十四
昼食を終えた千達は食器を片付けると、すぐさま食堂を出た。人の気配が希薄の廊下を抜け、三人は用務員室へ歩を進める。
「もう居ないみたいですね、さっきの子達。帰ったんですかね?」
何故か高揚感を露わに言った笹木辺が辺りを見回しながら言った。
「さっき散々追いかけ回した挙句に私に追い払われてるからな、校内で追い掛けてくる様な真似はしないだろ」
千の横に並んだ華茄がやや顔を強張らせた。下唇を甘噛みしているのが視界の端に映る。
「校外では追い掛けてくるかもって事なんですか?」
「さあな。だが、切羽詰まった人間ほど予想もしない行動を取る。この世から物騒なニュースが消えないのが何よりの証拠だ」
「そうなると一人で帰るのは危険かもしれないですね」
「まあ、かもしれないってだけの話なんだが……」
深刻な表情で視線を落としている華茄を横目で見つつ、千は胸ポケットからロッカーのカギを取り出した。
「お前、私達の仕事手伝っていけよ。どうせ家に帰っても勉強なんてしないんだろ?」
「え? しますけど。馬鹿にしてるんですか?」
華茄の視線が千に向かっている為に気付いていないが、笹木辺が心底驚いた表情をして、口をぽかんと開けていた。「え? 勉強するの? お前が?」という心の声が聞こえてきそうな程には驚愕に満ちた表情だった。
「尊敬してないのは確かだな」
「馬鹿にしてるんじゃないですか」
「大人っていうのは子供の大半を見下して生きてんだよ」
「それは梅村さんだけです。そこに私を含めないでくださいね?」
笹木辺が笑顔を浮かべ、あっさりと千の主張を否定した。用務員室の前までたどり着くと、扉を開け、三人は用務員室に進入。千はロッカーのカギを解除し、携帯と財布を入れた。そして、再びロッカーを施錠し、呆然と立ち尽くしている華茄へと向き直った。
「話は逸れたが、どうするんだ? さっさと帰るのか、残るのか?」
「残ったら家まで送ってくれるんですか?」
「ああ、今日は私が家まで送ってやる」
「……なら、残ります。掃除手伝えばいいんですよね?」
数秒の沈黙の後に華茄は意を決した様な瞳を千に向け、言った。千が頷き、笹木辺が穏やかに笑顔を浮かべる。
「では、一緒に掃除しましょう。三人でやれば、それほど時間も掛からないと思いますから、日が暮れる前には帰れると思いますよ」
「頑張ります」
意気揚々と頷く華茄を見て、笑みを強める笹木辺だが「あ、でも」と言った後に華茄の全身をゆっくりと見た。
「制服が汚れると後で大変ですから、体操着などは持っていませんか?」
「それなら教室のロッカーにあると思います。取りに行ってきますね」
「分かりました。梅村さんもついていってあげてください。一人は寂しいですからね」
「……はいよ」
お節介な奴、と内心で思いながら、千は華茄に先に行くように顎で扉を示した。顎で指示を出されたのが不愉快だったのか、不機嫌な顔をしていた華茄だったが、千の指示通りに用務員室の扉を開け、外に出て行く。
「では、私は先に掃除して待っていますから、ゆっくり来てください」
「私の分の仕事、取っておけよ」
そう言って千は笹木辺に背を向け、扉を潜った。外で待機していた華茄を先頭に千達は用務員室を離れていく。先程、昼食を取った食堂を通り過ぎ、下駄箱前に設置された横幅の広い階段を上がり、千達は二階へと到達。すぐさま次の階段を上がり、三階に向かう。
三階へ向かう途中の踊り場に居た男子生徒と女子生徒が華茄と千を凝視している事に気付きながらも、千達は無言で二人の前を通り過ぎ、足早に階段を上がっていく。
すぐに気付いた。二人の生徒が凝視していたのは千では無い事にも、二人が華茄を見た瞬間に携帯を取り出した事にも。
「お前、人気者なんだな」
「……そうですね。今は悪い意味で注目集めてる自覚はあります」
「お前が宍戸瑠璃の友達だから、か?」
階段を上り切った華茄が足を止め、千に振り返る。表情に浮かんだ感情に驚愕や動揺は無いようにも見える。揺れることなく瞳は真っ直ぐに千を見つめ、閉じられた唇は悠揚と開かれる時を待ち望んでいる。そう感じる程に華茄の表情は冷静に富んでいた。
千も階段を上り切ると華茄の隣に立ち、流し目で華茄と視線を交錯させた。
「《青》さんから聞いたんですか?」
小生意気にも低い声を出す華茄に、千は冷淡で感情を一切含ませない視線を送る。
「仕事だからな。《青》が調べた情報は一通り目を通してある。お前は《青》から私のことをどこまで聞いてる?」
