第一話 三
無言。
二人は固まったまま、動かない。千は少女の瞳の色を見て言葉が出ず、少女は知らない空間、知らない女、と知らない事だらけで現実と夢の狭間を行き来している。
先手を切ったのは千。ペットボトルの蓋を開け、少女の目の前に置いた。
「……これ飲んでいいぞ。お前にやる」
咄嗟に口から出た言葉は、不愛想な愛嬌の無い言葉。少女はきょとんとしたまま、ペットボトルと千を交互に見つめる。恐る恐るといった様子で、ペットボトルをやせ細った両腕で掴むと、彼女はゆっくりと口に近付けた。
持ち上げられるだろうか、と少し心配にもなったが彼女の腕はペットボトルを持ち上げる程度の力はあるようだ。少しずつ飲んでいく様子は、野良猫が牛乳を与えられて、舌で舐めている光景を思い出させる。
三分の一ほど飲むと、千の顔色を窺うようにペットボトルを床に置く。
新聞紙に包まれた少女は、小動物の様に可愛らしく、しばし見ていたい気にもなったが、そうも行かない。この少女の体をまず洗わねば鼻が死ぬ。
「よし。付いてこい。歩けるか?」
少女は頷いた。
ペットボトルの蓋を締めながら千は立ち上がり、冷蔵庫に経口補水液をしまう。少女を見ると、生まれたての小鹿の様な足で必死に立ち上がろうとしている最中だった。何とか立ち上がった少女だが、足は震え、今にも倒れそうな程に不安定な足取りで千の下へと向かってきていた。
千は少女の腋に手を通し、その体を持ち上げた。抵抗される素振りもなく、そのまま胸に抱えると少女は驚いた顔で千を見つめていた。その驚きの正体は、驚嘆と恐怖が入り混じったもの。その視線には気付かないフリをしながら、二人は脱衣所へと向かった。
既に裸の少女を脱衣所に立たせ、千も豪快に衣服を脱ぎ捨て、洗濯機の中へと放り込む。洗面台に付いた鏡に映った細かい傷だらけの若い女の体は、お世辞にも魅力的とは思えなかった。千の体を物珍しそうに見つめる少女を再び抱え、風呂場へ。
隅々まで掃除が行き渡っているバスルームは、大人一人入るのが限界の浴槽に、シンプルなデザインのシャワーが設置されており、オレンジの証明で照らされたバスルームは窓が無い事もあり、少し薄暗い。
お湯は張っていないので、必然的にシャワーだけ。千は基本的にはお湯は張らないのだ。蛇口を捻り、シャワーを出す。最初は冷たい水が噴き出ていたが、次第に温かいお湯に変わり、手でお湯に触れ温度を確認する。
少し熱いか。
温度を調節し、再度確認。やや温めのお湯加減が完成する。少女は絶え間なくお湯を放出しているシャワーを見て怯える様な眼差しを向けていたが、千がシャワーのお湯を手で掬い、腕に優しくかけてやると、少しだけ恐怖が軽減された。彼女が受けたであろう水にまつわる虐待の想像はしないように心掛ける。
「温度。これでいいか?」
少女は、小さく首を縦に振った。ポリプロピレン製の白のバスチェアに少女を座らせると千は、背中全体にかかるようにシャワーを当てた。
シャワーのお湯が肌に触れると、少女の顔が僅かにのけ反った。シャワーが傷や痣に沁みたのだ。一度シャワーを少女の体から離す。
「大丈夫か?」
少女はまた首を縦に振った。シャワーの勢いを少し弱め、再び少女の背中に当てる。今度はのけ反ることは無かったが、小さな手を一生懸命に握りしめ痛みに耐えているようだった。千も心を鬼にし、少女の全身にシャワーをかけていく。
シャンプーやトリートメントを素早く済ませ、体を洗う用のボディタオルを使用することはまだできないので、泡を立てた千の手で優しく隅々まで洗っていく。その間、痛いとか、やめてとか、くすぐったいとか、抗議の声は一つも出されることは無かった。
シャワーで優しく、泡を流し落とすと、彼女の顔に付いた水を手で拭ってやる。大きな赤い瞳が見開かれ、千を呆けた顔で見つめていた。
