十八
「じっとしてろよ」
言葉の意味を分からずに首を傾げている華茄を半ば強引に腕に抱えると、前方に全力疾走。体が宙に浮いた瞬間に華茄の可愛らしい悲鳴が聞こえたが、それらを全力で無視し、千は更に速度を上げた。
「ななな何ですか! 急に!」
目を見開き、声を荒げる華茄には目も暮れず、千は丁度青に切り替わった信号を横断する。
「後ろ確認しろ。お前のストーカー共が観察できる」
言われるがままに華茄が背後を確認し、再び瞠若する。息を大きく吸い、それを呑んだ。顔の筋肉が一気に強張り、血の気が引いたかのように顔色が青白くなっていく。
「大丈夫だ。私が側に居る。だから、人目につかない場所を教えろ」
「……殺すんですか?」
千は白い歯を覗かせ、前方を力強く睨む様に見た。
「安心しろ、少し灸を据えてやるだけだ」
「……信号を渡ったら左に曲がってください。真っ直ぐに走ると古い喫茶店が見えてくるので手前にある小道を突っ切ってください」
千は信号を渡り切った瞬間に左に曲がり、ひたすらに直進。自然と通行人の視線が千達に集まるが、すぐに視線は千達から千達を追い掛ける四人に移動する。
そして、二百メートルほど直進すると、華茄の言う古い喫茶店が視界の端に映り始めた。年季を感じる古びた木製の看板に、薄汚れた塗装が残る外観。その場所だけ時間が流れていないかの様な時代錯誤な建物に一目で注意が向いた。
千は喫茶店の手前にある細道に入ると、走る速度を僅かに緩めた。
「思ったよりも走るのが速いな」
「そりゃ運動部ですし」
「私の方が速いけどな」
「私を抱えながら走ってるのに追い付けないって、どんだけ速いんですか」
千は背後を振り返り、細道に四人が進入した事を確認すると再び速度を上げた。けれど、四人が千達を見失わない速度を保ち続ける。
「鍛え方が違うんだよ。それで? この後はどこへ向かえばいい?」
「このまま真っ直ぐに進むと私の妹が通ってる中学校が左側に見えてくるんですけど、その横に今は使われてない旧校舎があるんです。妹もテスト期間中って言ってたので、生徒達は早く帰ってるはずだし、運が良ければ誰も居ないはずです」
「運が良ければってお前……」
視線を落とし、拗ねた様に唇を尖らせた華茄は鞄を抱える腕に僅かばかり力を入れた。
「ただの高校生が人気のない場所なんて、そうそう知ってる訳ないじゃないですか」
「別に責めてるわけじゃねえよ、少し感心しただけだ」
「感心、ですか?」
「お前、意外と度胸あるよなって思ってさ。私の勘違いならいいんだが」
細道を抜けると、視界に入るのは建ち並ぶ民家と白い真新しい校舎。そして、白い校舎と対を為す様に隣の敷地に建っている木造の校舎に向かって、千は真っ直ぐに歩を進めた。
細かい説明がなくとも、木造の校舎が今は使われていない旧校舎だという事は分かる。千が向かった方角を華茄も指摘しないという事は正解と捉えても問題ないだろう。
「あいつらがお前を追って用務員室に駆けこんできた時、お前、私のこと試しただろ?」
華茄は《青》から千の情報は何も知らされていなかった。けれど、彼女は千が《青》の知り合いかどうか確かめる為に鎌をかけ、見事、千と《青》の関係性を暴いた。つまり、華茄は最初から千の事を疑っていたのだ。《青》と関係性があるのではないか、と。自らの仕事をこなしてくれる人物なのではないか、と。
「すみません。私も追われてて必死だったので試したつもりは無かったんですけど、梅村さんなら助けてくれるかもしれないって思って」
「私が用務員として学校に来ること《青》から聞いてたのか?」
閉められた旧校舎の校門の前に立つと、千は華茄を抱えたまま膝を大きく曲げて一気に溜め込んだバネを開放する。三メートル程の校門を軽々と跳び越えるほどの跳躍を見せ、千は華茄ごと校門を跳び越えた。着地した瞬間に膝を曲げ、衝撃を緩和させつつ、すぐさま校舎に向かって走り出す。
「……聞いて、ないです。私、窓際の席なので、梅村さんが校舎に入っていくのが見えたんですよ。それで用務員を募集してるって母から聞いてたのを思い出して」
千の驚異的な跳躍力に驚愕していた華茄は地面に着地した瞬間に平静を取り戻し、言った。
「一か八か用務員室に駆け込んだって訳か」
「はい」
「無謀だが……大した奴だ」
抱えていた華茄を下ろし、掃除の行き届いた校舎前の道を二人はゆっくりと歩いた。背後を振り返れば、春宵高校の制服を着た男子生徒が四人、校門を越えようとして、門扉をよじ登っている。
「必死だな、あいつら。諦めも肝心って知らないのかね」
千は校舎に設置された木製扉のドアノブに触れ、手前に引いた。当然ながら、施錠がされていて扉が開く気配はない。少し力を込めて手前に引いてみるが、変化はない。
「ま、当然開かないわな。ちょっと離れてろ」
おもむろに扉から距離を取る千を見て、華茄が表情を強張らせ、瞬きを繰り返した。逡巡した視線を扉と千に交互に向け、それから華茄は千に視線を定めた。
「あの、止めた方が……」
華茄の言葉が千に届く前に、千は前進しながら旋回。遠心力を付けた蹴りを扉に叩き込む。空気が切れる音が鳴ると共に扉を豪快に粉砕。木片が周囲に飛び散り、蠱惑的に舞った千の髪が落ち着きを取り戻していく。
「さ、入るぞ」
「……私は一応止めましたからね」
「止められなかったんだから、共犯だよ」
壊れた扉から校舎の中に入った二人は、使い古された下駄箱を抜け、歩く度に床が軋む木の廊下を進んでいく。夕刻も終わりを見せ始め、次第に暗くなっていく空と同様に校舎内も刻々と薄闇を広げていた。それでも、千は迷う事無く「職員室」と室名札に記された部屋の前まで行くと扉に向けて高速で右足を振り抜いた。
破砕音が鳴り響き、木製の扉が地面に倒れ伏す。倒れた瞬間に床が激しく振動。右に視線を向ければ、突然の破砕音に驚きの声を上げる男子の声が鳴り響く。千は胡乱に微笑みを浮かべると、倒れた扉を踏み越え、職員室へと足を踏み入れた。
部屋には何もない。机も椅子も、壁にも張り紙一つ存在しない。役目を終えた部屋に役割を持つ品物は何一つなかった。
千は華茄と共に部屋の中心に移動。そこでダウンジャケットを脱ぎ、「持ってろ」と華茄に手渡した。
無言で壊れた扉を眺める事、十秒。激しい足音と共に職員室に流れ込んでくる四人の男子生徒。それは華茄を追い回していた四人の男子生徒。順に顔を見ていけば、千に腕を捻られた生徒の姿だけが見えなかった。




