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十一

 午前九時。千の初出勤の始業時間は滞りなく訪れた。少しだけ表情に翳りを落とす緋乃に別れを告げ、閑散とした商店街を抜け、千は春宵高校にたどり着いた。校門を潜り、事務所の場所が分からず校内を彷徨っている所を老教師の小谷という男性に案内されて、千は事務所に無事に到着。


 手続きを済ませた後、千は春宵高校の文字が刺繍された作業着を手渡され、事務員の若い女性に用務員用のロッカー室に案内された。新設高という事もあり、ロッカールームは清潔を保っていて、白色のロッカーに塗装が剥がれている様な形跡は見られない。灰色のリノリウムの床も綺麗だと思えた。


 着替えて待つ様に、と事務の女性に言われ、千はロッカーのカギを受け取った。カギにはキーホルダー型の名札が付けられ、そこには七とプリントされたシールが貼られていた。七番のロッカーの前に立ち、千は扉を開けた。上着を放り込み、素早く服を脱ぎ捨てる。新品の作業着に着替え、手首からヘアゴムを外すと、後ろ髪を纏め、素早く結んだ。


 携帯を開き、着信が無い事を確認すると、千は携帯をロッカーに入れ、扉を閉めた。カギを締め、作業着の胸ポケットにしまう。


 施錠がしっかりとなされているのかどうか確認しながら、千は昨日のやり取りを思い出していた。


 慎重になるのもいいけど、慣れない事はしない方がいいわよ。


 私達の仕事は必要な情報を揃えて目標を殺す。ただそれだけ。深読みも深追いもする必要はない。


「私は何を勘違いしてたのやら……」


 梅村千は殺し屋。探偵ではない。求められるのは類稀なる情報収集能力ではなく、定められた目標を正確に殺し、その一切の痕跡も殺すこと。目標も、自分も、殺害に至るまでの軌跡すらも。


 類稀なる抹消能力。殺し屋に必要なのはそれだ。


 そして、千の役割は目標を討つこと。必要な情報を揃えるのも、深読みも深追いも頼りになる相棒に任せておけばいい。千と《青》はずっとそうして仕事をこなしてきた。千が刃を振るい、《青》が筋道を立てる。このやり方が最も効率がよく、最も完璧に近い。


 私はこのままでいいのだ。狂暴な鬼のままで。その手綱を握ってくれている存在が居るから。


「梅村さん、お待たせしました。こちらが同じ用務員の笹木辺さんです。梅村さんより就労期間が長い為、先輩となりますので仕事内容に関しましては、こちらの笹木辺さんに指示を仰いでください。では、私はこれで」


 まるで機械の様な冷淡さで言葉を羅列した事務の女性は自身の横に立つ、身長が短く、小太りの笹木辺という中年の女性に軽く頭を下げると、ロッカー室を出て行った。背筋がピンと張った佇まいで出て行く姿は大手企業に勤める社長秘書の様にも見えた。


「どうも始めまして、笹木辺です。先輩って言っても私も先月に来たばかりだから、そんなに気を遣わなくてもいいですよ。よろしくお願いします」


「梅村だ、よろしく」


 ゆったりとした口調で言った笹木辺は手に持っているバケツとモップを地面に置いた。穏やか笑顔を浮かべる彼女は、掃除用具入れ、と書かれたロッカーの前に立つと、静かに扉を開けた。


「掃除道具は、ここに大体揃ってますから。適当に使ってくださいね」


 中に入っているのはモップや箒、洗剤や石鹸などの掃除用品。新品は一つもなく、どれも何十年も使っているかの様な年季を感じさせる物ばかり。その中から、笹木辺は比較的綺麗なモップと雑巾を千に渡すと、地面に置いたバケツとモップを再び手に持った。


「バケツは私が持つ、貸せ」


「あらあら、威勢がいいですね。美人さんはこのくらい強情じゃないと」


 笹木辺は、敬語を使わず、素っ気ない態度を取る千に不快な態度を示す事無く、穏健とした表情のままロッカー室の扉を開けた。手渡されたバケツにはまだ綺麗な水が半分ほど入っており、笹木辺が持つモップも使用した形跡は見られない。一目で乾いていると分かった。


「さあ、行きましょうか」


 声に導かれるままに千は笹木辺に続いて、部屋を出た。用務員室がある一階は陽の光があまり差し込まない為か、照明が煌々と照らしていても何処か薄暗く、反対側に位置する事務所の灯りが少し眩く感じるほど。


 それから二人は授業中なのか静穏に満ちた、人が居ない廊下を歩き、膨大な本が同じく膨大な量の棚に収められた図書室前を通過し、無駄に広いエントランスを越え、千と笹木辺は広すぎると言っても過言ではない面積を誇るカフェテリアに到着した。


 巨大な窓から差し込む光がカフェテリア全体を照らし、照明を点けなくとも部屋は暖かい光に満ちていた。また、窓の外にもカフェテリアと同様の机が置かれ、日除け用のパラソルまで設置されているなど、オープンテラスも付いている。


