十六
千と笹木辺は素早く着替えを済ませ、華茄と共に用務員室を出た。事務室は用務員室の目と鼻の先だ。ものの十秒も掛からない内に千達は事務室の窓口に到着。窓口に座っていた女性に声を掛け、螺山という事務員を呼ぶように伝えた。
事務室の前で待つこと数十秒。事務室の扉が開き、悠然と現れたのは黒い縁の眼鏡が良く似合っている綺麗な顔立ちをした女性。凛とした佇まいは動かない表情を怜悧に映えさせるのに一役買っている。千とはまた違うタイプの美人だ、と千以外の二人は思った。
「お呼び立てして申し訳ありません、梅村さん」
綺麗な角度を付けて頭を下げる螺山に対し、千は特に社交辞令を投げ掛ける事もなく、用件だけを告げた。
「頭あげろ、めんどくせえ。用件は?」
千の粗雑な対応にも表情や態度を崩す事無く、螺山は右手に持っている万能ストラップが付いたカードホルダーを千に手渡した。中には水色のカードが入っており、入校許可証と大きな文字で印字されていた。その下に私立春宵高等学校と書かれている。
「これは?」
「こちらが入校許可証となります。許可証を毎朝事務員に提示して下されば、入校と同時に出勤扱いとみなしますので、忘れずに持参するようお願いいたします」
「退勤時は?」
「我々に声を掛けていただくだけで結構です」
「分かった。じゃあ、私達はもう帰るから退勤にしといてくれ」
「了解いたしました。気を付けてお帰り下さいませ」
「螺山さん、お疲れさまでした」
主人の外出時に見送りをするメイドの様に頭を下げている螺山に背を向け、千達は校舎を出た。まだ夕暮れ前の青空はどこか哀愁が感じられ、静寂に包まれた校舎前は悲愴にすら感じられた。
三人は校舎前に設置された花壇の前まで歩いていく。
冬の寒気を多分に含んだ風が髪を揺らし、花壇に咲き誇るシクラメンが一斉に踊り出した。風に乗って芳しい花の香りが鼻腔をくすぐり出す。
「綺麗な方でしたね、螺山さん」
「そうですね。少し近寄り難い雰囲気がありますが、仕事が丁寧で惚れ惚れします。梅村さんとはまた違う良さがある綺麗な方ですね」
「確かに。螺山さんは能面って感じで、梅村さんは般若って感じですよね」
自信満々に言った華茄に冷めた視線を向けつつ、千は口を開いた。
「それを言われて私が嬉しいって言うと思ってんのか?」
「……思わないですけど。でも、的確かなって」
「的確じゃねえよ。もっと優しい顔してんだろ」
問い詰める様な口調になっていく千から視線を逸らした華茄が小声で言った。
「……基本的に怖いです」
「は?」
「まあまあ、美人さんは真面目な顔していると怖く見えるものですよ」
「それ結局、私の顔は怖いってオチじゃねえか」
「まあ、そうとも言いますね」
「そうとも言っちゃダメだろ、否定しろよ」
楽しそうに笑っている笹木辺を見て、溜息を漏らした後に千は携帯を取り出した。時刻を確認、十四時四十二分。メールの着信は無い事を確認し、千は携帯をしまった。
「立ち話もなんですし、そろそろ帰りましょうか。私はこのまま駐車場に行くので、別方向になってしまうのですが」
「そうだな。そろそろ帰るぞ、自称勉強家」
「あ、はい。……ん? 自称じゃないですよ!」
抗議する華茄を無視し、千は笹木辺に「お疲れ、また明日な」と太々しい態度で別れを告げた。校門に向かって歩いて行く途中で「お疲れ様です」と聞こえ、その次に華茄が急いで千の後ろに駆け寄って来る足音が聞こえてくる。
二人は校門を抜け、学校前の信号で停止を余儀なくされた。赤色のランプが点滅する気配はなく、流れる車を二人してぼんやりと眺めた。
「お前、体操着ボロボロにされた割には意外と元気だな」
千は赤色の歩行者用信号を眺めたまま、言った。
「傷付いてないって言ったら嘘になりますけど、瑠璃はこの一年ずっとこんな感じでしたから、体操着くらいどれだけでもくれてやりますよ」
横目で華茄を見れば、彼女はどうでもいいと言わんばかりに漫然と信号を見つめていた。無理をしている様子も、強がっている様子も無い。
「私が見た写真はレイプされた後とか暴力振るわれてる様な写真ばかりだったが、最近の子供は意外と姑息なんだな、卑怯というか」
「私が言うのもなんですけど、最近の子って知能犯なんですよ。大人にはバレないようにイジメも上手くやるし、携帯があるので情報共有もしやすいですから、何より計画的です。それにネットで大抵の情報は手に入りますからね、イジメの手口もどんどん陰湿になっていきましたし」
「例えば?」
「二年になってすぐは無視とか物を隠されたりする程度だったんですよ。でも日を追う毎に無視が陰口に変わって、隠されても一日経てば返って来てたのが返って来なくなって、最終的には梅村さんが見た写真通りになりました」
