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十七

 二十分ほど満員電車に揺られた千達は、二駅先にたどり着くと電車を降りた。千達と同じ降車した乗客達につられる様に階段を真っ直ぐに上がり、二人は改札を抜けた。流れ行く乗客の群れを掻い潜り、二人は合流すると駅の西側の出口に向けて歩き出した。


 駅を出ると橙色に煌めく夕日が寂寥と共に地上に燦燦と降り注ぎ、視界を一瞬で一色に染め上げる。千は思わず右手で陽光を遮り、眩しさから目を細めた。冬の寒気を紛らわす陽光の暖かさに一抹の哀愁を感じ、千は腹部を擦る様に優しく触れた。


 下唇を無意識に強く噛む。前歯が唇に食い込んでいく。痛いとは思わない。瞼が下り、黒く染まった視界に映る記憶が痛みを鈍化させているから。憎悪しか抱かない。叫び続けている自身の怨嗟の声が思考を埋め尽くそうとする。止まらない阿鼻叫喚に、千の心が酷く蝕まれていく様子を未だに思い出す事が出来る。


 千が更に唇を噛もうとした瞬間に、右肩が強く揺すられた事で千の思考は現実に戻っていった。


「梅村さん、どうしたんですか?」


 懐疑的な視線を向け、憂色に染まる華茄の表情を見て、千は右肩に乗った華茄の手を柔く払った後に、水を一口飲んだ。額に溜まっていた汗を拭う。


「……何でもない。行くぞ」


 高鳴り続けている心臓が千から平静を奪おうとするのを何とか阻止しながら、先を歩き始めた華茄の後ろを歩いた。気付かれない様に小さく深呼吸を繰り返す。脳内に蔓延っている記憶が薄れるまで、鬱屈とした感情を吐き出す様に息を吐いては吸っていく。


「ほんとに大丈夫ですか? 乗り物酔いしたならどこかで休憩」


「大丈夫だ。動いてた方が気が紛れる」


「……分かりました。本当にやばい時はすぐに言ってください」


 黙って頷いた千を見た華茄は背を向け、黙々と前を歩き出した。けれど、歩く速度はかなり遅く、時折振り向いては千の様子を窺っているのが分かった。


 華茄が前を向いた瞬間に千は右手で眉間を軽く叩きながら、大きく息を吐いた。思考を強制的に止める。脳内に浮かび上がる光景を黒に染めていく。


 何も考えるな……何も……何も……。


 口内に溜まった唾液を飲み込んだ瞬間にポケットに入っている携帯が一回だけ振動した。その振動がジャケット越しに伝わり、千は思わず肩を震わせた。息を呑み、ポケットから携帯を取り出して、画面を確認する。


 《青》からメールか……。


 安堵する様に千は息を吐き、メールを開いた。


 書かれた文章に漢字は一つもなく、全てがひらがなで綴られていた。内容も二行しかなく、一瞬で読み終わる。


 けれど、メールには文章だけでなく、一枚の写真が添付されていた。穏やかに微笑んでいる《青》と、無表情でカメラを見つめている緋乃の二人が写っている写真。


『せんちゃんがかえってくるまでなかないよ、やくそくしたから』


 緋乃が泣かないと決め、千が自分達の前でなら泣いてもいいと訂正させた緋乃との約束。緋乃は健気にもその事を言っているのだろう。


「……父親に似て、クソ真面目なやつ」


 平静を見失いかけていた精神が急速に静まっていくのを如実に感じていた。曇天が青天に変わった時の様な清々しさを感じていた。たった二行の文章が千の心を確かに軽くした。たった一枚の写真が千から鬱屈とした感情を取り払っていく。


 こんなにも簡単に静穏な視界が開けていく。


『私も約束を守るよ』


 そう文字を入力して、千はメールを送信した。携帯を折り畳み、ポケットにしまう。


 前を向くと、口角を上げ、僅かに目を細めている子憎たらしい顔をした華茄が千をニヤニヤしながら見ていた。


「何だよ?」


「いやー? 意外と単純なんだなって思って」


 自然と鋭くなった瞳で千は華茄を見るが、華茄は緩んだ表情を戻そうとする気配は見られない。千は華茄の背中を軽く叩いた後にジャケットのポケットに手を突っ込んだ。指先で携帯をなぞる。


「さっさと歩け、バカ」


「はいはい、分かりましたよー」


 信号に差し掛かり、千は華茄の隣に立った。


「……急に体調悪くなった理由、聞いてもいいですか?」


「駄目だって言ったら?」


「聞きません」


 華茄は真面目な顔をして言った。


「どうしてだ?」


「言ってくれないって事は信用されてないって事ですから。言ってくれないって分かったらそれ以上は聞かないです。でも、もし私がどうしても聞きたいって思ったら努力しますよ、信用してもらえるように」


「優等生の模範解答みたいな答えだな」


「でも、これが私の答えですから」


 恥ずかしがることも、照れる様なこともなく、華茄は胸を張って誇らしげに言った。千は鼻で笑いつつ、瞑目し、口角を上げる。


 ここまで自信満々に言えるのは若さゆえか、それとも華茄だからなのか。どちらだろうな、と思いつつ千は小さく笑い声を上げた。


「……私がお前よりももう少し若い時に親と揉めてな。その時も今みたいな夕暮れだったんだ」


 何故だか、記憶の蓋が緩くなっていく。華茄のせいなのか、それとも別の要因なのか。千が記憶の蓋を再びきつく締めている間に、華茄は顎に手を添えて、熟考している様な仕草を取った。


