二十九
《青》と華茄は商店街に入ってすぐにある服屋に寄り道をすると、子供服が並べられたハンガーラックの前で服を吟味していた。
「掘り出し物はあるかしらねえ」
「これなんて良いんじゃないですか? 犬のプリントが可愛いですよ?」
服の中央でトイプードル二匹が戯れているプリントがされた白色の長袖Tシャツを手に持ち、《青》に手渡した。服を受け取るも、《青》は渋い顔で顎に手を添えた。
「んー緋乃って何故か小型犬にはあまり興味を示さないのよね。嫌いではないみたいなんだけど」
「なんとなく分かる気がします。私も小さい時は大型犬の方が好きでした。何となく強い気がして」
「緋乃も華茄ちゃんと同じ理由なのかしら。せっかく選んでもらって悪いけど、これは止めておくわ」
「いえ、全然かまわないです。服選びなんてそんなものですよ」
華茄が選んだTシャツをラックに戻し、二人は店にある子供服を全て見た。その結果、《青》が求める服には巡り会う事は出来ず、二人は服屋を出た。
「中々良いのに巡り会わないわねえ」
《青》が顎髭を擦りながら、愁然と言うと、華茄が《青》をチラチラと見てはソワソワとし始めていた。急激に落ち着きがなくなった華茄に若干戸惑いながらも、《青》は口を開く。
「どうしたの、華茄ちゃん」
「あの、一つ提案なんですけど。あ、嫌ならハッキリと断ってくれて構わないんですけど」
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。どんな提案か言ってくれる?」
努めて優しく言うと華茄は瞬く間に笑顔になり、提案とやらを告げた。
「私が作りましょうか? 緋乃ちゃんの服」
「作ってくれるのなら、ぜひと言いたいところだけど、いいの? 華茄ちゃんも高校二年生だし、忙しいんじゃない?」
「大丈夫ですよ。私、服とか小物作るのが好きで、普段から作ったりしてるので。勉強も普段からしてますし、それに梅村さんから言われたっていうのもあるんですけど、大学はちゃんと服飾を学べる所に行こうと思ってるので、自分以外の誰かの服を作れるのって良い経験になるかなって」
「そう……なら、お願いしようかしら。ちなみに、なんだけど。千ちゃんが華茄ちゃんに何を言ったのか教えてもらってもいいかしら」
華茄は千とのやり取りを包み隠さずに《青》に話した。まだ十七歳と若く可能性に溢れているのだから、自分が死亡した時にあの世で宍戸瑠璃に報告できるように、これ以上後悔したくないのなら残りの人生、全て使って何かをしてみろ、と言われた事を。
「まずは好きなことを軸に考えてみればいいって、大層立派な目標じゃなくていいからって梅村さんは言ってくれたんです。だから、まずは好きなことを本気で勉強してみようって思えたんですよ」
「千ちゃんがそんな事を……」
彼女が口にした言葉は全て、彼女が心の奥底に抱える願望の様にも《青》には聞こえた。殺し屋とは無縁の平穏で平凡な日常に憧憬しているが故の発言の様に。未来の展望に悩み、下らない事で一喜一憂する普遍的な人生に。
考えても仕方が無い悩みではあるが、その気持ちが分からないでもない。
もし自分がゲイではなかったら、あの実験に参加していなかったら、両親との確執が無かったら、全く違う人生を《青》も千も歩んでいたかもしれない。
けれど、私はあの実験に参加できたことが今は幸運だと思える。
諦めていた自分の子供を持つ事が出来た。今度は大切にしようと思える家族を手に入れる事が出来た。あの実験で私の人生は大きく歪んだけれど、歪んだからこそ奇跡的に他人の人生と繋がる事が出来た。
