十九
「こんなところまでストーカーとは、レイプする奴の根性は計り知れないな」
ぽつりと呟く様に千は言った。レイプ、という単語を耳にした途端に四人の表情が見るからに強張っていく。千を見つめる視線に自然と力が入る。
「それで、お前らは誰に用があってここまで追っかけてきたんだ? こいつか? それとも私か?」
「お前だよ」
四人の中で最も身長が高く、ニキビが顔中に出来ている男子生徒が千に何かを向けながら言った。カチカチカチと音が鳴り、銀色の刃物が橙色のプラスチックから剥き出しになっていく。すぐに、それがカッターナイフだと気付いた。
刃もプラスチックも汚れ一つない新品。ここに来る途中で購入したのか、学校から新品を盗んできたのか。
どちらでもいい、と千はほくそ笑むと首を僅かに傾げた。前髪が僅かに視線を遮るが直すような挙動は見せない。
「私に軽くあしらわれた奴がいないが、どうした? 怖くて逃げだしたか?」
努めて冷静に千は言った。煽る事もせず、焦る様子も見せず、千はただ冷淡に疑問を投げかける。
「お前には関係ない」
「つまらない常套句だな。お前達は私を殺す為に追い掛けてきたって事でいいのか?」
「見れば分かんだろ!」
声を荒げるものの長身の男子生徒は千に接近しようとはしない。他の三人も同様に動きは見せない。
「少し灸を据えるだけのつもりだったが……どうしてくれようか」
息を吐く様に瞳から熱を殺す。ただただ冷徹に、冷艶に千の瞳は彩られていく。視線という鎖に絡め取られた生徒達は強張った表情のまま、頬に汗を垂らし、指先を小刻みに震わせる。その震えが心を臆病にしたのか、カッターナイフを手に持つ男子生徒の後ろで、一人の男子生徒が一歩後退ったのが見えた。
「どうした? お前が手に持ってるのは武器だ。それを振り回す為にお前は来たんじゃないのか?」
「うるさい!」
大きな怒声に華茄が千の隣で肩を震わせ、胸に抱えたままの鞄を強く抱きしめた。千は一歩前に出て、華茄を自身の後ろに移動させる。が、華茄は千の横に立ち、震えた腕で鞄を抱えたまま、同じく震えた唇を開いた。
「どうして梅村さんを追う必要があるんですか? 梅村さんは瑠璃とは何も関係ないって先輩達も知って」
「宍戸は関係ねえ! 俺達はこの女に用があるっつってんだろ!」
「私にナメられっぱなしじゃ、立つ瀬がないか?」
男子生徒達の眉間に皺が寄る。眼光が鋭くなり、鼻息が荒くなり、鼻の穴が大きく膨らむ。苛立っている証拠。それは千の指摘が的中しているという事でもある。
「図星か。お前らは本当に、愚直なまでに幼稚だな」
沈黙する生徒達を見て、千は穏やかに息を吐くと、カッターナイフを手に持つ生徒に一歩ずつ近づいていく。後退る生徒達に冷眼を向け、千はTシャツの袖を捲った。
「レイプしといて都合が悪くなったら罪を隠す為に女を追い回す。身勝手な理由で追い回しといて、自分達が暴力を振るわれたら、ぎゃあぎゃあ喚き散らし、挙句の果てには刃物を持って、ストーカー。良かったなあ、私達が優しいおかげで罪人にならなくてすんで」
「お前に何が分かる!」
千の分かり易い挑発に反応して、長身の生徒がカッターナイフを千に向かって勢いよく突進しつつ、突き出した。刃が千の腹部目掛けて進み、同時に背後で華茄の悲鳴の様な声が室内に響き渡る。
その殺意が込められた刃が腹部に触れる直前に、千は左手で刃を軽々とへし折った。パキン、と音を立てて折れたカッターナイフを千は器用に手で回し、順手で持つと、刃を生徒の首筋に当てる。
刃が皮を裂き、血が零れ出す。
首を伝う血液を白シャツが吸いこみ、赤く染まった瞬間に千は左足で生徒の足を蹴り飛ばし、体勢を崩したところで、生徒を壁に背中から叩き付けた。刃を失ったカッターナイフが床を転がっていく。
千は自身よりも上背の高い生徒の首を右手で掴み、力を入れた。抵抗しようと千の腕に手を伸ばす生徒の鍛えられた両腕はどれだけ力を込めても意味を成さず、千の腕が首から離れる事はない。それどころか、さらに腕に力を込める千に対して完全に畏怖してしまっていた。
「お前の言い分なんて知らねえよ」
「……はな……せ……」
「か、金原!」
苦痛をパラメータ化したかの様に赤くなっていく生徒の顔を見て、ようやく他の生徒達も動きだした。千の腕を剥がそうと各々に手を伸ばすが、千の腕はびくともしない。彼等の力では千の膂力に対抗する事ができない。