「トラウマになってるんですね……」


 急速に険しい顔になっていく華茄の頬に千はペットボトルを軽く当てた。ペットボトルに付着していた水滴が華茄の頬を濡らし、それが汗の様に顎に向かって垂れていく。それを千は指で拭き取り、地面に落とした。


「言った後でなんだが、こんな話さっさと忘れろ。他人の不幸で一々感傷に浸ってたら、すぐにハゲるぞ」


「なっ、ハゲませんよ! 嫌なこと言わないでください、せっかく心配したのに」


 悪い悪い、と華茄の頭を撫でると、その手を素早く華茄に払われた。「やめてください、子供じゃあるまいし」と華茄は仄かに頬を朱に染めつつ、そっぽを向いてしまう。


 緋乃は頭撫でると喜ぶんだが、と内心思いつつ、千はペットボトルに入った水を一気に飲み干した。自販機の横に設置されたゴミ箱にペットボトルを投げ捨て、見事に外した事で華茄に小言を言われつつ、千は地面を転がったペットボトルを拾った。


 拾った瞬間に、視界の端で不自然に物陰に隠れた人影が数人。千はペットボトルを拾う為に身体を屈め、髪で顔を隠しながら、背後を確認する。こちらを除いている人物は四名。知っている顔、恰好。ペットボトルをゴミ箱に捨て、千と華茄は何事もなかったかのように歩き出した。


 しつこい奴等だな……。


「今日、お前を追ってた男子生徒はどんな奴等だ?」


「どんな奴等って言われても……先輩だからあんまり知らないです」


「じゃあ、知ってる事だけでいい」


「えっと、全員運動部で、よく瑠璃に会いに来てたのは覚えてます。そのせいで先輩達の彼女が嫉妬して瑠璃へのイジメが悪化したのも。とりあえず全員、あの三人と仲が良いんですよ」


 あの五人が依頼書に添付されていた画像に載っていたことは千も気付いていた。宍戸瑠璃を取り囲む生徒の中にあの五人の顔が写っていたことは。つまり、彼等は宍戸瑠璃を強姦したという確かな記録が残ったという事になる。


 そして、一時の快楽が彼等の足枷になっている事もまた事実であり、彼等を手懐ける手綱にもなっている事は間違いない。無論、彼等を手懐けているのは主犯の三人だ。


「なるほどな……。イジメに参加させることで共犯にして、誰にも情報を漏らせない様な状況を作ってるって訳か……。大したガキだ」


「何褒めてるんですか……」


 しかも、イジメのターゲットであった宍戸瑠璃は自殺し、帰らぬ人となった。イジメが存在し、強姦があった事が発覚すれば、イジメっ子が犯罪者に早変わりだ。未成年である事から名前は公表されないが、それは全国的に公表されないというだけの話。


 この街に住む人々は当然気付く。マスコミも容赦なく、追い回す。


 その事を鳥居正樹も、久保ゆきも、北山彰も気付いている。だから、イジメに参加させているのだろう。絶対に裏切れない状況を作り出す為に。


 だが、そうなると疑問に思うことが一つあった。共犯という関係性を生み出し、裏切り辛い状況を作り出したのは子供ながらに大したものだ、と千も思う。が、その共犯に華茄を巻き込んだ理由が分からない。華茄は瑠璃の友人。裏切る可能性が最も高く、指示に従わないと分かり切っているのに、どうして匿名メールを送信したのか。


「そういや、お前にも匿名メールってやつが来たのか? 聞いた話によると一月前に届いたんだろ?」


「来ましたけど、私には瑠璃が自殺した次の日に来ました。そこに載ってた画像は全部《青》さんに送ったので梅村さんも見てると思いますよ」


「一月前じゃないのか?」


「ほとんどの人が一か月前に来たみたいですね、《青》さんからこっそり教えてもらいました。でも、私だけ送られないのも当然ですよ。あんなメールが私に届いてたら、すぐに瑠璃を助ける為に動きますから」


「なんか少しおかしいな……」


 華茄は頷いて、神妙な面持ちで言った。


「どうして私に匿名メールが送られてきたのかって事ですよね」


「お前にメールを送らなかったのは情報の漏洩を防ぐためだ。その対策は宍戸瑠璃が自殺した後も守らなくちゃいけない事は分かり切ってる。なのに、どうしてお前にメールを送ったのか……しかも、宍戸瑠璃が自殺して大事になった後に」


「全生徒が瑠璃を嫌ってたわけじゃないですから。イジメも強制的だったし、不満を持ってる生徒は間違いなくいたと思います、言い出せないだけで」


「同調圧力ってやつだな。イジメに参加しないと宍戸瑠璃と同じ目に合わせるぞ、とでも言っておけば、大抵の奴は言うこと聞くだろ。それがイジメを仕切ってる奴なら尚更な」


 華茄に睨まれながらも、千は神経を背後の足音に集中させる。自身が奏でる足音は無に帰し、車の走行音すら意識の外に排除する。


 メールを送ったのはあいつらじゃないと思うが……。


「お前、足速いか? いや、遅いな」


「私まだ何も言ってないんですけど……」


「お前運動苦手って書いてあったけど、走るのだけは得意なのか?」


「……遅いですけど、クラスでもダントツに」


「鞄、両手で抱えろ」


 怪訝そうな視線を千に向けつつも、素直に鞄を両手で胸に抱えた華茄。それを見た、千は背後を一瞥し、こちらに向いた視線に勝ち誇るかの様に皮肉めいた笑みを浮かべた。

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