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二十三

 結局、千が家に帰ったのは二十時を過ぎた頃だ。扉の前で深呼吸。揺れる心を落ち着かせてから、千は鍵を開き、扉を開けた。


 扉を開けてから数秒後、「帰ってきたわよ、緋乃」と穏やかな《青》の声が玄関にまで届き、小さな足音がパタパタと音を立てて、近付いてくる。その足音に耳を傾けながら、安堵の吐息を漏らし、リビングの扉が開いた瞬間に映る彼女の緋色の瞳を見て、千は穏やかに相好を崩した。


 廊下を小動物の様に駆け抜け、千の下にたどり着いた緋乃の表情は動かないままでも、彼女は全身で嬉しさを表現してくれる。千は緋乃を持ち上げ、腕に抱えるとリビングにまで歩いて行く。千を無言で見上げる緋乃に視線を向けると彼女は無表情のまま首を僅かに傾げていた。


 風呂上がりなのか、まだ髪が濡れており、顔が火照っている様に見える。


「どうした緋乃? 私の顔に何か付いているか?」


「……千ちゃん、悲しいの?」


「え?」


 リビングに入った瞬間に思わず足を止めてしまった千をキッチンに立つ《青》が懐疑的に見つめた。すぐにコンロの火が点いた音が聞こえてくる。


「……悲しいって顔してる」


「そんな事は……」


 視線を逸らそうとした千の頬に小さな緋乃の右手が添えられる。温かい手に誘導される様に千は視線を緋乃に固定した。それから左手も千の頬に伸び、緋乃に包み込まれているかの様に千の両頬は温かい体温に満ちていく。


 困惑と動揺を表面化しつつも、悪くはない、と千は思っていた。心地が良いと。


 そして、《青》に無言で見守られている事に気付かないまま、千は緋乃が口を開くのを待った。風が窓を揺らし、鍋が煮える音が部屋内に残響する。瞬く度に長い睫毛が紅い瞳に影を落とし、まだ子供だというのに魅惑的に映った。


 その残響を打ち消すかのように緋乃は口を開き、千は彼女が放つ一言一句全てを聞き逃さぬ様に耳を傾けた。


「……千ちゃんも私の前でなら、泣いてもいいよ?」


 淡々と紡がれた言葉に千は唖然とし、《青》は笑いを堪えながら千達に背を向けた。千が瞬きを高速で三回繰り返し、口を半開きにして呆然としている理由が分からないのか、緋乃は首を傾げ、千の両頬をぺチぺチと叩いた。すぐに正気を取り戻す。


「……泣かねえよ、馬鹿」


 ぼやく様に言った千だが、手が届く距離に居る為、当然千の言葉は緋乃に聞こえている。表情は変わらないものの、千から手を離し、視線も落とした緋乃の肩はがっくりと落ちてしまった様に見えた。


「でも……ありがとな。少し元気出た」


 緋乃の頭を自身の胸に押し当て、少しだけ強く抱きしめた。口角が上がり、目尻が下がっていく。表情が緩んでいくのを止められない。そんなだらしない表情を緋乃に見られたくはない。これが千の精一杯の嬉しさの表現。これ以上は無理だ。千が恥ずかしさに耐えられそうにない。


「さ、そろそろご飯にしましょ。千ちゃんが恥ずか死んじゃう前に」


「変な死因増やすんじゃねえよ」


 鍋掴みを手にはめ、鍋を持って机に向かう《青》を追う形で千は机の前に腰を下ろした。緋乃を膝に乗せ、来ていた上着を床に脱ぎ捨てる。取り分け用の小さなお椀と麦茶が入ったグラスが一つずつ置かれ、《青》が千の脱ぎ捨てた上着を拾った。ハンガーを通し、クローゼットにしまう。


「私達はもう食べたから、さっさと食べて頂戴ね」


「はいはい。緋乃、一緒に食べるか?」


「だーめ。もう緋乃は歯磨きもしたし、寝る準備も万端なんだから」


 確かに緋乃は可愛らしい柴犬がプリントされた寝間着を着ており、髪を乾かせばいつでも寝られる姿をしている。が、時刻はまだ八時過ぎ。半にもなっていない。


「寝るの少し早くないか?」 


 《青》がお玉を手に取り、鶏肉と白菜、人参と結び白滝、豆腐を器に入れ、箸で白菜を手に取りながら言った。言い終えた後にポン酢に漬け、口に含む。


「小さい内から夜更かしなんて覚えちゃダメよ。千ちゃんみたいな不良になったらどうするの?」


 白菜を飲み込み、麦茶を一口飲む。膝の上で頭をふらふらとさせている緋乃を千は持ち上げ、千の布団が先に敷かれた隣室へと移動する。


「私みたいなってお前……。まあ緋乃も眠そうだし、別に良いけどさ」


 敷布団の上に緋乃を優しく寝かせ、その上から《青》が掛け布団を掛けた。「……おやすみ」と小さく眠そうな声が千と《青》に掛けられ、千達も「お休み、緋乃」と返す。それからリビングと隣室を繋ぐ扉は開いたままにして、千と《青》は机の前に再び座った。千はすぐに食事を再開する。