「何も」
「は?」
「だから、梅村さんのことは何も知らされてないです。私は依頼を受けてくれるって事と、依頼料の話しか聞いてないです。後は瑠璃のこととかイジメの事を私が話したくらいで」
「あの野郎、私に説教したくせに」
口角が自然と上がり、ひくついているのが分かる。千は乾いた笑みを溢した後に華茄に教室に向かう様に指示。千達は左右に別れた廊下の右側を進み、灰色のリノリウムが敷かれた長い廊下を二人は歩いて行く。
いや、違うか……。
《青》はあえて千の情報を伝えなかったのかもしれない。今までがそうだったからだ。今まで千達に依頼してきた人間は千の情報をある程度は知った状態で依頼をしてきていた。千と《青》の技量を事前に自ら情報収集してから、依頼してきていたのだ。だから、これまでは千の事細かな情報を伝える必要が無かった。
そして、千と《青》の役割も共に仕事をするようになってから変わっていない。《青》が仕事を取って、千が殺す。ずっと同じ。千が依頼人と直接顔を合わせた事はほぼ皆無だった。
だから、《青》も伝える必要がないと判断したのだろう。
もしくは、千が依頼人と顔を合わせる必要は無いと思ったのかもしれない。彼はこの春宵高校で働け、とは言ったが、鹿野華茄とコンタクトを取り、協力関係を築け、とは言っていない。千が仕事をしやすい環境を《青》が整えてくれた。そういう事だろう。
私が依頼人と直接会うのは何年ぶりか……。
「私のこと何も知らないって事はお前、私に鎌かけたな?」
千の言葉に華茄はあっさりと頷き、機嫌を窺う様に千を上目遣いで見た。
「……怒ってますか?」
「別に、この程度で怒ったりはしないさ。だが、少し気を引き締める必要があるって思っただけだ」
「気が緩んでいる様には見えないですけど」
「お前にはそう見えないだけだ」
千の素っ気ない返事にムッとした様な表情を浮かべていたが、華茄は3-Dと書かれた室名札を見るや否や立ち止まり、すぐさま扉を開けた。誰も居ない教室を進み、教室の一番後ろにクラスの人数分だけ設置されたロッカーに真っ直ぐに向かって行き、自身の名が貼られたロッカーの扉を華茄は開けた。
千は黒板にチョークで書かれた明日の予定を眺め、教壇に背を預けた。自然と腕を組む。
「一時限目が現代文、二時限目が数学、三時限目が世界史か……」
次に千は黒板の右隣に貼られている時間割表に目を向けた。正確には教科ではなく、各時限の開始時間と終了時間を。授業は基本的に五十分授業で、授業と授業の合間には十分の休憩時間が設けられている。
黒板に書かれた明日の予定には各テストの時間も記されているため、テスト期間中も基本的には時間割通りに時間が進むと思って間違いないだろう。
千は首筋に手を当て、動脈をなぞる様に擦った。
いつ殺すべきか……。
学校に来る前か、もしくは十分間の休憩中か、それとも授業後か。学校で殺すのか、校外で殺すのか。確実性を求めるなら授業後、校外での殺人だ。午前中でテストは終わる。その後は言ってしまえば自由時間だ。時間も豊富にあるし、処理する時間は多いに越したことはない。
勉強をする為に家に戻るのか、遊びに向かうのかは分からないが、目標の三人はテストが終われば、必ず学校からは離れる。学校内よりも校外の方が処理はしやすく、それに学校内だと殺害する場所が限られる上に、人目に付きやすい。
となれば、校外で事を運ぶのは必然。無駄にリスクを負う必要は無い。
千はロッカーの扉が静かに閉まった音を聞いて、もたれ掛かっていた教壇から体を離した。組んでいた腕を解き、背後を振り返る。が、華茄はロッカーに身体を向けたままで、微動だにしない。
「おい、服見つかったんならさっさと戻るぞ」
声を掛けても反応を全く見せない華茄に怪訝な視線を向けつつ首を傾げると、千は教室の後ろに向かって歩いていく。
「おい、聞いてんのか?」
華茄の肩を叩き、振り向かせようとしてすぐに腕の力を緩めた。
震えた肩。肩に力が入っているのが如実に分かる。視線を下げれば、力強く握られた拳がぶるぶると震えている。視線を上げれば、息筋が立っているのが分かり、必死に動揺を噛み殺しているのが見えた。
「どうした? 何があった?」
千はそう言いながら、勝手に鹿野華茄と書かれたロッカーの扉を開けた。扉を開くとそこに入っていたのは体操着だけ。上下ともにある。だが、乱雑に置かれたそれは鋭利な刃物で切り裂かれたかのようにボロボロで、体操着としての役割は既に果たせない程には形状を見失っていた。