どうしたのだろう。耳に水でも入ったのだろうか。
千が首を傾げていると、少女は屈んでいる千の太股に手を置いて、上目遣いで言った。
「……ありがとう」
千は驚いた。この少女は今お礼を口にした。お礼というのは、誰かが教えなければこのくらいの歳の子供が口にすることは無い。誰かがこの少女に教えたのだ。この小さな少女に、ありがとう、の意味を教えた人が周りに存在した。
勝手に、少し救われたような気持ちになる。
千も、素早く全身洗い終えると、二人は脱衣所へと戻った。脱衣所に置かれた洗濯されたばかりのバスタオルを手に取り、先に千が軽く体の水気を拭き終えると、新たなタオルを手に取り、少女の頭にタオルを乗せる。少女の肩程まで伸びた黒髪が吸い込んだ水気を拭き取っていく。少し拭き方が雑なのは、千の性格的なものなのでどうしようもない。
拭き終えた髪の毛を千が手櫛で梳いてやると、そこには硝子細工の様に透き通る赤い瞳を怯える様に震わせ、幼いながらも造形の整った綺麗な顔立ちの少女が脱衣所に現れた。
これから肉を付け、傷もゆっくりと癒しておけば、将来な有望な美少女が生まれるに違いない。
全身の水気もしっかりとタオルで拭いていく。この少女を濡れたまま放っておけば、五秒で風邪を引いてしまいそうだ。といっても、小さな体の少女を拭き終えるのに五分とかからなかった。千も体を拭いていくが、少女はその姿をまじまじと見つめていた。相手は子供といえど、凝視されるのは千もさすがに恥ずかしい。体を拭く速度は自然と上がっていった。
裸の少女を同じく裸の千が抱え、脱衣所を出ると、部屋の中はまだ異臭が漂っていた。部屋の中にある全ての窓を開け、換気扇も起動させる。後は、時間が経てば臭いはある程度は改善されるはずだ。
千は冷蔵庫から少女の飲みかけの経口補水液を取り出し、胸に抱えている
少女に手渡した。両手で一生懸命に手に取り、冷たいペットボトルを少女は気持ち良さそうに抱きかかえた。風呂上がりで火照った体には丁度いい冷却材だ。
少女を絨毯の上に乗せ、千はベッドとして代用した新聞紙を回収していく。ゴミ箱に次々放り投げ、全ての新聞紙を捨て終わるとゴミ箱から袋を取り出し、袋の口を縛った。その袋を手に持ちながら、少女の方へと向き直ると、当の本人は経口補水液をがぶ飲み中。
「ゴミ捨ててくるから、そこから動くなよ。もうすぐ飯も帰ってくるから」
「誰が飯よ。ていうか、裸で外に出ようとしないで」
声のする方へと振り返ると、そこには土鍋を手に持った大柄の男が立っていた。茶色の短い髪を綺麗に整え、肥大した筋肉に包まれた無駄のない肉体は、上背があるせいか威圧感を感じる要因になっていた。
それを助長するかのように施された厚化粧と青髭のせいで、威圧感の強いよく分からない妖怪、という都市伝説のような存在になっていた。
「《青》、帰って来てたのか。言えよ」
「今帰ってきたのよ。いきなり消化の良いもの作れとかいうから」
彼の名前は《青》。オカマバーで働くオネエであり、れっきとした男性。本名を前田剛二と言い、店での名前はキャサリン。この部屋で千とルームシェアしている千の仕事上の相棒でもある。彼の《青》という通称は、誰が言い出したのかは分からないが、青髭が濃いという理由から来たものであり、本人はこの通称で呼ばれる事を嫌っている。
手に持った土鍋を台所に置きながら、《青》は部屋の異臭に鼻を抑えた。
「何か臭いわね? な……にか……しら?」
絨毯の上に座る裸の少女。全身、傷や痣に塗れたやせ細った体を見て《青》は思わず少女の体を上から下まで舐めるように見回した。数十秒の間、《青》は考え込んでいたが、すぐに矛先は千へ。彼の太い両腕が、裸の千の肩を力強く掴む。その表情には古の大妖怪の様な貫禄を携えていた。