もし、あの実験で千ちゃんと出会わなければ、彼女が入院したとしても気にはしなかった。彼女を引き取ろうとは思わなかった。
もし、《白》と慧が実験に参加していなければ、緋乃は生まれる事は無かった。
もし、千ちゃんと一緒に住んでいなかったら、緋乃と出会う事は無かったかもしれない。
私の人生が幸福に彩られ始めたのは、本当にこの世界に生きていると実感できるようになったのは、皮肉にも全てがあの実験のおかげ。
「千ちゃんは、根は真面目なのよね。色々と乱暴だから誤解されやすいけど」
「実は……実際に話してみるまで、私も梅村さんって怖い人なのかなって最初は思っちゃいました。あ、今はそんな事ないですよ。緋乃ちゃんと話してる時の梅村さん、本当に幸せそうだし」
「残念ながら、緋乃にしかああいう表情はほとんど見せてくれないわよ。もう何年も一緒に暮らしてる私にすらなかなか……」
「あ、でも昨日誰かからメールが来るたびに優しく微笑んでましたよ。彼氏さんとかじゃ」
「それ緋乃からよ。千ちゃんから絵文字付きのメールが来て、鳥肌が止まらなかったのを今でも覚えてるから、間違いないわ」
「あ、そういうこと……ほんとに緋乃ちゃんにしか見せないんですね。緋乃ちゃんって梅村さんの子供なんですか?」
「……違うわ。友人の子供を預かってるの」
《青》は言いながら、自然と視線を逸らしていた。逸らした先には高原精肉店があり、中年の女性が店番をしている様だった。視線が合い、互いに会釈していると華茄が「高原樹のお母さん……」とぼそりと口にした。
その後に「母ちゃん、今日は店番しなくてもいいって言ったのに」と中年男性が店の奥から言いながら現れたことから、店番をしていた女性が高原樹の母親で、高原精肉店の女主人なのだという事をすぐに理解する。
「知り合い? 挨拶していく?」
「入学式の時に挨拶した程度ですから、大丈夫です」
あっという間に二人は高原精肉店どころか商店街を通り抜け、駅へとたどり着いた。切符を買うことなく二人はスマートフォンを改札にかざし、通り抜けると丁度到着した電車に乗り込んだ。
扉が閉まり、数十秒後に出発した電車内には華茄と同じ春宵高校の生徒が複数人乗車しており、《青》は扉と自身で華茄を挟む様に立った。乗車している生徒達が華茄と親しい間柄なのかは《青》には分からないが、出来ることなら今は話しかけられるのは避けない。
状況説明するのも、怪訝に見られるのも面倒でしかない。
目に映る生徒達全てに気を配るも結局、誰にも話し掛けられる事はないまま、二人は二駅先で電車を降りた。
駅から華茄の家に着くまで《累》や今朝起きた交通事故の様なアクシデントに見舞われる事もなく、千が言う様に華茄が命を狙われる様な出来事は一度もなかった。
玄関前で二人は立ち止まると、向き直った。《青》は華茄の肩に乗った髪や埃を手で払った後に口を開いた。
「帰ったらすぐに千ちゃんを向かわせるから少しの間、不安かもしれないけど」
「大丈夫です……でも、なるべく早く来てくれると助かります」
「ごめんね」
《大蛇》の一件を経て、緋乃を脅かす存在は千達の実験を計画した資産家・蓮路とその計画を実行に移した日本という国だけではないという事を知った。《大蛇》の様に梅村椿の娘である千に腕試しの様に挑んでくる者や、《累》の様に《蒼鬼》という都市伝説化するまでに暴虐の限りを尽くしていた千に復讐してくる者までいる。
その私情に緋乃が巻き込まれる可能性がある事を私達は一月前、緋乃が《大蛇》に誘拐されたあの日に思い知った。緋乃が無事だったのは《大蛇》が緋乃の正体を知らなかったからだ。
