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「どんだけ足速いのよ、あの女」


 赤信号によって立ち止まる事を強制された華茄は膝に手を着き、乱れた呼吸を整えようと躍起になっていた。元々、足が遅い華茄では風の様に素早い速さで駆け抜ける謎の女には追い付けるはずもなく、瞬く間に差は開き、信号という障害によって完全に尾行対象を見失ってしまっていた。


 眼前に広がる商店街を見渡しても、歩いているのは主婦や老人ばかりで若い女性の姿を見つける事は出来ない。額をじんわりと濡らす汗を拭いながら、若い女の様相を思い出す。美しい容姿をした女性だった。同じ女性である華茄が一瞬で見惚れるほどに。だから、一目見れば分かるはずだ。


 だが、追っていた人物を見失ってしまった以上は探しようがない。商店街は基本的には一直線に続くが、抜け道が無い訳ではない。また、商店街を抜けても道は続いている。その先は住宅地が立ち並ぶ住宅街だ。名前も素性も知らない女の居場所など、突き止められる訳がない。


「写真撮っておけばよかった……」


 そうすれば、SNSで拡散する事が出来た、情報を得られた可能性があったのに、と華茄は大きく溜息を吐いた。


 その瞬間に歩行者用の信号機が点滅を開始し、華茄は膝から手を離し、背筋を伸ばした。そして、踵を返そうとした、その時だ。


 誰かが右肩を叩いた。トントン、と二回。柔い力で、とてもゆっくりと。


 爆弾のスイッチを起動したかの様に心臓は鼓動を高速で鳴らし、全身に立った鳥肌と悪寒がさらに鼓動を加速させる。脳内で鳴り続けている警鐘は止む事を知らず、パニックに陥ろうとしている視界の中で、点滅し続けていた信号機は赤から青に移り替わった。


 ゆっくりと背後を振り返る。最初に見えたのは手だ。白く、綺麗な手。男性の手ではない。女性だ。


 尾行が気付かれた……?


 あり得ない話ではない。尾行に気付かれる可能性など度外視で全力疾走していたのだから。気付かれていたとしてもおかしくはない。


 もし、あの女が華茄には予想もつかない程の緊迫した世界で生きているとしたら。私が依頼した仕事など日常茶飯事で、凄惨極まりない悪事の温床なる世界で生き延びてきた異常者だとしたら。私が仕事を依頼した時点で、私の人生の結末は決まっていたのかもしれない。


 呼吸を止める。まだ死ぬ訳にはいかない。この手であいつらの死を見届けるまでは、まだ死ねない。背後を振り返りながら、華茄は教科書が入った重たいスクールバッグを振り回した。


 が、振り回したバッグは容易く受け止められ、旋回した紺色の塊は動きを止める。そして、ようやく華茄は背後に居た人物と視線を交錯させた。


「ちょちょ何するの、華茄ちゃん」


 華茄の肩を叩いたのはやはり女性。紺色の制服を身に包み、胸に二文字のアルファベットと三桁の数字が記入された識別章が刻まれた警察官の証。その人物と視線が重なった瞬間に、華茄は全身の力を抜いた。両足の力すら抜け、華茄はその場に倒れそうになる。咄嗟に身体を支えられた事で、地面に倒れ込むことは無かったが、それでも腰は完全に抜けてしまっていた。


「ちょっと大丈夫、華茄ちゃん。どうしたの?」


「何だ……紗南ちゃんか。緊張して損した」


 華茄の背後に居たのは華茄の父の兄の娘であり、従兄弟の関係に当たる警視庁警察安全課に所属する新米警察官、鹿野紗南だった。太っている訳ではないが、顔の輪郭が丸い彼女は童顔に見られることが多く、時には中学生にも間違えられることがある程に幼い顔をしている。紗南の姿はとても現職の警察官には見えなかった。どうみてもコスプレにしか見えない。


 胸に刻まれた階級章が示す階級は巡査。警察官の階級の中で最も低い階級であるという事は紗南本人から教えてもらった事だ。


「もう、紗南ちゃんじゃないでしょ? 外では鹿野巡査って言ってって何回も言ってるのにー」


「言わないし、恥ずかしい」


「そうじゃなくて、どうしたの? そんなに血相変えて、汗も酷いし」


 華茄は紗南の手を借りて立ち上がると、スカートに付着した砂を手で払った。


「走って帰ってたから」


「え? 華茄ちゃんの家、こっちじゃないよね?」


 あからさまに視線を逸らしつつ、華茄はポケットから携帯を取り出した。確かに華茄の家は商店街とは真逆の方角にある。電車に乗り、二駅分通過する必要もある。つまり、基本的には帰宅中に商店街方面に出向く事は無く、その事は紗南も知っているはずだ。


