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二十一

 《累》と別れてから二十分程で二人は華茄の家に着いた。二階建ての目立った特色は見られない普通の家屋が立ち並ぶ住宅街は夜風と犬の鳴き声だけが木霊する寂れた街並みとなっていたが、華茄の家だけは様相が違った。


 良く言えば賑やか、悪く言えばうるさい。「お母さん、早く!」「ちょっと待って、(そら)ちゃん。懐中電灯の電池が切れてるわ」「そんなのお姉ちゃん探しながらでも交換できるでしょ」「そうね。あ、でも替えの電池あったかしら」「佳代さん、電池ならここにありますよ」「紗南ちゃん、ありがと。……えーっとどうやって外すのかしら」「いいよ、私やるから。お母さん懐中電灯貸して」「ごめんね、天ちゃん」。家の外に居ても漏れ聞こえてくる母と妹であろう人物の騒々しいやり取りを聞きながら、千は玄関前に移動すると華茄を下ろした。


「すみません、うるさい家で」


「別に良いんじゃないか、静かすぎるよりはうるさい方が」


 千はポケットからカッターナイフの刃を取り出すと華茄に渡した。


「これ一応持っておけ、護身用に。《累》に限らず、お前は色んな奴から追われてるみたいだし。大抵の人間は刃物を見せつければ一瞬ビビる。その隙に逃げろ」


「戦えって言わないんですね」


「戦って勝てると思うなら戦えばいい。無理だって少しでも感じたら逃げろ。勇敢と無謀は違う」


 華茄はカッターナイフを受け取るとそれをハンカチで包んで、鞄の中に入れた。


「明日も学校に来るんですよね?」


「依頼を終えるまではな。ほら、さっさと帰って安心させてやれ」


「はい。今日はありがとうございました。梅村さんも気を付けて帰ってくださいね」


「はいはい。お前も明日から気を付けて学校行けよ」


 千は華茄の背を軽く叩いた後にインターホンを押し、玄関から離れて行く。街灯が照らす薄暗い道路に戻るのとほぼ同時に、後方から玄関が開いた音が耳に届く。そのすぐ後に安堵した様な声と困惑気味の声が交錯し、それらもすぐに聞こえなくなった。


 冷たい風に身体を震わせつつ、ポケットから携帯を取り出すと千は《青》に電話を掛けた。数回の呼び出し音の後に電話は繋がり、すぐに野太い男性の声が聞こえてくる。


「どうしたの千ちゃん?」


「調べて欲しいことがあるんだ」


「なに? 春宵高校の生徒?」


「《累》の情報を集めて欲しい」


「……調べるも何も千ちゃんが殺したじゃない」


「さっき《累》を名乗る二刀流の殺し屋に会ったんだ。生きてた時と同じペストマスクに黒いコートを羽織ってて、奴お得意の剣術も健在だった。声は女だったから別人だとは思うが」


「そりゃ別人でしょうよ、《累》の首は間違いなく切り落とされたんだから」


「けど、口調が《累》と全く同じだった。剣術の再現だけならまだ分かるが、口調や雰囲気の再現となると本人か、余程近しい人間じゃないと無理だ」


「まさか生き返ったなんて思ってるの?」


「思ってはねえよ。けど、何か依頼を受けてるみたいだった。その殺人対象の中に鹿野華茄も含まれてる」


 《青》はふーん、と物憂げに言ってからしばらく間を置いてから、口を開いた。


「まあ、華茄ちゃんみたいに私達に依頼した人間がいてもおかしくはないわよね。自殺と言ってもほとんど殺されたようなものだし。でも、どうして華茄ちゃんがそこに含まれてるのかしら」


「さあな。実は加害者だった、なんてオチだったら笑うしかないが、正直私は別にどっちでもいい。金さえ払ってくれれば。問題は《累》だ。奴に好き勝手動かれると私達が動きづらくなる」


「そうね。自殺した生徒が在籍した高校で相次ぐ行方不明者、なんて記事が世に出回れば、警察も本格的に捜査に乗り出すだろうし、イジメがあった事実も確実に露呈する。そんな状況で人を殺せば、確実に私怨による殺害を疑われるわ。つまり、宍戸瑠璃の両親、もしくは友人である華茄ちゃん辺りが真っ先に疑われる。それは避けたいわね」