もし、彼が知っていれば結果は違ったかもしれない。緋乃を連れ戻すは出来なかったかもしれない。今頃、何処かの研究機関に管理され、《青》達が味わった苦痛と隣合わせの実験を強要されていたかもしれない。そうなれば、緋乃と再会する事は二度と出来なかった。
そうさせない為にも緋乃を一人で家に置いておくことはもうできない。考えすぎだと言われても、過保護だと言われても、緋乃は実際に誘拐され、命の危険に晒されたのだから。過保護になるには十分な理由過ぎる。
「何度も言う様で悪いけど、戸締りはしっかりして、人を家に上げないようにね。宅急便なんかは特に注意よ。割と殺し屋も使ってる変装だから」
「もし、怪しい人が来たらどうすればいいですか?」
「もし、こいつやばいなって人が来たら、警察に迷う事無く連絡して。その後に包丁でも何でもいいから刃物を持って、相手に向けて。普通の人はそれで怯むから、そのうちに逃げれそうなら逃げて。後処理が大変だけど、消火器なんかも有効よ。目の前が真っ白になれば慣れてない人は結構パニックになるし、煙幕代わりにもなる。振り回せば鈍器にもなるしね。あ、でも消火器を使う場合は逃げ道を最初に確保すること。じゃないと自分の逃げ道も塞ぎかねないから。それと、あまり戦おうなんて考えてはダメよ? 勇敢と無謀は違うわ」
《青》は驚いた表情をした後に嬉しそうに微笑んだ華茄を見て、首を傾げた。今の説明のどこに微笑む要素があったのか分からなかったからだ。
「どうしたの?」
「あ、ごめんなさい。なんか《青》さんと梅村さんって似てないけど、やっぱり似てるなあって思ったら、嬉しくなっちゃって」
「そんなに私、乱暴に見えてるの……?」
驚愕と戦慄が胸中を渦巻き、項垂れていく《青》を見て、華茄は顔の前で右手をぶんぶんと振り、即座に否定。
「あ、性格は全く似てないと思いますよ。でも、《青》さんも梅村さんも本質的な所は似てるなあって思って。二人とも優しすぎなんですよ」
「そう? かしら?」
「そうですよ。だって、何だかんだで二人共、私の安全を一番に考えてくれるんですもん」
《青》はそうね、と言った後に瞑目した。息をゆっくりと吐き出していく。
「……華茄ちゃんて、少しだけ昔の千ちゃんと似てるのよ。自分の力の無さを痛感して、涙を流したところとか」
華茄と初めて会った時、彼女は依頼内容を告げながら、自らの無力を嘆いて涙を零した。そして、助けてくれと《青》に懇願した。《青》に弱音を吐きながら、泣いて縋った千の様に。
「だから、ついついお節介を焼きたくなるのかもしれないわね、千ちゃんも私も」
「昔の梅村さんってなんか想像できないです」
「私もセーラー服着てる千ちゃんとかは想像できないわね」
二人はセーラー服姿の千を想像して、互いに苦笑した。
「……全然似合わなさそうですね」
「……そうね。ちょっと想像したくなかったわね」
「そもそも梅村さんが机に座って、勉強してるところが想像できないですよね」
「千ちゃんが恥ずかしそうにスカート押さえてるの想像したら、気持ち悪くなってきたわ」
二人は玄関前で吹き出すように笑声を上げた。「それじゃあ、私は家で梅村さんを待っていますね」と鞄から鍵を取り出し、鍵穴に差したのとほぼ同時に背後で一台の軽自動車が鹿野家の前に止まった。運転席に座っているのは整った容姿をした細身の中年女性。他には誰にも乗車していない。
その車を見た華茄が呆然と「誰だろ、お客さんかな?」と口にした事で華茄の両親では無い事を《青》はすぐに理解した。自然と華茄を自身の背後に移動させ、家に入る様に指示。鍵を締める様に伝えた後に「私が先に話を聞いてみるわね」と笑顔で華茄を家の中に送った。