服というよりも既に乱雑に揃えられた布の束と言った方が的を射ているのかもしれない。
この布を見て、次のイジメの標的はお前だ、と取るべきなのか、それとも調子に乗るなよという警告と取るべきなのか。もしくは別の何かを意味しているのか、何も意味していないのか。
「自殺した生徒が居るってのに、信じられない行動だな」
イジメが存在したことは生徒達も学校も周知の事実であるはずなのに、いじめと取れる行動を起こした事に千は僅かばかり驚いていた。宍戸瑠璃がイジメの末に自殺した事は明らかで、まだ日数も経っていないというのに。
宍戸瑠璃の自殺の原因が外部に漏れるのは、最早時間の問題だ。高校生と言えど、所詮は子供。良心の呵責に苛まれ、罪の意識から解放される為に自白する生徒は間違いなくいる。苦痛に耐え続けられる人間はごく少数だ。
そして、こんな一生徒の体操着を切り裂くという分かり易いイジメを行えば、春宵高校にはイジメがあったと容認している事に等しい。もし華茄が教育委員会やマスコミにこの写真を送れば、宍戸瑠璃の自殺の件も含めて、間違いなく食い付いてくるのは火を見るよりも明らかで、撒き餌している様なものだ。
そんなことになれば、学校側が調査中と嘯いて隠している事実は瞬く間に明るみに出る。隠し通す事など出来ない。
「心当たりはあるか?」
「……無いけど、でも」
確信はしていないが、思い当たる人物にはたどり着いている。そんな表情を華茄がしている様に千には見えた。千は下唇を噛んでいる華茄を横目に思い当たった人物を上げていった。
「鳥居正樹、久保ゆき、北山彰の三人か?」
華茄は自信なさそうに頷いた。
「どうしてその三人だと思う?」
「私が瑠璃の友達で、最期の瞬間まで私が一番瑠璃と一緒に居たから」
「怖いってわけか。お前が余計な事を外部に漏らすんじゃないかって」
「多分……イジメに関わった生徒も、関わってない生徒も、瑠璃が自殺した事自体にはあんまり興味ないんだと思う。喋った事もない知らない人が死んだって感傷に浸るなんて無理。それにレイプする様な奴に悲しんでもらってもありがた迷惑だよ。皆、瑠璃が自殺した事よりも、瑠璃が自殺した事で自分が犯罪者になる事を恐れてるんだと思う」
「だろうな。母性に溢れた母親も、ナイフ突き付ければ子供を盾にする。誰だって我が身が一番可愛いに決まってんだよ」
先程まで深刻な顔で視線を落としていた華茄の視線が自然と上がり、呆れた様な冷めた様な目で千を見つめた。
「例えが最悪なんですけど」
「例えっつーか、実体験だからな」
実体験、その言葉を聞いた途端に華茄が息を呑んだのが分かった。無意識か意識的にか、瞳が微かに揺れ、指先に力が入っているのが目で見て取れる。
気付いてしまったのだろう。自分が仕事を依頼した人間がどれだけ非常識な世界で生きているのか。その非常識な世界に足を踏み込んでしまっている事に。が、華茄はまだその一端に触れているに過ぎない。裏社会が織り成す深淵にはまだ浸かってはいない。
まだ戻れる。学校という幼稚な世界が生んだ悲劇を仕方が無いと諦め、依頼を取り消せば。
「ま、そのくらい人間は薄情だって事だ。言い方は悪いが、お前みたいに殺したところで何の利益も得られない殺人を頼む奴は稀有だよ」
「ほんとに言い方最低ですね」
「だが、それが真実だ。私達に依頼してくる奴は大抵、目標を殺す事で確かな形で自分にメリットがあるって前提で依頼してくる。中には不倫相手を殺せだ、育児放棄した母親が子供を殺せだと世迷言を言ってくる奴も居るが、そんなのは少数だ。私達に依頼してくる前に自分で片を付ける場合が多い」
「私も自分で片を付けられればいいんですけどね。でも、私は無力だから。私が人を殺せば、私以外の人に迷惑が掛かる。それは嫌だから」
力が入っていた指先が握られ、震えた拳が作られる。だが、その拳は弱々しいほどに脆弱で、無力で、何も助けられない事を華茄は知っている。そして、その手を自ら血で穢せば、自分の大切な存在達にすら穢れが広がる事を華茄は理解している。
殺人犯の家族もまた異常、異端。もし、そんな認識が付けば、世間は容赦なく罵倒し、非難する。まるで正義は我にあるのだと言わんばかりに追い詰める。
それに一度付いたレッテルが剥がれる事は稀だ。自分達の事を誰も知らない土地に移り住むか、名前を変え、顔を変え、全くの別人として生きていくか。そうするしかレッテルを剥がす手段はない。
「お前、少し変わってるな」
