二十二
ビルの前に立っていた男性は千に水をくれた男性で間違いない。鬱陶しいほどに朗らかな笑顔は一目見ればすぐに思い起こす事が出来る。コンビニ袋の中身を覗き見すれば、緑のラベルが貼られた炭酸飲料が二本とあんぱんとクリームパンが一つずつ入っていた。
「あんたはこんな所で何してる?」
「このビルから飛び降り自殺した生徒に供え物を届けに来たんです」
ビルの前にコンビニ袋を置いた男性は手を合わせ、十秒ほど瞑目した。それを黙って見つつ、千はポケットに両手を入れる。今は合掌し、瞑目する気にはなれない。例え健全な精神状態だったとしても、死者に祈る事はしない。
一方的に死者に語り掛ける行為ほど無駄な時間は無い。人は生きている限り、死者と会話する事は出来ない。声を奪う側が死者に声を投げ掛けるのは、死者への冒涜に他ならない。
だから、千は生きている限り死者に祈る事はしない。
目を開いた男性は千に向き直り、スーツの上に羽織っているコートのポケットに手を入れた。
「聞かないんですか? どうしてそんなお節介焼いてるんだって」
「興味ない」
男性の言葉を一蹴した千に対して、男性は一瞬驚いた様な顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「そうですか。では、僕は今から独り言を言います」
「言わなくていい。早く帰れ」
「まあまあ。僕には娘が二人いるんですが、一週間前に長女が初めて殴り合いの喧嘩をして帰ってきました」
「……もう勝手に話せ」
千は腕を組み、ビルにもたれ掛かった。灯りがまばらに点いた春宵高校が自然と視界に入る。
「長女は、気は強いですが、運動は苦手で、でも真面目で他人を思いやれる優しい子に育ってくれました。それ故に喧嘩して帰ってきたのが僕も妻も信じられなくて、理由を聞いてみました」
春宵高校を眺めながら言う男性の口調は少しだけ弾んでいた。
「すると、長女は友達の為に何も出来なかった、と泣きながら僕達に言いました。側に居させすれば私は友達を救えていると勘違いしていたと嘆いていました。それが悔しくて、友達を苦しめていたクラスメイトを殴ってしまったと娘は正直に言ってくれました。結局は自分を守っていただけなのかもしれないとも言っていました」
「それで?」
「けど、私の言葉は誰にも届かないと長女は悔しそうに言っていました。全てが嘘に塗り替えられ、真実を話している自分こそが嘘つきだと罵られていると。だから、僕は妻に内緒で長女にある助力をしました」
千は無言で男性の横顔を眺めた。この男性が誰なのかは深く考えずとも、もう分かる。長女という人物が誰を指しているのかも。
千は修復できない歪みを包み隠す箱庭を眺望しながら、男性が口を開くのを待った。
「誰が何を言ったとしても自分が後悔しない選択をしておいで、と僕は娘にとある人物を紹介しました。長女が何を選んだのかは僕も知りませんが、どんな選択だったとしても受け入れようと思います」
「……その自殺した生徒とあんたの娘が友達だったってオチか?」
「そうです。ここまで言えばさすがに気付きますよね」
男性はビルの屋上を見上げ、浮かぶ笑みに少しだけ寂寥感を織り交ぜた。
「娘の大切な友達ですから、きっと何かしたいんですよ、僕も」
「娘が何を選び取ったのか知ろうとは思わないのか?」
「知りたいと言えば知りたいですかね。知らないなら知らないままで構いません」
「意外とあっさりしてるんだな」
「娘ももう高校二年生ですから。親が知らない秘密の一つや二つは当然かなって。僕や妻にもそれぞれ自分の生きる世界があって、娘達にも娘達の世界がある。その世界で起きた出来事を自分の胸にしまっておくのか、それとも誰かと共有するのかは娘達に任せます」