 売店まで常設しており、オーブンレンジや電気ポットなどの家電製品も売店のレジ横に置かれていた。


 厨房はオープンキッチンで生徒とのコミュニケーションに重きを置いているのか対面式。厨房には白いコック服を着た、どこからどう見ても料理人らしき人物が鍋を担いでコンロの上に置いていた。


「ではまず、ここの食堂を掃除しちゃいましょう」


「さすが私立高校……。無駄遣いが得意だな」


「ここのオムライスは本当に美味しいんです。後で一緒に食べましょう」


「私達が食堂使って大丈夫なのかよ」


「大丈夫。作業着には春宵高校と書かれていますから。バレませんよ」


 そう言った笹木辺の微笑みにはどこか悪戯めいたものを千は感じていた。淑やかさの中に無邪気さがある、そんな笑顔だ。


 千は口角を上げ、不敵に微笑むと、首を縦に振った。


「なら、さっさと仕事終わらせて、ご馳走にありつくとしようぜ」


「はい、そうしましょう。では、まず雑巾で机を拭いた後に、乾いたモップで床を乾拭きしましょう。その後、水拭きです」


「最初から水拭きじゃ駄目なのかよ?」


「駄目です。埃が地面に溜まった状態で水拭きしても意味ないですから。先に乾拭きです」


「ふーん。掃除にも順序があるんだな」


 ですが、と笹木辺は苦笑しつつ、乾いたモップで床を拭き始めた。


「この校舎は無駄に広いですからね。適当にやる時もあります。要はメリハリですよ」


 少しだけ誇らし気に言う笹木辺に千は呆れた様な笑みを向けた。笹木辺の考え方が千は嫌いではない。適当に物事を考えられるというのは一種の才能だ。全てを真面目に捉え、自分の正義から外れる事を消して許さない者もいる。遊びだと割り切れず、妥協できない者もいる。


 柔軟性に富んでいる人間が私は好きだ。逆に頑固で堅物、融通が利かない人間は面倒くさい。特に他人に絶対的な正義を押し付け、憧憬し、神格化させる奴は。


「メリハリねえ。それで今回はどうするんだ? 適当か? それともちゃんとやるのか?」


「今週はテスト期間中で、生徒が昼前には食堂に来てしまいますから、ささっと済ませてしまいましょう。掃除する場所は他にもたくさんありますから、ここにだけ時間を割けません」


「はいよ」


 千と笹木辺は乾いたモップで表面だけなぞる様な力で乾拭きを素早く終わらせ、二手に分かれて、水拭きを開始した。モップをバケツに突っ込み、水に浸すと、千は水分を落とす事無く、床に勢いよく着地させた。当然、モップが多分に吸っていた水分は床に着地した瞬間に弾け、床には水溜りが瞬く間に形成されていく。


 足下に出来上がった水溜りには見向きもせずに千はモップで床に多量の水を撒き散らしていく。出来上がっていく水溜りの上を千は躊躇なく進み、途方もない広さを持つ食堂を一目見回すと動きを止めた。


 こんな地味なやり方じゃ、日が暮れるな……。


 千はバケツの前にまで戻ると、バケツを足で押し、ひっくり返した。中に入っていた水が勢いよく床を流れていく。その光景を見て、千が白い歯を覗かせているとすぐに笹木辺が千に駆け寄っていった。が、表情は淑やかさに満ちており、怒る気配は一向に見られない。


「あらあら、派手にやっちゃいましたねえ」


「この方が早く終わるだろ?」


「……そうですね。溢してしまった水はどのみち拭かないといけませんから、掃除しながらバケツに戻しましょう、その方が早く終わるかもです」


「終わる終わる。余裕だ」


 千はモップを器用に振るい、故意に溢した水を利用して床を磨いていく。絞りながら床を拭いている笹木辺に対し、千は水を多分に含ませたまま床を拭いている為、モップが新たな水を吸い取る事が出来ず、水溜りはとてつもない速度で範囲を拡大していく。


「梅村さん、モップは絞って」


「なんで? 水拭きだろ?」


「床を洪水させるのを水拭きとは言いません」


 この方が面白いのに、と愚痴を零しながら千はモップを絞った。汚れた水が急速にバケツに溜まっていく。多分に水を含んで重くなっていたモップは鎧を剥がされた戦士の様に軽くなっていく。


 そして、水がボトボトと音を立ててバケツに落ちる音に集中していた時だ。


 千はふと視線を感じて、千は食堂の出入り口に視線を素早く移した。鋭利な刃物の様でもあり、熱い舌で舐め回されたかのような艶めかしい視線。


 それは獰猛な肉食動物が餌を見つけ、茂みに身を隠している時の様な状況に似ている気がした。


 だが、千が振り向いた先には誰も居なかった。人一人おらず、その先にも誰も居ない。あるのは静寂だけ。視線は変わらず感じるのに、そこには誰も居ない。


 纏わりつく視線はそのままに千は静寂に背を向けた。


「どうしました?」


「いや、何でもない」


 千は眼前に広がる水浸しの床に目を向けると、モップで床を磨き始めた。

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