え? あ、気になるよ。気になるけど、ちょっと非現実的過ぎて、ついていけてないというか」
「ほんとだよね。学校も臨時休校になっちゃったし、テレビにはお姉ちゃんの高校映ってるし。お姉ちゃんの学校は休みになったりしないの?」
「えーっとね……」
学校を欠席した華茄に休校措置を高校側が取ったのかは知る由もなく、調べてもいない為に結局高校側がどんな措置を取ったのかは分からない。華茄が言葉に詰まっていると運良くアナウンサーが「高校側は臨時休校の措置を取り、保護者に送迎を求め……」と口にした事で華茄は素早く天に返答した。
「今日は休みだったよ。天と同じ」
「あーそれでお姉ちゃん、彼氏と一緒に居たんだあ、ふーん」
「だから違うって。天、しつこい」
「なら、今朝一緒に歩いてた綺麗な女性はだーれ?」
「え?」
「なにそれ、なにそれ。お母さん詳しく」
「今日華茄ちゃんを二駅先まで送って行ったじゃない? ちょっと気になってお母さん、華茄ちゃんを尾行してみたの」
誇らしげに語る佳代を見て、華茄は溜息を溢した。
「お母さん、何してんの……」
呆れている華茄とは裏腹に天と佳代のテンションは高まっていく。
「すごいね、お母さん。探偵みたい」
「でしょ? お母さん、人生初尾行だったけど、華茄ちゃん全然気付かないの。才能があるのかも」
「ないない。それでどこまで尾行してたの?」
「えーっと、駅の近くにあるコンビニまでかしら。そこで天ちゃんから電話が掛かってきて、急いで帰ったの」
「そっか、なら良かった」
「何が良かったなの?」
「ううん、何でもない」
もし佳代が春宵高校前まで華茄の後をつけていたら、生徒が轢き逃げされる瞬間を目撃するところだった。しかも、娘が危機一髪助かった瞬間を。あんな凄惨で死に溢れた光景を佳代には見せたくはない。
佳代は優しく穏やかで、家族に対して深い愛情を注いでくれる華茄と天にとって最愛の母親ではあるが、彼女は強い人ではない。無駄に傷付きやすく、落ち込みやすい。もし、佳代が轢き逃げの瞬間を目撃していたら、一週間は寝込んでいたかもしれない。
「それでその綺麗なお姉さんは結局誰なの?」
「バイト先で知り合った人。偶然会って、偶然同じ方向に用があったみたいだから、一緒に歩いてただけ」
「ほんとに? 偶然がそんなに連発するかなあ?」
「本当だし。なにをそんなに勘繰ってんの?」
「だって、お姉ちゃんって好きな事に夢中になればなるほど、こそこそ動くタイプじゃん。服作るの好きなのも最近まで黙ってたし、バレバレだったけど。もしかして、お姉ちゃん。その女の人が好きなのかなあって思って」
「あらあら、そうなの華茄ちゃん?」
二人が同時に華茄を見つめ、答えを催促する様に顔を近付ける。期待に満ちた眼差しで見つめてくる母と妹を華茄は手で遠ざけながら、溜息を溢し、ハッキリと否定した。
「違うに決まってるでしょ」
「だよねえ。女同士だし、有り得ないよね。でも、お姉ちゃん。ストーカーはよくないと思うよ」
「そうなの? お母さんは別に女の子同士の恋を否定したりしないわよ。でもそうねえ。ストーカーはダメよねえ」
「勝手に話進めないで。別に私と梅村さんはただの知り合いだから。ストーカーでもないし。……ちょっと待って。私が服作るの好きってバレバレだったの?」
天と佳代を見てみれば、「何でバレてないと思ってんの?」とでも言いた気な呆れ顔と苦笑が見受けられた。
「バレバレだよ。ねえ、お母さん」
「そうねえ。華茄ちゃん、バイトを始めてすぐに自分用のミシンとか裁縫道具を色々買ってたし、給料日になると嬉しそうに生地買って帰って来ていたから」
「そうだよ。私服買ってないはずなのに、オシャレな服たくさん持ってるし。すぐ気付くって」
「そう……なんだ」
熱さが抜け、程よく冷めたコーヒーを啜る華茄の目尻は下がり、口角は僅かに上がっていた。二人が自分のことを何気なくでも見ていてくれたことに華茄は内心から滲み出る喜びを隠しきれなかった。
華茄はマグカップを両手で包む様に持つと、少し間を置いてから言った。
「……大学はね、服飾を学べる所に行こうと思ってるんだ。自分の好きな事を思い切り学べる場所に」
華茄の告白を聞いた二人の反応は、華茄の予想以上に軽かった。
「おー行きなよ行きなよ。しっかり服の作り方学んで、私達に無料で服作ってね」
「お母さん、モデルなんて出来るかしら。天ちゃん、まだお母さんモデル出来ると思う?」
「大丈夫大丈夫。お母さん、見た目は凄く若いから」
「そう? でも、有名になったらどうしましょう……」
華茄はマグカップをダイニングテーブルの上に置き、息を大きく吸った。そして、これ以上は入らない所にまで腹に空気を送り込んだ瞬間に、解き放った。
「ならないから! 私が学びたいのは服飾だから! お母さんをモデルにする方法じゃないから! もう、真剣に話してるのに」
「ごめんごめん。冗談だってお姉ちゃん」
「冗談だから、許して華茄ちゃん」
立ち上がろうとした華茄の肩を二人が押さえこむように触れ、華茄は再びソファに深く座り込まされた。華茄は目を閉じ、二人の視線から逃げていたが、薄目で必死に華茄を見つめている二人を見て、華茄は吹き出すように笑った。
「別に怒ってないよ。二人が必死だからからかってみただけ」
「うわあ……お姉ちゃん性格最悪だね」
「いつからそんな不良に……お母さん悲しいわ」
「もういいから、そういうの。さ、お腹空いたからご飯作ろー」
「お姉ちゃん、料理久し振りじゃない?」
「そう? ……そうかも」
キッチンに向かい、手を洗いながら、華茄は最後に料理をした日が一週間前だという事に気付いた。瑠璃が自殺した日から華茄は一度も料理をしていない。服や小物も一度も作っていない。
彼女を失ったあの日、彼女の亡骸を目に焼き付けたあの日、私の心は憎しみで満たされてしまった。他に何も手が付かなくなる程に私は復讐のことしか考えられなくなった。
でも、今は少し違う。優しい殺し屋達が私に与えてくれる優しさが、私に束の間の平穏を齎してくれた。こうして、現実と向き合う余裕をくれた。
もう私に出来ることは何もない。ここからは彼女達の土俵。私に出来ることがもしあるとすれば、梅村千という女性を信じる事だけ。彼女の勝利を彼女の側で祈り続ける事だけだ。
「もうお腹ペコペコだよー。お姉ちゃん、早く」
「お母さんも手伝うわ、華茄ちゃん」
「ありがとう、お母さん。私、もう大丈夫だから」
華茄が精神に来たしていた変調に二人が気付いていたのかどうかは分からない。けれど、少なからず心配を掛けていたことは間違いないだろう。華茄は可能な限り力強く、出来るだけ不自然が無いように笑顔を浮かべた。
すると、包丁を取り出していた佳代は目を何度も瞬かせ、首を傾げた。
「え、大丈夫って何が?」
「何でもない。さ、ご飯作ろ」
 