会ったことはないが……。
「千ちゃん、あんな可愛くて無垢な女の子になんてことを……。千ちゃんが男に興味が無い事は知っていたけど、千ちゃんが少女好きの、SM好きだったなんて……。見損なったわ。今日の夜に使った道具を出しなさい! どんな激しいプレイを強要させたのか言・い・な・さ・い」
このオネエは何を言っているんだ。
千はてっきり、どこから拾ってきたのか聞かれると思っていたのだが、千が逢引した末に、自宅に少女を連れ込み、性行為に及んでいたと思われたようだ。
どこから突っ込めばいいのか悩んでいると、《青》は千の肩を離し、少女の前まで移動すると少女の目の高さに合わせる様にしゃがみ込んだ。
大妖怪の様な貫禄を持つオネエ妖怪を視界に入れたことで、少女はその場で震え上がっていた。この少女じゃなくても大抵の子供は、怖いと思うはずだ。
「私の名前はキャサリン。あの変態の相棒よ? あなたのお名前は?」
「前田剛二だろ?」
「千ちゃん?」
千はゴミ袋を床に置き、《青》と目を合わさないようにクローゼットの前まで移動した。素早く着替えを済ます。濃紺のデニムに、白いシャツを着崩して羽織っただけのシンプルな恰好。だというのに、整った顔立ちに、スタイルの整った肉体のせいでそれなりに似合っていた。クローゼットから一枚長袖のTシャツを取り出すと、《青》という名の妖怪に脅迫されているように見える少女の頭にTシャツを乗せた。
「これ着ろ」
千の服であるためサイズがかなり大きいが、何も着てないよりはいいだろう。千はゴミ袋に手を伸ばそうと腰を落とすと《青》に思いきり尻をデニム越しに引っ叩かれた。
「もう、適当なんだから。着せてあげなさいよ」
慣れた手つきで《青》は少女に服を着させる。その間、少女が怯えっぱなしだった事に気付いていたのは千だけだったが、何も見ていないフリをすることにした。
服を着た事で、ほとんどの傷や痣は見えない。覗き込んだ場合は別だが、かなり近くに行かない限りは痣も見えることはない。食事をしっかりと取り、体に栄養を付ければ近い内に、外出も出来るようになるだろう。
「それで名前は?」
ゴミ袋を手に持ちながら、《青》と少女の二人に尋ねた。《青》は首を横に振り、少女は困った様に視線を宙に彷徨わせた。
ゴミ袋をまた床に置く。
「どういうことだ? 名前が思い出せないのか?」
優しく言ったつもりなのだが、千の語気が強かったせいか、少女は怯えてしまった。千は後頭部を掻きながら、壁にもたれかかった。そのまま床に座り込み、千も少女と視線の高さを合わせた。この方が少女の恐怖を軽減できるだろう。
「……別に怒ってるわけじゃないからな。こういう口調なだけで……」
頬を掻きながら一応弁明。横目で少女を見れば、目が合い、お互い同時に視線を逸らした。少女漫画の様なやり取りを《青》の前で披露する二人。それを見ていた《青》の表情はかなり険しい。控えめに言って怖い。
「他に分かることってあるかしら? どんなことでもいいわよ?」
少女は首を横に振った。
「好きな食べ物は?」
「茄子」
即答だった。二人は少女から視線を離し、笑いを堪える。気を緩めれば笑ってしまいそうだ。
シリアスシリアス……。
自身の心を戒める。千は一度深呼吸すると、真面目な表情を作った。今は大事な話をしているのだ。コミカルな空気は今はいらない。
《青》も同じことを思っているようだ。深呼吸した後、彼もまた真面目な表情に切り替わった。
「お父さんとお母さんは分かる?」
少女は首を横に振った。
「兄弟は? 姉とか弟は分かるか?」
少女は首を横に振った。
「……何もわからないの。……思い出せないの。……全部忘れちゃったの」
