十二
笹木辺の協力もありつつ、床に溢れた水は全てバケツに回収され、最初は透明だった水も黒く淀んでいた。食堂全域の掃除は無事に終了。二人が掃除用具を一旦片付ける為に用務員室に戻る頃には午前十一時を過ぎ、三十分を回ると同時に鳴ったチャイムで口内は瞬く間に喧騒に満たされていく。
バケツに入った黒く濁った汚水を、用務員室に一つだけ設置された大きな手洗い場に流していると、笹木辺がモップを片しながら口を開いた。
「道具を片付けたら、休憩にしましょう。昼休憩です。オムライスです」
「はいはい、どんだけ楽しみにしてんだよ」
陽気に言った笹木辺に千は素っ気ない対応をしつつ、蛇口を捻り、バケツに水を溜めていく。休憩前に溜めておけば、休憩後にすぐに掃除に取り掛かる事が出来る、と思いバケツに水を溜めていた千に笹木辺は非情な言葉を口にした。
「あ、昼からは図書室の掃除をするので、バケツに水を溜めておく必要は無いですよ。前面にカーペットが敷いてあるので」
「先言えよ」
「何も言わずに準備したのは梅村さんなので、知ったことではないです」
そりゃそうだ、と皮肉めいた笑みを浮かべ、千がバケツに入れた水を洗い場に流そうとした時、用務員室の扉が勢いよく開かれた。
バン、と大きな物音が立ち、開かれた扉がとてつもない速度で壁に打ち付けられ、壁が僅かに抉れたのを千は確かに視認した。そして、扉が開かれたのとほぼ同時に用務員室に入った人物も千は確かに視認した。
目を見開く。会話をした記憶はない。直接顔を合わせた訳でもない。けれど、千は知っている。用務員室に入ってきた人物を。
明るい茶色の少し癖があるセミロングの髪を赤いシュシュで一つに纏め、小生意気な印象を植え付ける少しだけ吊り上がった瞳。整った細い眉が勝ち気な印象を付加し、さらに生意気さを強固なものにしていた。
着崩した制服は風紀が乱れ切った現代社会を表しているかの様でもあり、自由な思想を表す民主主義の象徴とも思えた。
この生徒の名は鹿野華茄だ。《青》に釘を刺され、依頼書を読み込んだという事もあり、鹿野華茄本人で間違いないだろう。
華茄は顔全体を汗で濡らし、着崩していると思われる制服は、着崩しているというよりも強引に服を脱がされそうになった時の惨状に近かった。呼吸は荒く、前髪は強風に煽られたかのように乱れている。
その様相から華茄が走って用務員室に入って来たのは一目瞭然で、顔面蒼白で佇んでいる姿から、何か厄介事に巻き込まれているのは容易に予想できた。
「あらあら、どうしたんですか? そんなに大慌てで」
笹木辺が華茄におろおろと近寄ろうとした瞬間に、新たに用務員室に進入する多数の生徒。全部で五人。全てが男子生徒で、血相変えて華茄に近寄ろうとしている事から彼等が華茄を追い回していたのだと千は瞬時に理解する。
「おい、ここは生徒立ち入り禁止だ。とっとと失せろ、ガキども」
今まで華茄しか眼中になかった男子生徒達は千の声に反応し、視線を移動させた。血走っていた瞳が千を見た瞬間に僅かに見開く。けれど、すぐに視線は華茄に戻っていった。男子生徒達の荒い呼吸音が用務員室に卑しく響いている。
「おい、鹿野。お前、俺達のこと教育委員会に言ったのか?」
華茄は臆する事無く、堂々と言い返した。
「私は何も言ってない」
「なら、何で教育委員会の奴が学校に来てんだよ。お前が言ったんじゃねえのかよ」
怒りに震える男達の声に、華茄は嘲る様な笑みを落とした。思い切り鼻で笑い、怨嗟が多分に含んだ視線が男達を射抜く。
「仮に私が言ったとしても言われて困る様なことしたあんた達が悪いんでしょ? 私が悪いみたいな言い方すんな!」
声を張り上げた事に腹を立てたのか、事実を告げられ言い返せない事に怒ったのか、男子生徒達は一様に表情を歪ませた。すぐにでも華茄に殴り掛かるのではないかと思う程に空気は緊迫していき、用務員室は不穏な空気で飽和しようとしていた。
「お前、あんま調子に」
そう言って前に踏み出そうとした男子生徒達目掛けて、千は開いたままだった扉を蹴り飛ばした。高速で戻っていく扉が生徒達を吹き飛ばし、三人の男子生徒は左に、二人の生徒が閉じていく扉に押し出される形で用務員室の外へ吹き飛んでいった。
一瞬で空気を変えた千を誰もが注目した。突き刺さる視線を射殺す様に千は用務員室を一周見回した。
「おい、お前ら。私の言った言葉が聞こえなかったか? ここは生徒立ち入り禁止だ。とっとと失せろ」
「何だテメエは? たかが用務員の分際で」