「教師は気付かないのか?」
華茄は首を横に振った。諦めの様な感情が表情を覆っていく。
「気付いてて気付いてないフリをしてるのか、それとも本当に気付いてないのかは私にも分からないです。でも、一つ言える事は生徒から言わないと担任は動きません。瑠璃がイジメられていると自分から言わないと、イジメはないことになるんです。現にイジメは無い平和なクラスだと思ってたみたいですから、瑠璃が自殺するまで」
「お前がいつから宍戸瑠璃と友達なのかは知らないが、お前はどうしたんだ? イジメられている宍戸瑠璃を見て、何かしたのか?」
点滅を開始した信号に視線を向けつつ、努めて優しい口調で千は言った。樹にも投げ掛けた質問を華茄にも投げる。
「二年の最初に一緒に瑠璃の数学の教科書を探したのがきっかけで私と瑠璃は仲良くなったんですよ。イジメられている事も知ってて、私は瑠璃に声を掛けました。声を掛けたのも特に意味なんてなくて、単純に瑠璃が困ってたから声を掛けたに過ぎないんです。けど、イジメに対しては特に何もしませんでした」
信号が青に変わり、二人は同時に歩き出した。千は無言で横断歩道を歩き、華茄が口を開くのを待った。華茄が口を開いたのは横断歩道を渡った後だ。
「どうすればいいのか分からなかったんです。私が声を荒げても、あの三人を殴ってもイジメは無くならないって分かってたから」
「担任に言おうとは思わなかったのか?」
「思いませんでした。大人が介入するとイジメが本格化しちゃうと思ったから。だから、私が何とかするんだって思ってたんですけど、結局何も思いつかなかったんですよね。それに、気付いたらたくさんの生徒があの三人にイジメを強要させられてて、私一人じゃどうしようもない状況になってたんですよ」
乾いた笑みを溢す華茄は頬を掻き、視線を落とした。指先が震えている事に気付かないフリをして、千は前を見た。
「だから、私はずっと瑠璃の側に居る事にしたんです。イジメも二人で居れば、耐えられるって信じてたんですよ。イジメの真の敵は孤独だって信じてたんです。でも、違いました。瑠璃が自殺して分かったんです。イジメの敵はどこまでいってもイジメた奴なんだって。きっと、怖かったんです」
車の走行音も、吹き荒ぶ風の音も、何処かで吠えている犬の鳴き声も、気にならなくなる程には意識が華茄に集中していた。
「私がイジメられたら瑠璃は離れて行っちゃうんじゃないかって。瑠璃の孤独を埋めているつもりで、孤独に怯えていたんです。だから、私は何もしなかったんじゃないかって、瑠璃が死んでから思う様になりました。最低ですよね」
「……さあ?」
「え?」
ぽかんと口を開ける華茄の視線が千に突き刺さる。
「私は宍戸瑠璃じゃないからな、答えてはやれないさ。死人の言葉を代弁する気は毛頭ないが、お前は自分の答えを見つけて、動きだした。私達に頼る事が宍戸瑠璃の願いなのかは分からないが、お前がそうしたいならそうすればいい。これ以上後悔したくないんなら、宍戸瑠璃の為に何でもやってみな」
千は突き刺さる視線を真っ向から見返し、口が半開きの間抜けな表情を浮かべている華茄の額を指で弾いた。
「死ぬまでに全部やりつくして、あの世で宍戸瑠璃に聞いてみればいい。お前の為にこんな事やってみたけど、どうだ? って」
「どうだって言われても。それにあの世って」
「お前が知りたい答えを持ってるのは死人だからな。自分が死んだ時に聞くしかないだろ?」
「そうですけど……私、真面目な話してるのに」
「分かってるっての。だから、私も真面目に答えてるだろ」
「あの世云々の話がですか?」
「ああ。人を殺すって事は声を奪うって事だ。お前が殺そうとしてる三人が宍戸瑠璃から声を奪ったように、死ねば二度と声を上げる事は無い。だから、生き残った奴は死者の言葉を勝手に解釈して動くしかない。お前みたいに復讐を望む奴もいれば、そもそも何もしない奴もいる。何をしても正解になるし、不正解になり得る。死者が出した答えは死者になった時にしか分からないからな」
「でも、あの世なんてあるかどうか分からないじゃないですか」
千は舌打ちをして、もう一度華茄の額を叩いた。
「つまんねえこと言ってんじゃねえ。あるのかどうかなんて誰にも証明できないんだから、あるって思えばあるんだよ。だから、お前が宍戸瑠璃に許してもらいたい事があるなら、残りの人生全部使って、何かしてみろ」
「何かって何ですか?」
「お前が考え抜いて出した答えなら何でもいいんだ。何でも答えがもらえると思うな、お子様」