「鹿野華茄に勝手な行動はするなって釘は刺しといた。多分、問題はないと思うが一応気を付けた方がいいかもな」


 千が言葉を続けようとした所で《青》が安穏とした笑声を上げた。


「何だよ?」


「千ちゃんにしては優しいなって思っただけ」


「私が依頼をこなす上で邪魔だから、釘を刺しておいただけだ。他に理由はない」


「はいはい。《累》についてはすぐに調べておくわ。他に調べておくことはある?」


「今日の夕飯は?」


「今日は水炊き鍋」


「分かった。すぐに帰る」


「了解。早く帰って来て頂戴ね、緋乃が寂しがってるから」


 分かったよ、と素っ気なく返事をし、千は携帯を閉じた。先程までカッターナイフが入っていた方のポケットに携帯をしまう。それからすぐに両手もポケットに突っ込んだ。


 静けさを増した様な夜道を歩き、千は駅へと寄り道する事無く、たどり着いた。階段を上り、券売機で切符を購入。改札を抜け、プラットホームで電車を待ち、五分程で到着した電車に乗り込んだ。仕事帰りのサラリーマンやOL、学生で満ち溢れた電車内は汗や香水の臭いが入り混じり、思わず顔を顰めるほどには熟成された香りが立ち込めていた。


 人口密度が高い上に暖房も入っているため、車内は冬場とは思えない程の高温に包まれ、それがさらに臭いを強く感じさせる要因となっている。あまり乗り物酔いしない千ですら吐き気を感じ始めた頃に電車は二駅先にたどり着き、千は逃げる様に素早く電車を降りた。

 

 降りた瞬間にホームに常設されたベンチに座り込み、冷たい空気をふんだんに肺に送り込む。


「電車移動はもう二度としない……」


 ベンチの背にもたれ、天井を見上げながら、千がそんな事をぼやいた数分後に誰かが千の肩を叩いた。体を起こし、肩を叩いた人物を窺うと、そこには千の知らないスーツを着た男性が、ミネラルウォーターが入ったペットボトルを二本持って、笑顔でそこに立っていた。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫に見えるか?」


 怪訝な視線を向けつつ、冷たく千は言った。


「見えないです。なので、これ差し上げます」


 そう言ってペットボトルを差し出す男性は穏やかに微笑んで見せた。一応、ペットボトルを受け取る千だが、訝しむ様な視線を男性とペットボトルに向け続ける。


「言っておきますけど、何も仕込んでないですよ。純然たるミネラルウォーターです」


「駅で体調悪そうな奴見たら、誰にでもやってんのか、あんた?」


「誰にでもじゃないですよ。声が掛け易そうな人にだけです」


「……そうかい。一応、ありがとよ」


 千はペットボトルの蓋を開け、新品の水を一口だけ飲んだ。薬の味はしない。無味無臭の純粋な水。だが、無味無臭無着色の薬など世の中には数えきれない程に出回っている。まだこの男性を信じるには時期尚早だ。


「それに普段は電車に乗らないんですよ、僕。家から自転車で通える距離に会社があるので」


「なら、なんで電車に乗ってんだよ。さっさと帰らないと嫁さんに逃げられるぞ?」


「それは困りますね。もう妻が居ない人生は考えられないですから」


 無意識に舌打ちが出そうになるのを必死に堪え、千はげんなりした様子で言った。


「私に惚気話なんか言ってないで、早く帰れっての」


「用事が済んだら、すぐに帰りますよ」


 千は水をもう一口だけ含むと、ペットボトルの蓋を閉めた。ベンチから立ち上がり、首を鳴らす。


「なら、私はもう大丈夫だから、さっさと行け」


 男性は拍子抜けした様に目を何度か瞬きした後に朗らかな笑みを浮かべた。


「……そのようですね。では、私はこれで」


「最近は何かとうるさいからな。お節介もほどほどにしないとセクハラだ、痴漢だって難癖つけられるぜ?」


「はい、気を付けます」


 嫌味の無い爽やかな笑みを千に返し、雑踏に消えていく男性の後ろ姿を漫然と眺めながら、千はもう一度ベンチに座った。額にペットボトルを当てる。額に着いた水滴が冷ややかで心地よく、催していた嘔吐感が緩和される。ペットボトルを通して見る視界は、全てが朧気で、全てが不明瞭。世界の在り方をそのまま表しているかの様な不透明感に満ちていた。