「それで? 何かあったの? 帰りがこんなに遅いのと関係あったりする?」


「いや、鹿野華茄を家まで送って行っただけだ。その途中で鹿野華茄を追い掛け回してた男子生徒に灸を据えたっていうのもあるが」


「それはお優しい事で。でも、本当にそれだけ?」


 優し気な作り笑いを浮かべている《青》は机に両肘を着き、両の指先を絡めた。重なった指の上に顎を置き、千を見つめる《青》は無言。何も口にせず、口を開く気配もない。彼は気付いているのだ。千に何かが起きた事を。


 そして、それを分かった上で彼は黙っている。千が自分から切り出すのを待っている。


 千は豆腐を一口大の大きさに箸で崩すと、それを口に含んだ。ゆっくりと噛み砕き、飲み込む。


「私の過去を言い当てた変なジジイと出会った後に、多分だが鹿野華茄の父親と出くわした。それだけだよ」


「千ちゃんの過去?」


 《青》は千と両親が抱えている歪みや溝を知っている。そこに至るまでの経緯も彼だけが知っている。だからか、表情に若干の影を落とした《青》が憂いを帯びた声で言った。


 千は左手でへその少し下辺りを左手で擦った。それだけで《青》には通じる。彼は息を呑み、眼前に組んでいた手を崩した。無意識にか下唇を噛み、彼はそのまま静黙してしまう。


 千は黙ってしまった《青》を見て、努めて明るく言った。


「まさか言い当てられるとは私も思わなかったよ。さすがの私もびっくりだ」


「千ちゃん……」


「心配するな、私は大丈夫だから」


 鶏肉を口に運び、咀嚼しながら千は口を開いた。普段なら真っ先に「口に食べ物を入れながら喋るな」と注意するはずなのに、《青》は何も言わない。無言で憂色を浮かべ、掛けるべき言葉を模索している様に見えた。


 鶏肉を飲み込み、箸をお椀の上に置く。物憂げに視線を落とす《青》を真っ直ぐに見た。視線は重ならなくても真っ直ぐに見続けた。


「私は今もこうして生きてる。それが大丈夫だって事の何よりの証明だ。だろ?」


「それはそうだけど……」


「思い出すたびに嫌な気分にはなるが……それでも今は大丈夫だ。お前もいるし、今は緋乃もいる。逃げ場所が無かったあの頃とは違うからな」


 自分でも、自分に言い聞かせている様だ、と感じていた。言葉にする事で無理矢理に納得させている様だ、とも。その自覚も当然あった。それでいいとも思っていた。


 全ての問題に真正面から向き合う必要はない。逃げる事で救われるのならば、時には逃げる事も重要だ、と千は思う。


 向き合うべき問題と、そうではない問題を選別し、選択する事ができるのは当事者本人だけなのだから。


 それから黙々と鍋を食べ始めた千は《青》が目を閉じ、大きく息を吐いたのを見た。気持ちを切り替えるかのように頬を叩き、ゆっくりと瞬く。


「逃げ場所だって思ってくれてるなら嬉しい限りよ。でも、その千ちゃんの過去を言い当てたお爺さん、少し気になるわね。何者なのかしら。一応聞くけど、初対面……なのよね?」


「初対面じゃなかったら、私も緋乃に心配されるほど困惑しねえよ。紛れもなく初対面だ。全く、何なんだあのジジイ。急に現れて、人の過去言い当てて。よく考えなくても気持ち悪いジジイだな」


 千は大袈裟に体を震わせ、顔を不機嫌に歪ませた。


「超能力、とか?」


「アホか。んなわけねえだろ」


 お玉を手に取り、肉ばかりを掬っていると《青》に「野菜を食べなさい?」と優しくも冷酷な口調で言われ、千は渋々色取り取りの野菜をお椀に入れた。


「でも、私達が実験で得た能力も傍から見たら超能力の類に入るわよね? 一概に否定はできないわよ」


「そりゃそうだけどさ。けど、私達の能力は超常現象の類じゃないだろ? 物を宙に浮かせはしないし、人の過去を覗き見るなんて事はできない。私達の能力と一緒にするのは違うんじゃないか?」