まるで生徒は一人しかいないとでも言うかのように千は真っ直ぐに首を絞めている生徒だけを凝視し、左手に持つカッターナイフを生徒の右目に向けた。
「宍戸瑠璃は無抵抗で、無条件にレイプされる事を受け入れたか?」
誰も答える者は居ない。苦痛を多分に含んだ金原の吐息だけが、千の耳に届く。
「誰でもいいぞ? 答えなければ、こいつの右目が潰れるだけだ」
刃を眼球と水平にし、それを白目にゆっくりと近付ける。呼吸ができる程には力を緩め、金原が一度だけ呼吸をし、怯えた表情を見せた瞬間に千は再び首を絞めた。
不意に首を絞められたことに驚いたのか、金原の股間から洪水の様に小便が垂れ、床に音を立てて落水し始めた。
その光景を見た他の生徒達が千から距離を取り始め、一人の生徒は盛大に尻餅を着いて、後退りし始める始末。生徒全員が戦意を喪失し、千に向けていた生意気な視線は完全に失われた。
「もう一度だけ聞くぞ? 宍戸瑠璃は無抵抗で、無条件にレイプされる事を受け入れたか?」
「……最初は抵抗……されたけど、鳥居が脅したら……すぐに抵抗しなくなった」
「お前達が抵抗できない様にしたんだろ? なら、お前も同じ運命を受け入れろ。無抵抗に無条件で、お前も死を受け入れろ」
「……いや……だ。まだ……死にたく……ない……」
「知らねえよ」
千は金原の主張を一笑に付すと、首を更に強く締めた。口から零れる唾液が千の腕に落下し、頬を伝う涙が床に落ちる。他の生徒達は金原が生を懇願している姿を目にしても、一人も助けには来ない。その場で呆然と千と金原を見つめるだけ。
だが、一人の生徒だけは違った。千の右腕に抱き着いた華茄は金原の唾液が付く事には見向きもせずに千の腕を抱き締め、後方に引いた。
「もういいです。これ以上は梅村さんの仕事に支障が出ます」
殺し屋と用務員、どちらの仕事のことを言っているのかはすぐに分かった。間違いなく前者で、後者では無い事は。
「……分かったよ」
千は金原の首から手を離し、一歩後ろに下がった。小便溜まりに尻餅を着いた金原は何度も咳き込み、首筋を擦っていた。空気を求めて何度も呼吸を繰り返している。
素直に金原から距離を取った千を見てか、華茄は千の右腕から手を離し、ほっと安堵する様に息を吐いた。その後に後方に転がっている鞄を取りに華茄が歩き出すのとほぼ同時に、今まで見ているだけだった男子生徒が金原の下に駆け寄ろうとする。
千は駆け寄ろうとした生徒達を鋭い眼光で制し、深く息を吐き、安穏としている金原の顔の横を思い切り蹴り飛ばした。激しい振動と破砕音に全員の視線が再び千に集まる。
「おい、小便垂らし。何か勘違いしてる様だから言っておくが、お前は助かったんじゃない、助けてもらったんだ。生かしてもらった事実を忘れるな」
完全に怯えた子犬の様な表情で千を見る金原から、駆け寄ろうとしていた男子生徒達に視線を向ける。
「いいか、お前らも覚えておけ。お前達がこうして誰かのストーカ―なんて下らない真似できるのは宍戸瑠璃が自殺してくれたおかげだって事を。宍戸瑠璃が確かな証拠を残していれば、お前達は問答無用で罪人になっていた事を忘れるな、人殺し共」
宍戸瑠璃がもし写真や証拠を文書として残していたら、イジメの有無は調査の必要もなく世に露見していた。宍戸瑠璃の自殺の背景にイジメが存在し、脅迫、強姦の事実が露呈すれば、事態は一気に変化せざるを得ない。
だというのに、一週間が経った今でもイジメは調査中と学校側が嘯ける理由は宍戸瑠璃本人がイジメの核となる証拠を残さなかったからだろう。あらゆる証拠を一切合切消してから命を落としたからだ。
その理由は千には分からない。憶測をどれだけ重ねても真実には辿り着けない。
「宍戸瑠璃は自殺したんじゃない。お前達が殺したんだ。それを忘れるなよ」
誰も反論はしなかった。苦悶に歪む表情が薄暗い教室中に浮かび、長い沈黙が薄暗さをより顕著に映えさせる。千は華茄を一瞥し、壊れた扉が転ぶ出入り口まで歩いて行った。華茄も慌てて千の後を追う。
教室を出た所で千は華茄から上着を受け取り、それを羽織った。
彼等が千の言葉をどのように捉えたのかは彼等にしか分からない。千の言葉に納得し、態度を改めるのか、それとも意味が分からないと宣い、再び凶行に走るのか。千は手に持ったカッターナイフをポケットにしまい、虚空に白息を吐き出した。