 どう誤魔化そうか……。


 だが、新米とはいえ警察官。あまり非現実的な誤魔化しや言い訳は逆に深く追及される恐れがある。彼女はそういう人物達を取り締まる側に居るのだから、嘘や偽りには慣れている。


 言葉は慎重に吟味する必要があるだろう。


「ちょっとお母さんにおつかい、頼まれてて」


 携帯の画面と紗南の顔を交互にチラチラと見ながら、華茄は言った。冷静に言おうとして逆に挙動不審になっている事に気付いた時には既に遅く、訝しむ様な視線を紗南は飛ばした。左の耳裏を掻き、逃げる様に紗南から顔を逸らす。


「華茄ちゃんは相変わらず、嘘が下手っちょだね」


「嘘じゃないし」


「私には言えない様な悪いことしてたりしないよね?」


 奥歯を噛み締め、下唇を思い切り噛んだ。言えるわけがない。人殺しの依頼をしたなどとは、口が裂けても言えない。口にしたら最後、この平穏な関係性は終わりを告げ、華茄の復讐は永遠に叶わなくなる。


 関係がどれだけ綻んでもいい。二度と顔を合わせなくなってもいい。社会がどれだけの罵声を私に浴びせようとも、信用が二度と上がらないくらいに失墜しても、邪魔はさせない。


「ちょっと人を探してただけ。紗南ちゃんには関係ないから、仕事戻りなよ」


「どんな人? 探すの手伝おうか?」


 紗南に振り向き、華茄は笑顔を浮かべた。首を縦に振り「大丈夫。同じクラスの子だから」と少しだけ恥ずかし気に小芝居も打つ。けれど、紗南が浮かべる懐疑的な表情は拭い切れない。引き下がる気配も見られない。


「一緒について行こうか? 今、私見回り中だし、少しだけなら一緒に」


 彼女がここまでお節介に、首を突っ込んでくる理由は見当がついていた。華茄が友人を亡くした事は紗南も知っている。自殺した事も、飛び降りる瞬間を目撃した事も、損傷の激しい遺体を誰よりも近くで見た事も、彼女は知っている。現場に最初に駆け付けた警察官の中に彼女も居たから。


「大丈夫だって。私一人で探せるから」


 少し強い口調で華茄は言った。彼女が気遣ってくれているのは分かっている。警察官として、従兄弟として、心配してくれているのは痛いほどに分かっている。だからこそ、巻き込みたくない。夢だった警察官になれた彼女の未来を奪いたくない。


 私の勝手な我が儘に付き合う事は許されない。


「……私もう行くから。紗南ちゃんも早く仕事戻った方がいいよ」


 鞄を肩に担ぎ直し、信号が青であることを確認すると、華茄は紗南に背を向けて横断歩道を渡り始めた。一切、振り向く事なく渡り切り、そのまま商店街へと入っていく。


「遅くなっちゃだめだよ。いつでも連絡してきていいからね」


 大きな声の中に優しさを多分に感じられる声質、声音。紗南の声で一斉に視線が華茄に集まり、少しだけ恥ずかしい気持ちになる。が、悪くはない、と素直に思えた。口角が自然と上がる。


 自分に絡みつくあらゆる視線を無視して、商店街を突き進んでいく華茄ではあったが、もうあの女が見つからないであろうことは漠然と理解していた。それを悔しいとは思うが、血眼になってまで探そうとは思っていなかった。


 自分も役に立てることがあれば、そう思ったから華茄は女の後を追った。だが、運よく女と出会う事が出来たとしても、邪魔だと拒否されるかもしれない。もしかしたら《青》という人物とは全く関係ないのかもしれない。


 だから、依頼した仕事内容を完璧にこなしてくれるのならば、文句はない。


 既に女の姿は無い、商店街を歩きながら、華茄は一つの視線に気付いて、そのまま気付かないフリをして通り過ぎた。

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