「そうね。そのお爺さんが千ちゃんの過去を当てずっぽうで言った可能性も零じゃないし。本当に当てずっぽうだったら凄い確率だけど」


 空になったグラスに麦茶を注ぎ直す《青》は、今度は作り笑顔じゃない自然な笑みを浮かべ、千を見た。


「初出勤はどうでしたか? 我が家の大黒柱さん?」


 千は簡単に仕事内容を伝え、笹木辺という用務員に仕事を教えてもらった事や、華茄も含めた三人で昼食を取った事を報告した。イジメのターゲットが華茄に移ろうとしている事もついでに伝える。


「後は教師達が会議で使ってた書類に依頼書に載ってた写真と同じものが載ってたな」


「ね? 学校側もイジメ自体は把握してるでしょ?」


「ああ。後はどのタイミングで発表するか検討中ってとこだろうな」


「事態が思いの外大事になってるから、しっかり対策練った後じゃないと公表は出来ないわよね」


「まあ、そうだろうな。元々イジメられていた生徒が写真をネタに脅迫され、レイプされて回された挙句に自殺、なんて素直に言ったら、学校はもう終わりだろ」


「そこまで馬鹿正直には言わないでしょうけどね。でも、千ちゃん大丈夫?」


「なにが?」


「《累》よ。あんなのに妨害されたら面倒極まりないじゃない」


 千は白滝を口に入れ、噛み砕いた。少しだけ微笑ましい気持ちで咀嚼した白滝を飲み込む。《青》は《累》の出現を面倒だと思ってはいても、千が《累》に敗北するとは思っていない。言葉にしなくとも信用されている事が分かる発言に、千は内心で笑みを浮かべる。


「大丈夫だろ。向こうは向こうで仕事受けてるみたいだし、私達の仕事に影響はないと思う。問題はその後だな。鹿野華茄の護衛するってのがめんどくせえ」


「護衛なんてした事ないものね、千ちゃん。出来る?」


「もうやるしかないだろ、一応大事な客だし。何事も経験だ」


「この会話を華茄ちゃんが聞いたら、どう思うのかしらね」


「泣いて引き籠るんじゃないか?」


「何だかんだ言って、絶対見捨てないくせに。本当に天邪鬼ね、千ちゃんは。もっと素直になりなさい?」


「今が人生で一番素直だよ」


 千は器に入った具材を食べきると箸を机に置いた。


「はいはい。そういう事でいいです。もうごちそうさま?」


「ああ、ごちそうさま。美味かったよ」


 素直に味の感想を口にしてみれば、《青》がくすくすと笑いながら「どういたしまして」と鍋をキッチンに運んでいった。食器類をシンクに置き、洗おうと手を伸ばせば必死の形相を浮かべる《青》が「千ちゃんは何もしなくていいから座ってて」と早口で捲し立てた。


 素直に机に戻り、床に座る千は「やっぱり素直じゃねえか、私」とぼやいた。それを聞き逃さなかった《青》が「そういう素直さじゃないわよ、私が言ってる事は」とすぐさま反論。千はそれ以上反論する事はせず、床に寝転がった。穏やかに眠っている緋乃に体を向ける。


「お前には助けられてばっかりだな……」


 彼女が無意識にくれる自覚のない言葉が千を救ってくれた。重く暗い感情に囚われかけていた千を救い上げてくれた。今までは記憶が薄れる時をただ待つしかなかったのに。彼女が側に居て、声を掛けてくれるだけで辛いだけの記憶は容易く霞み、消えていく。


 千の脳裏に刻まれた記憶は必ず再び甦る。完全に消える日は来ない。それは分かっている。


 だけど、お前が側に居てくれるなら、私は大丈夫。今も、これからも。


 だから、居させてくれ。お前の隣に、ずっと。

 

 千はゆっくりと瞬きを繰り返し、気付けば瞼を完全に下ろしていた。すぐに寝息を立て、意識を夢の中に落としていく。


「千ちゃん? 寝るなら布団に」


 そこまで言い掛けて《青》は口を閉じた。代わりに毛布を千の体に掛け、《青》はスマホと上着を持ってベランダに出た。上着を着つつ、スマホのロック画面を解除すると通話履歴から『江ノ島慧』をタップする。スマホを右耳に当て、壁に背を預けた。

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