一人の男子生徒の腕が千の胸倉目掛けて伸びていく。抵抗される事など露ほどにも思っていない手の伸ばし方だった。女など容易く押さえこめる、そう確信しているとさえ思えた。
千は伸びてくる生徒の腕を掴み、勢いよく捻った。男子生徒の目が瞬く間に見開き、食いしばられた歯の向こう側から苦痛に塗れた声が漏れ始める。折れる予兆が聞こえてくるまで千は生徒の腕を捻り続けた。やめろ、痛い、離せ、そんな言葉は一切無視して、千は骨が奏でる音だけに耳を傾けていた。
「たかが用務員の女一人だぞ? さっきまでの威勢はどうした?」
「悪かった! 俺が悪かったから!」
「謝罪なんて求めてねえんだよ。私がなんて言ったか、一言一句言ってみろ。間違えるなよ?」
淡々と温度を持たせずに言った千に、誰もが異形の者を見る様な視線を向けた。いや、華茄だけが別種の視線を向けていた。彼女だけが千を恐れていない、千には華茄がそう映った。
「ここは立ち入り禁止だ。とっとと失せろ……」
「ちゃんと聞こえてるじゃねえか。どうして守らなかった?」
苦痛に歪む顔で千を見上げる男子生徒に、千は笑顔を送った。その笑顔を見て、休息に青褪めていく生徒の表情。歯がガチガチと掻き鳴らされ、全身が微細に振動している。
「それは……」
「それは?」
「……そこの女に急ぎの用があって」
「なら、私が代わりに聞いておいてやるよ。用は?」
男子生徒は千から視線を逸らし、口をきつく閉じた。他の男子生徒も同じような態度を取っている。誰もが千を、華茄を見ない。まるで卑しい何かから目を背ける様に。
「言えない」
「なら、明日から片腕で頑張りな」
千が腕に力を入れようとした瞬間に、千の腕を誰かが掴んだ。細い手。手入れされた爪が視界の端に映る。
「もうやめて下さい」
千の腕を掴んだのは華茄だった。特に驚きもせずに千は素直に手を離し、解放された腕を押さえる生徒を冷酷に見下げた。戦意が完全に喪失した表情。千に視線を向ける事は決してなく、震えた足は千から着実に距離を取ろうと後退っている。
力関係は完全に構築された。千は生徒の心に完全に畏怖する存在として認識された。
「良かったな、助けてもらえて」
「テメエ!」
千に掴み掛かろうとした生徒を、腕を捻られていた生徒が腕で制した。
「やめろ! もう行くぞ、こいつはやばい」
尋常ならざる怯え方をしている生徒を見てか、男子生徒の誰もが動きを止め、すぐさま地面に座り込んでいる生徒を肩に担ぎ、扉に近付いていく。
「後で覚えとけよ」
捨て台詞を吐き、扉のノブに手を伸ばそうとした男子生徒の肩を千は軽く叩いた。振り向いた生徒と視線が重なる。
「それは私の台詞だ」
千は男子生徒の耳元に顔を近付けると、小さな声で囁く様に言った。
「無事に家に帰りたいなら、ちゃんと今日のこと覚えとけよ」
男子生徒三人が同時に息を呑んだのが分かった。極度に緊張しているのか寒い用務員室で冷や汗を流している生徒の一人が他の生徒に早く部屋を出る様に指示を出す。
千は部屋を勢いよく飛び出した生徒の背中を見送り、今度はゆっくりと扉を閉めた。勢いよく蹴り飛ばしたせいか開閉時の動きが悪くなっているが、気にせずに千は笹木辺達へ振り返った。
「大丈夫だったか?」
「それはこっちの台詞ですよ。梅村さんは大丈夫ですか? 怪我はしてませんか?」
千に駆け寄る笹木辺は千の手を握ると、目を忙しなく動かしながら千の全身を隅々まで見た。千は手を半ば強引に引き剥がすと、笹木辺の奥で地面に力無く座り込んでいる華茄に視線を送った。
「私が一方的に暴力を振るっただけだ、問題ない。怪我の心配ならあのガキどもを心配してやんな。それとそっちのお姫様の心配もな」
あ、と背後を振り返った笹木辺が華茄に駆け寄り、「大丈夫?」「大丈夫です」というやり取りがあった後に笹木辺がパイプ椅子を用意し、そこに華茄を座らせた。
笹木辺がロッカーから自前の水筒を取り出し、コップに温かな麦茶を入れ、華茄に差し出した。礼を言った後に華茄は一口だけ麦茶を含み、コップを両手で力強く握った。手が小刻みに震えている。コップに入った麦茶の水面が波立ち、華茄の動揺を如実に表しているようでもあった。
「お前、何で追われてたの?」
臆面もなく言った千を嗜めるように笹木辺が見た。
「梅村さん、もっと優しく」
「別に大丈夫です」
華茄はコップに入った麦茶を見つめたまま、淡々と言った。そして、コップを握る指に力を入れると、意を決したかの様に顔を上げ、千を見つめた。
「あ、あのありがとうございました」
「礼は別にいい。追われてた理由を話せ」