戸惑いながらも華茄は頷き、扉の中に入ると《青》の言う通りに鍵を締めた。華茄が家の中に消えていった瞬間の女性の表情を目撃した瞬間に《青》の直感でしかなかった疑念は確信に変わる。
血走り、見開いた瞳。息筋が張り、顎に力が入ったのがすぐに分かった。息が荒いのか鼻の穴が大きく膨らみ、口元は半開き。見事にその美貌を台無しにしていた。
そして、明らかに平静を見失っている女性は車を降りると、大声で玄関前に立つ《青》に絶叫し、右手に持っている包丁を向けた。
「ゆきちゃんをどこにやったの!」
《青》は「ゆき」という単語を聞いて、この女性が久保ゆきの母親なのだと理解する。
「あなた、久保ゆきさんのお母さん?」
「そうよ! どこにゆきちゃんを隠したのか、早く言いなさいよ!」
「悪いけど、知らないわ。まず警察に相談なされてはいかが?」
「そんなのとっくにしたわよ! それなのに何度電話しても進展はないって……」
眉間に皺が寄っていく。久保ゆきの母親は包丁の柄を強く握り、鼻の穴を大きく広げ、息を荒げた。
「あんた達がゆきちゃんを隠してるのは分かってるのよ! そこをどきなさい!」
「その証拠を見せてもらえないかしら? 包丁持った危険極まりない女を家に上げるほど、私も馬鹿じゃないの」
久保ゆきの母親は上着のポケットからスマホを取り出すと、それを《青》に投げつけた。それを軽々と《青》は受け取り、画面を確認する。
そこには差出人不明の匿名メールが表示されていた。
『久保ゆきを誘拐した犯人は鹿野華茄』
たった一行だけ記された簡素なメールが画面には映っていた。ホームボタンを勝手に押し、メールアプリを閉じれば、笑顔の久保ゆきと母親の画像が画面いっぱいに表示される。《青》は僅かに目を細め、その写真を漫然と眺めた。
「大事な娘がいきなり居なくなったら、こんなメールにも縋りたくなるわよね」
ぽつりと呟き、《青》は一歩ずつ久保ゆきの母親に近付いていく。包丁を突き立て、《青》を威嚇するも、《青》が全く動じない事で久保ゆきの母親は《青》の歩行と合わせて、一歩ずつ後退していく。
「あんたに何が分かるのよ! 娘が無事に帰って来てるあんたに何が分かるって言うのよ!」
「私は鹿野華茄ちゃんの父親ではないわ。私はただのゲイで、あなたと同じ、娘を親に持つ父親よ」
後退し続けた久保ゆきの母親は自身が停車させた軽自動車の扉にぶつかると、震えた両手で包丁を力一杯に握り、《青》目掛けて突き出した。
「来ないでよ!」
その瞬間に《青》は包丁の前に右手を差しだし、その凶刃を素直に受け入れた。が、血が噴き出すことはなく、《青》の表情が苦痛に歪むこともない。
手に突き刺さるかと思われた包丁は皮膚を裂く事もなく、肉を断つ事もなく、貫通する事もなく、《青》の手が受け止めていた。勢いよく突き出し、包丁が手を貫通しなかったことで久保ゆきの母親は両手首を痛め、包丁を手から零れ落とした。
そして、怨嗟に染まる瞳を《青》に向けた瞬間に、彼女は今までの怒りを一瞬だけ忘却の彼方へ追いやり、動きを止めた。
美しい海をそのまま内包しているかの様な碧色に変化した《青》の瞳を、彼女は両手首の痛みも忘れ、吸い込まれるように見つめていた。見惚れたと言った方がいいのかもしれない。
《青》も、《白》や千の様に実験の副次的な効果として虹彩が変化する様になった。《青》の瞳は碧色に変化し、皮膚を硬質化させるという能力を発現する事が出来る。それこそ素人が振るう刃物など無傷で容易く止める事が出来るほどに硬い皮膚を《青》は瞬時に作り上げる事が出来る。