「梅村さんに言われたくないんですけど。でも、変わってるというよりは変わったのかもしれないです。瑠璃が自殺した瞬間を見て、価値観が変わったというか」
「ふーん」
「ふーんって興味なさすぎ」
千はロッカーに背を預けると、腕を組んだ。
「じゃあ、今のお前が見る春宵高校はどんなふうに映る?」
「……何というか、歪んでる……というか不完全というか。上手く言えないけど、どこかおかしい場所だと思う、ここは」
歯切れ悪く言った華茄を流し目で見た後に、千は漫然と床に落ちている埃を見つめた。
「まあ的は射てるんじゃないか? 春宵高校に限らず、学校って場所は歪んでるよ」
「どうして、そう思うんですか?」
少し緊張しているかの様な硬い声で華茄は言った。
「お前達が……いや、子供がルールを作ってるからだ。校則とか校訓とか、大々的なルールは大人達が作るが、この高校って世界の細かなルールはお前達子供が作ってる。まだ幼いお前達がルールを作る以上は歪まざるを得ないんだ」
「なら、大人が作れば」
千は瞑目し、首を横に振った。
「お前、大人が作ったお前達にとって不都合なルールを黙って守ると思うか?」
「大人の前では守るかもしれない、です」
「社会も学校も人間も常に表と裏がある。だから、お前達は大人の前ではルールを守るだろうよ。裏ではイジメなんてしてる傍らにな」
千は開いたままの華茄のロッカーを一瞥した。
「まあだが、高校生ってのはまだまだ子供だ。だから、道を踏み外す事もある。多少の過ちは仕方が無いと思う時もある。が、問題なのはお前達が限度を知らない事だ。楽しいって感情が先行してお前達は容易く限度を超える。やり過ぎる。そんなお前達がルールを作るんだ。まともなルールなんて出来るはずもない。完成するのは歪で綻びだらけのルールもどきだよ」
「なら、どうすれば」
「知るかよ。まあだが、一つ言うとすれば、お前達はルールが存在してる意味を分かってないって事だな」
「私も含めて、ですか?」
「さあ?」
悪戯めいた笑みを溢すと同時に千はロッカーの扉を閉めた。そして、俯いている華茄の手を引いて、黒板に向かって歩いて行く。突然、手を引かれた華茄は「え? な、なに?」と声を上げているが、千はそれを全て無視し、真っ直ぐに歩いた。すぐに黒板にたどり着き、そこで千は立ち止まる。
手の平を黒板に押し当て、五本の指先で黒板に触れる。
「お前は黒板だけ見てればいい。難しいことは何一つ考えるな。お前がこれを見て、勉強してる間に全てが終わってる」
「私に手伝える事は何かないですか? 何でもします」
「お前に出来ることは何もない。お前は何もするな」
「どうしてですか? 私が高校生だからですか?」
詰め寄る華茄に千は眉根を寄せ、目を細め、明らかに不機嫌を露わにした。
「お前に言う必要は……」
腕を掴む華茄を引き剥がそうとした千だが、ふと緋乃からのメールを思い出し、言葉を止めた。『けんかはしちゃだめだよ』という言葉が脳内で繰り返し再生される。緋乃の声が聞こえてきそうな程には脳内で反芻した頃に、千は口を開いた。
「お前は宍戸瑠璃の友達だったんだろ。なら、お前には殺害動機がある。だから、動くな」
「あ……」
自然と千の腕から華茄の手が離れていく。もし、目標の三人を殺害した時点で華茄の無実が証明できなければ、容疑者として事情聴取が行われる確率は高い。もし、そんな事になれば華茄の家族はもちろん、千達にすら捜査の手が伸びる可能性も零ではない。
「勝手な行動はするな、いいな?」
「……分かりました」
「じゃあ、戻るぞ」
千と華茄は無言で教室を出た。
千と華茄は裏と表。例えるならコインだろうか。裏と表、常に共に在りながら、決して出会う事の無い存在。本来なら交わる事の無い存在同士がこうして顔を合わせている事自体、特異的で異例の事態なのだ。仕事を手伝わせる事など以ての外。
コインは表裏が存在するから、コインとして成り立つ。これ以上、華茄が裏に踏み込み過ぎれば、コインは存在する意味を成さない無用の長物として生まれ変わる。
そして、人生はコインの様にはいかない。一度裏返れば、表には戻れない。
表には豪華絢爛の花道を、裏には屍山血河の外道を。
これが表裏の側面を持つ社会が定めた暗黙のルール。
互いに不干渉、互いに不可侵。
表と裏のバランスを揺るがす危険因子は即座に切り捨てられる。
つまり、ルールが存在している意味を分かっていない奴が真っ先に切り捨てられるのだ。