 世界から切り離される事を渇望するかのように千は瞑目し、息を吐く。


 夜は好きだ。誰の表情も映さないから。


 朝も嫌いではない。まだ生きていると実感できるから。


 黄昏は嫌いだ。千の全てを壊した要因が、黄昏には詰まっているから。


 千の心が壊れた時、千の矜持が壊れた時、千が生きる意味を見失いかけた時、千を見下ろしていたのは全て黄昏だった。


 だからか、藍色と茜色が織り成す夕暮れを見ると、時々鮮明に思い出す事がある。目に映る物全てに価値が無くなったあの日の出来事を。あの日初めて見た彼女の表情を。


 全てが遠い記憶。拭い去る事は出来ない永久不変の辛いだけの記憶。


 私は強いわけじゃないんだよ……華茄。ただ人よりも痛みに慣れてるだけだ。


 額に付けていたペットボトルを離し、千は瞼を上げた。開けていく視界と同時に額から滴り落ちる水滴が右目に入る。それを拭う事もせず、瞼を反射的に閉じ、すぐに開いた。


 目を開ける前と少しだけ変化した光景。先程まで出口に向かっていた群衆が消え、代わりに電車を待つ客が列を成して立っている。気付けば、人一人分空いた隣には杖を持った老爺が隣に座り、眠そうな顔で流れる群衆に視線を送っていた。偏屈そうなジジイ、それが千の第一印象。老爺は千に視線を送る事は無く、ただひたすらに見ているのは流れゆく雑踏のみ。


 千も自然と老爺から視線が外れた。話し掛ける事もしない。名も知らない老人と話す事など何一つない。それは何もおかしい事ではない。相手が老人だろうが誰だろうがそれが普通で、誰もがそうして生きている。


 千が自然と立ち上がろうとベンチに手を着いた瞬間に、重く閉じていたはずの老爺の口は厳かに開いた。


「……永遠(とわ)に癒えぬ傷を持っておるな、小娘」


 千が立ち上がった瞬間に紡がれた言葉に千は心臓を鷲掴みされた様な息苦しさを覚えた。早鐘を打つ心臓が更に速度を上げる。千は反射的に群衆を眺めたままの老爺を射殺す様に見た。


「ああ?」


「……小娘。貴様の傷、儂が言い当ててやろうか?」


 頭の中で警鐘が鳴った。この老爺は本当に言い当てる、何故か千はそう確信してしまっていた。それはただの直感。確証も何もない千が長年育んできた直感力による判断に過ぎない。


 けれど、この老爺は千が首を縦に振った数秒後にきっと正解を紡ぐ。


 そう思いながらも千は「当ててみろよ、ジジイ」と精一杯の虚勢を張りながら言った。


 そして、老爺の口は一文字ずつ厳かに紡いでいった。その瞬間に、周囲の雑音が消失する。雑踏の足音が、頭上から流れるアナウンスが、遠くから聞こえてくる電車の走行音が、全ての音が遮断され、老爺が紡いだ言葉だけが千の耳に届けられた。


 一度も千を見る事なく言い終わった老爺は電車の到着と同時に立ち上がると、眼球だけを動かし、千を一瞥した。


「……当たっていただろう?」


「……外れだ、クソジジイ」


「……そうか。それは残念だ。次会う時までに、貴様の傷が癒えている事を心から願っているよ」


 それだけ言うと、老爺は杖を突いて電車に乗り込んだ。優先席に腰を下ろし、結果的に千に背を向ける形となった。瞠若した瞳のまま、千はその背中を凝視した。けれど、老爺が振り返る事は無く、電車はそのまま出発してしまった。


 電車を目で追う事はせず、千は出口に向かって無心で歩き始めた。何も考えない様に、奥歯を噛み締め、両手を強く握り締める。未だに脳内で輪郭を失わない老爺の言葉を必死に朧気にしようと躍起になってはみても、一向に薄れてくれる気配はない。


『……母になる権利の永久剥奪』


 鮮明に明瞭に、老爺が紡いだ言葉が脳内を反芻する。し続ける。


 千は口角を無理矢理に上げ、乾いた笑みを絞り出すように溢した。


 私の直感も馬鹿に出来ないな……。


 そんな皮肉を脳内に投げ掛けても、すぐに老爺の言葉に打ち消されてしまう。


 階段を駆け上がり、千は改札を抜け、すぐさま駅を出た。

 少し小走り気味に駅前の歓楽街を歩き、ホストや居酒屋のキャッチも全て無視して歩き続けた結果、千は静かで薄暗さに包まれた住宅街に進入した。すぐに目端には春宵高校が映り、二つほど信号を渡ると千は春宵高校前にあるビルにたどり着いた。


 その全ての階で灯りが点いていないビルの前に、コンビニの袋を持ったスーツ姿の男性がビルの屋上を眺めながら立っていた。千が無言で通り過ぎようとした所で男性と目が合い、千は駅にペットボトルを忘れてきた事と、それを与えてくれた男性の存在を思い出した。


「こんな所で会うなんて奇遇ですね」


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