「私が考えて出した答え……」
前方から歩いてくる歩行者を避けなくなる程に俯いて黙考し始めた華茄の腕を引いて、千は無理矢理に華茄を現実から引き戻した。急に腕を引っ張られた華茄は少しの間だけ驚いた顔をしていたが、歩行者が自身の横を通り過ぎた所を見て、すぐに腕を引かれた訳を理解する。
「ちゃんと前見て歩け」
「……すみません、気を付けます」
そう言ったもののすぐに黙考し始めてしまう華茄を見て、大きな溜息を吐いた。
「お前は私達と違って、取れる選択肢が限りなく無限に近い。それにまだ十七歳だ。焦って決める必要はない」
「すみません……」
再び暗い面持ちで下を向いた華茄を見て、自然と千の瞳に力が入る。頬が引くつき、口角が不自然に上がる。
「あー! メソメソ暗い顔してんじゃねえ! お前興味ある事とか、得意なこととかないのか?」
「え? あ、シュシュとか服作るのは好きかも」
「そういうのでいいんだよ。好きなことを軸にまずは考えてみろ。大層立派な目標じゃなくていいから」
「……はい!」
明るい笑顔を浮かべ、白い歯を覗かせる華茄。先程まで浮かべていた暗澹とした雰囲気が全て払拭できたとは言い難いが、それでも薄れてはいるようには思えた。
それから二つの信号を渡り、大通りに出た二人はコンビニに立ち寄り、水とジャスミン茶を一本ずつ購入。ポケットから出したがま口財布を再び馬鹿にされつつ、二人はコンビニを出た。店前で一口だけ互いに買った飲み物を口に含み、二人は大通りの雑踏に紛れていく。
さらに十分ほど歩き、階段を緩やかに上がると駅のホームに二人は到着した。千は券売機で切符を購入し、改札を潜る。流れる様に背後から華茄がスマートフォンを改札にかざし、ピッと電子音が鳴った後に改札扉が開いた。華茄も問題なく改札を潜る。
「お前、無銭で改札を……」
「ち、違いますよ。ちゃんと払いました」
「どうやって? 切符を買わなければ改札は抜けられないぞ」
「いつの時代の話してるんですか。今は切符買わなくても電車に乗る手段はあるんですよ。例えば……このアプリとか」
華茄に手招きされ、千はスマートフォンの画面を見つめた。華茄が押したアプリにはチャージ残高が表示されており、その下には使用履歴が縦に長く続いている。履歴の一番上には今日の日付と千が払った切符代と同じ金額が赤字で消費されているのが、機械に疎い千でもすぐに分かった。
「このアプリにお金をチャージすれば、毎回切符を買わなくても改札は通れるんです。なんで私とあんまり歳変わらないのに、知らないんですか」
「それはこっちの台詞だ。何で私と歳変わらないのに知ってるんだ?」
「何で梅村さんが世界基準なんですか。《青》さんもスマホ持ってたし、聞けばいいじゃないですか」
二人は上り方面の階段へと向かう。
「聞いたら馬鹿にされんだろ、もう少し考えてから発言しろ」
「知らないですよ。何で私が悪いみたいになってるんですか。ていうか、そんなに機械に疎くて仕事に支障出ないんですか?」
「連絡は最悪公衆電話でも取れるし、情報収集は基本的に《青》の仕事だ。私の仕事は依頼が来たら出向いて、目標を始末する。詰まる所、《青》が事務で、私が営業ってとこだな。だから、機械に疎くても問題はない、今のところは」
「公衆電話って最近見ないですけど……。この機会に携帯くらいは買い替えたらどうですか?」
二人は階段を下り、プラットホームの黄色い点字ブロックの内側で立ち止まった。手に持っている水を千は一口含む。
「《青》に要相段だな。私の一存じゃ決められん」
「夫婦……じゃないんですよね?」
「違うな。あいつは女に興味ないし、私も色恋には興味ない。楽だから一緒に居るだけだ」
そして、今は緋乃の為に一緒に居る。彼女を守る為に。あいつを守れるのは私達しか居ないから。
「じゃあ、ご飯食べてた時に来たメールって誰からだったんですか?」
「何でも言えば、答えてくれると思うなよ」
と言って、千は華茄の肩を軽く小突いた。「すみません……」と、しょんぼりと唇を尖らせた華茄は鞄を背負い直し、丁度現れた電車に視線を向けた。電車の走行音がプラットホーム内を埋め尽くし、眼前で停止した車両からは絶えずモーター音が響き渡っている。
「私達が死んでも守るって決めた、大切な奴からだ」
千の声はホームに響いたアナウンスに掻き消され、誰の耳に届く事無く霧散した。羅列された言葉は意味を失い、ただの音と化す。その意味を持たない音を聞いた華茄は首を傾げ、千に向き直った。
「え? もう一回、いいですか?」
「ほら、さっさと乗るぞ」
発言の催促をする華茄の腕を引っ張り、千達は電車に乗り込んだ。