《青》は地面に落ちた包丁を拾い上げると、刀身に映った自身の碧色の瞳を見た。美しい色だと思う。けれど、悍ましいとも思う。これは自分が人という枠組みから外れた証だから。
「私の娘もね。誘拐された事があるの」
「え?」
久保ゆきの女性は戸惑いながらも《青》の話を聞く姿勢になっていた。
「私が留守の時に狙われて、家には暴力が振るわれた形跡がハッキリと残ってた。私は運良く娘を助け出すことが出来たけど、ずっと不安だった。助けられなかったらどうしようって、もう殺されてたらどうしようって思ったら、不安でまともになにかを考えるなんて出来なかった。でも、私は一人じゃなかったから。隣に誰かが居てくれたから」
《青》は久保ゆきの母親の腕を引っ張り、優しく抱き留めた。
「不安になる気持ちは物凄く分かる。こんなメールに縋りつきたくなる気持ちも凄く分かる。でも、一人で抱え込んではダメよ。言ってみて? 何でも聞くから」
腕の中で久保ゆきの母親の肩が震えだし、震えた腕が《青》の上着を掴む。
「なんで……ゆきちゃんは帰って来ないの? どうして……私からゆきちゃんを取り上げるの? なんで……どうして……」
声を上げて泣き続ける久保ゆきの母親の背を《青》は優しく擦り続けた。残酷な優しさだという自覚はある。まだ生存している確率が限りなく低いことを分かっていて、希望をちらつかせている事がどれだけ残酷な所業なのかは理解している。
それでも久保ゆきが宍戸瑠璃に対して行っていたイジメをこの母親が知った時、彼女きっと二の句が継げなくなる。
因果応報、天網恢恢疎にして漏らさずなどという言葉がある様に、娘が悪事を働き、人を陥れた結果が、宍戸瑠璃の死に繋がったのだとこの母親は強制的に納得させられる。納得できなくとも、世間がそれを許さない。認めざるを得ない状況が必ずやって来る。
また、その役割を担うのは《青》である必要は無い。《青》が今ここで真実を告げなくとも、どうせ残酷な真実が付き付けられる。ならば、今は甘い夢を見ていても罰は当たらないだろう。彼女は表の人間達によって、これから地獄に突き落とされるのだから。
「さあ、お帰りなさいな。久保ゆきさんが帰ってきた時にあなたの手が血で真っ赤に染まっていたら、娘さんが悲しんでしまうわよ」
「……ええ。ありがとうございます」
「ゆきさんが無事にあなたの下に帰って来ることを心から祈っているわ」
「……本当に申し訳ありませんでした」
包丁を片手に車に乗り込み、去っていく久保ゆきの母親を眺めながら、《青》は大きく息を吐いた。
この甘い言葉は子供を心配する同じ親として、最後の餞別だ。
これから、あなたを擁護してくれる者はもう一人も現れない。心身共に疲れ果て、摩耗し、極限まで追い込まれても、世間もメディアもあなたへの非難を止める事は無い。
子供の責任は産み落としたあなた達、親の責任。受け止めなければならない責務であり、義務だ。無知で浅ましく、人の痛みも分からない怠惰な子供に育てたのは紛れもない、あなたなのだから。
もし、この罰を不当だと嘆き、拒否するというのなら、死んで詫びろ。何なら、私が殺してやってもいい。あなたの娘は、誰かの大事な一人娘を殺したのだから。罪を受け入れなさい。
そして、二度と宍戸瑠璃の前には現れないでやってほしい。彼女にとってあなた達親子の存在は害悪でしかないから。
「《青》さんだいじょ……う……ぶです、か?」
家から飛び出してきた華茄は《青》の碧色の瞳を見て、歯切れ悪く言った。手には救急箱が握られている。《青》は「大丈夫よ」と言った後に人差し指を唇の前に立てて、華茄にウインクを送る。