無表情の少女の口から語られた、か細い声。感情の乗ってない声からは彼女の心情を察するのは難しい。声や表情には目もくれず、二人の視線は同じ場所を見ていた。
少女の手はTシャツの袖を握りしめていた。震えた手で、握りしめられていた。恐怖に負けないように、勇気を振り絞るように。彼女が紡いだ言葉にはどれほどの勇気が込められていたのだろうか。虐待によって大人の恐怖を根幹に植え付けられた彼女が、この場所で声を発すること自体がかなり勇気のいる行動だという事に、なぜ気付かなかったのだろうか。
大人である二人は顔を見合わせた。言葉を交わさずとも答えは既に出ていた。
情に流される人間を馬鹿にして生きてきた千だが、この少女を見て、少しだけ情に流されやすい人間の気持ちが分かった様な気がする。理屈じゃないのだ。気付く前から心は既に動いてしまっている。気付いた後にはもう遅い。心は既にこの少女に囚われてしまっているのだ。
悪意にさらされたこの少女を守れるのは、その悪意を壊せる人間だけ。
その悪意を狩り尽くすまでは、この少女の側に居てやろう。その後の事は、この少女が自分で決めればいい。
「子供一人でここを放り出す訳にもいかないしな。しばらくここに居させてやるよ」
「私も同感だけど、この子の意見もちゃんと聞かないと」
「分かってるよ。ここを出ていくか? ここに残るか? お前が選んでいいぞ。ここを出ていくなら安全な場所は用意してやる。そこら辺の心配はするな。さあ、どうする?」
千はその時、初めて少女の表情がはっきりと動いたのを見た。
満面の笑みとは程遠いが、それでも少女は微笑んでいた。赤い目を細め、口角を少しだけ上げて。気付かない者は気付かないかもしれない、そんな微笑みだった。
二人は少女の言葉を黙って待った。少女の口から答えを聞かねば意味がないのだ。
少女は小さく息を吸い込むと、二人を見ながら、問いに対する答えを口にした。
「……ここに居てもいい?」
「ええ、もちろんよ」
《青》が少女の頭を優しく撫でながら、微笑んでいた。彼は、見た目は怖いが基本的には老若男女に優しいのだ。その事を少女も理解したのか、《青》に対しての警戒が少し解かれた気がする。
その姿を見て、千はホッとしていた。少女がこの部屋を出ていく可能性が低いとは言えなかったからだ。まだ出会って数時間。本当に少し面倒を見ただけの間柄だ。深い絆がある訳でもない。出ていくと言い出したらどうしようか、と内心ひやひやしていたのだ。
「名前が無いなら、名前考えないとな」
「そうね。……可愛い顔してるんだから、チャッピーとかどうかしら?」
アホなのだろうか、こいつは……。
「……チャッピー?」
お前も満更でもない顔をするな。
「却下」
千は、立ち上がり紙と鉛筆を取り出した。紙に書いたのは二つの漢字。チャッピーよりはマシだという自負はある。
読めないかもしれないと、漢字の横にふりがなを平仮名で書き足す。平仮名も読めない可能性はもはや考えない。
彼女の赤い瞳を見ていたら何となく、浮かんだ名前。気に入ってもらえるだろうか、という不安は最小に、その紙を二人の前に出した。
二人が千の書いた名前に視線を移す。
「緋乃、なんてどうだ?」
少し気恥しそうに言う千。それを見て《青》がニヤニヤしながら、千の肩を肘で小突いた。
「いい名前じゃない。千ちゃんにしては」
「一言多いっつーの。どうだ、気に入らないなら違う名前考えるけど」
「あけの……。あけの……」
念仏の様に唱えているが気に入った、という事でいいのだろうか。
千と《青》はどうしていいか分からず、顔を見合わせた。
そんな大人二人の心配を余所に、赤い瞳の少女は新たな自分の名前に少しだけ胸を躍らせると、表情を僅かに緩ませていたのだった。