再び窘める様な鋭い視線が千に向くが、千はそれを無視。華茄に焦点を合わせたまま、意識を集中させる。華茄は小さく頷き、一度だけ深呼吸。長い息を吐き終えると、緩やかに口を開いた。
「一週間前にこの学校の生徒が自殺したんです、ビルから飛び降りて。それが理由なのかはハッキリとは分からないんですけど、さっき、教育委員会の職員が学校に来てて」
「疑いようもなくそれが理由だろ。教育委員会の奴等だって、用も無く高校に来たりしねえよ」
「そうですね。それに警察も教育委員会も、自殺事案が発生してからずっと高校には来ていますし、今に始まった事ではないと思うんですけど」
「生徒に配慮して、授業中とかに来てたんじゃねえか? まあそんな事はどうでもいいんだよ。何でそれが、お前が追われる理由に繋がるんだって話だ」
「それは私が、自殺した宍戸瑠璃の友達だったから」
「どういう事……ですか? 友達だと追われるんですか?」
笹木辺が首を傾げ、華茄の前にしゃがみ込んだ。重なりそうになった視線を華茄が故意に外す。口を固く閉ざし、言葉を発しようとしない華茄を見て、笹木辺が困った様に苦笑し、千に助けを求めてか視線を送る。
千は大きく息を吐き、首裏を掻いた。
「……あいつらにとって言われちゃ困る事をお前が知ってた。だから、教育委員会の奴が学校に来てる事を知って、お前が何か告げ口したんじゃねえかって思った馬鹿共がお前を追い回してた、って事だろ?」
華茄の視線が一瞬で千に向き、首を縦に振った。
「その通り、です」
「……何も言ってないんだろ、お前」
「はい。……もう言う必要なくなりましたから」
小声で言った華茄の言葉を訝しむ様に首を傾げた笹木辺には目を向けず、華茄は一瞬だけ千を一瞥した。華茄に着目していなければ分からない程の一瞬。彼女は千を見た。笹木辺は気付いていない。
「鹿野さん、今日はもうお帰りですか?」
これ以上は踏み込んではいけないと思ったのか、笹木辺は話題を変えた。先程までの苦笑は消え、朗らかな笑顔がそこにある。
「は、はい。今日はもう帰るつもりでしたけど。学校に残ってもやる事ないですし」
「では、一緒にご飯を食べに行きましょう。息子以外の若い子と一緒に食べる機会はそうそうあるものじゃありませんから」
「え? で、でも一緒に居たらさっきみたいに追い回されるかも」
千はバケツに入れた水を洗い場に流すと、ついでに手を洗い、作業着で乱雑に手を拭いた。
「大丈夫です。ここにめちゃくちゃ強いボディーガードが居ますから」
「私は清掃員としてここに来てるんだが」
「細かいことはいいじゃないですか。青少年の邪な心を清掃するという事で」
「上手くねえよ。まあだが、今一人で帰ると色々と危険かもしれないからな。さっさと行くぞ、お前らのせいで私達の休憩時間がゴリゴリ削られてる」
「す、すいません」
「冗談だ」
申し訳なさそうに謝罪した華茄の肩を叩き、千は自身のロッカーの扉を開けた。携帯と《青》に持たされた、がま口財布をポケットに入れ、再びロッカーのカギを閉める。それから千が用務員室の出口に向かおうとすると、華茄が驚いたように千を見ている事に気付いた。
自身の全身を咄嗟に見るが、異常は見られない。目立った汚れも無い。驚かれる様な様相をしているとは思えなかった。
「何だ?」
「ガラケー使ってる人ってまだ居たんだって思って」
念のために笹木辺を見ると、彼女はスマートフォンの画面を慣れた手付きでタップしていた。その指捌きは紛れもないスマホ上級者。女子高生の様な素早い文章入力を見せ、メールを返信している様だった。
「ここに居るんだから、居るんだよ。お前らの同級生にも一人くらい居るだろ?」
「いませんけど」
即答だった。一秒よりも速い速度で返事は返された。
「あ、でも校長がガラケーだったかも」
「居るじゃねえか、嘘吐くんじゃねえよ」
「居るって言っても校長、今年で五十八だし。お姉さんってまだ若いですよね? それに財布もがま口って、おばあちゃ」
「二十歳でも使うんだよ、ガラケーもがま口も。お前も二十歳になれば分かる」
「絶対使わないと思います」
冷めた視線が千に向けられ、笹木辺が頬を緩めているのが見える。千は歯を食いしばり、怒りを鎮める事に努めた。相手はたかが高校二年生だ、と自分に言い聞かせる。
「どっちでもいいんだよ、そんな事は。さっさと飯に行くぞ」
「どっちでも良くないです。私は使わないです」
「どっちでもいいって言ってんだろ! さっさと行くぞ」
「はいはい、行きましょう鹿野さん」
笹木辺が華茄の手を引き、千の背中を押すと三人は用務員室を出た。