「この目のことは内緒にしてくれるかしら?」
「は、はい。内緒にするのは構わないんですけど」
「どうしたの?」
「その目のまま帰ったら、物凄く目立つんじゃ」
「大丈夫よ。すぐに元に戻るわ。これはそういうものだから」
《青》と千の瞳は《白》と違って永続的に変化し続ける事は無い。時間が経ち、精神が平静を取り戻せば、すぐに瞳は光沢を失い、元の黒い瞳に戻る。能力も同じ。所詮は一過性の類のもの。これも恒久的に発現し続ける事は出来ない。
瞳が色を失えば、能力も失われる。だからこそ、色を失わない《白》は国に追われ続けているのだ。
「そうなんですね……。一応、救急箱持ってきたんですけど、怪我はしてないですか?」
「ありがとう、華茄ちゃん。でも、大丈夫。無傷よ」
《青》は両手を上げ、華茄に無傷をアピールし、久保ゆきの母親が走り去って行った方角を見つめた。
「華茄ちゃんはあの女性が誰だか、知ってる?」
「久保ゆきのお母さんですよね。大声で叫んでたので家の中まで聞こえました。私を……殺しに来たんですか?」
「いいえ、あの母親はただ娘の居場所が知りたかっただけよ。信憑性の欠片も無いフェイクメールに踊らされて、彼女はここまで来たみたいね」
「フェイクメール、ですか?」
「ええ。久保ゆきの母親の下に匿名メールが送られていたの。あなたの娘は鹿野華茄が誘拐したって書かれたメールが」
「だから、あんなに必死に……。でも、誰がそんなメールを」
「それは《累》に吐かせれば、すぐに分かるわ」
《青》は誰も居ない道路から、華茄に視線を移した。まだ碧色の瞳のまま、華茄を真っ直ぐに射抜いた。
「華茄ちゃん、これが人を殺すという事よ。復讐を遂げれば、華茄ちゃんの憎しみは見事晴れる。けど、新たな憎しみを生み出してしまう。私達の仕事はね、憎しみを断つ事はあっても、完全に消し去る事は出来ないの。必ず、私達が仕事を終えるのと同時に新たな憎しみは生み出される。私達には決して向く事の無い憎しみが」
《青》達が依頼を達成した時、その場に残っているのは目標の遺体のみ。《青》達に関するあらゆる痕跡は消え、《青》達にたどり着く事は不可能になる様に後始末は完璧に行う。
よって、《青》達に憎しみが向けられる事は一切ない。憎しみの矛先は必ず《青》達以外に向く。殺害動機がある人物に自然と憎しみは移行していく。
「幸か不幸か、華茄ちゃんの依頼は勝手に《累》が達成した。直接的にも間接的にも、あなたはまだ手を汚していない。まだ華茄ちゃんは真っ当な人生に戻れる」
《青》は華茄の肩に手を置き、膝を曲げ、華茄との視線を平行にした。華茄の明るい茶色の瞳に碧色に光る瞳が映り込む。
「もう私達みたいな外道に依頼をするのはこれで最後。約束できる?」
「でき……ます……」
何故か愁色を浮かべながら言った華茄の頭を少し乱暴に撫でた後に、《青》は華茄の眼前に右手の小指を差しだした。
「じゃあ、指切り」
ゆっくりと自身の小指を《青》の指に絡めた華茄は少しだけ寂しそうに視線を落とした。顎も自然と落ちていき、彼女の瞳が地面を映し始めていく。
「もし、進路とか恋愛で躓いたら、遠慮なく相談してきなさい。千ちゃんよりはまともな相談相手になれると思うから」
完全に地面を映そうとしていた華茄の視線が即座に上がり、《青》を映した。浮かべていた愁色は色褪せていき、彼女を包んでいた寂寥が風と共に流れていく。
「はい!」
「じゃあ、私はこれで帰るから。千ちゃんから離れないようにね」
「はい、ありがとうございました!」
《青》は華茄に背を向け、駅がある方角に向かって歩き出した。