「今ここに居る事は娘に伝えるのか?」
首を横に振る男性は千の横に立ち、壁にもたれ掛かると夜空に白息を吐き出した。
「伝えませんよ。頼まれてもいない事を偉そうに言ったら娘に嫌われてしまいますから。それだけは避けねば」
千は彼の主張を鼻で笑う。
「必死だな」
「必死ですよ、お父さんは。娘と会話する為に若い子向けの雑誌も読みますし、清潔感に気を付けないと隣歩いてくれないし」
「お、おう。大変なんだな、あんた。苦痛じゃないのか? 面倒だとは思わないのか?」
「他のお父さんは分からないですけどね。でも、面倒だとは思わないですよ。大切な人との間に生まれた大切な家族ですから。どれだけの時間が経っても、守りたいとは思っています。僕の代わりに守ってくれる人が娘達の前に現れるまでは」
千の知らない父親の有り様。温かくて、包容力があって、誰よりも大切に想ってくれる。千が一度だって与えてもらった事の無い父性愛の形。虚夢の中にのみ存在し、幻想のまま消えていった優しい父親の姿。
まるでフィクションを聞かされている様な感覚に千は陥っていた。綺麗事と美談だけが羅列されたヒューマンドラマを聞かされている様な気味が悪い感覚。あまりにも違う醜い現実との齟齬に吐き気を催しそうになる。千も気付かない内に両手の指先に力が入っていた。
「……もしあんたが娘を傷付けたとしたら、あんたならどうする?」
男性が千の横顔を見つめている事に気付きながらも、千は前だけを見つめていた。男性の方へ視線を向けない理由には気付いている。速くなった鼓動と自然と力んだ両手が物語っている。怖いのだ。千の知りたかった答えが引き出される気がして。
「僕なら……どうするんでしょうね?」
「それを聞いてんだろ」
思わず苦笑している男性を見た千は拍子抜けした様に組んだ腕を開放した。
「うーん。悪いと思ったら謝るだろうし、無意味には謝らないし、どうするのかはその時にならないと分からないけど、一つ言える事は娘を傷付けたままの状態にはしないですね。すぐに仲直りする必要もないと思うけど、気持ちの整理が付いたら行動すると思います、多分としか言えないですけど」
頬を指で掻いて恥ずかしそうに微笑む男性はビルの横に設置された自販機の前に立つと温かいブラックコーヒーとココアを一本ずつ購入し、ココアを千に手渡した。「話を聞いてくれたお礼です」と男性は缶を開け、一口飲んだ。
「お姉さんが聞きたかった答えとは違いましたか?」
「さあな」
千はココアを一口飲んだ。それ以上は答えないと言わんばかりに。
「勘違いだったら申し訳ないんですが、お父さんと喧嘩ですか?」
千は男性に目を向けないまま口に含んだココアを飲み込み、口を開いた。
「どうしてそう思う?」
「ここに来た時のお姉さん、泣きそうだったので」
「……喧嘩なんて優しい言葉で片付けられれば幸せなんだろうな」
「え?」
千がぼそりと言った言葉に男性は真面目な顔で聞き返し、千は「ココア、ありがとな」と男性の横を通り抜けた。帰路へ着く。背後から「気を付けて帰ってくださいね」と優しい口調で言葉が帰って来るが、千は言葉を返す事も、手を振り返す事もせずに黙々と歩き続けた。
喧嘩なんてそんな優しい別れはなかった。
怨嗟と、決して埋まる事のない亀裂が発生し、赫怒に染まった母の怒色が場を支配した異様な空間と状況。利き腕を母に切り落とされた父親の絶望した顔は今でも脳裏にこびり付いて離れない。黄昏時に舞った父の血液が千の全身に雨のように降り掛かり、真っ赤に染めた事も。
謝罪も何もないまま翌日に姿を消した父。何も語らない母。
その日から千は家を出た。十五歳になった年の秋に、千は親との関係を自ら断った。




