八
アパートの階段を三段ずつ跳び越え、千はアパートの共用廊下を駆けた。一度も止まらずに走って帰った影響か呼吸は虫の息で、肩は激しく上下に動いている。冬だというのに額は汗ばみ、服の下も同様に汗が大量に噴き出し、気持ちが悪い感触が常に伝播していた。
冬の冷風が火照った体を良い塩梅で冷まし、千は扉の前で深呼吸を繰り返した。どれだけ深呼吸を繰り返しても呼吸が整わない。平静を保てない。跳ねる心臓は破裂寸前。千はジャケットを脱ぎ、長袖Tシャツの袖で頬を伝う汗を拭うと、袖を肘辺りまで捲った。
そして、細く長い指で千はインターホンのボタンを三回連打した。部屋の中で呼び出し音が鳴っているのが聞こえる。それと同時に足音が扉に近付いてきたのも千は確かに聞いた。
鍵が開いた音が静寂に包まれていた扉前に響き渡る。千は一歩後ろに下がり、壁にもたれ掛かった。目を閉じ、息を大きく吸って、吐く。呼吸音に混ざって聞こえてくる扉が開いた音と並走する様に、千は瞼を上げた。最初に映るのは赤い瞳を真っ赤に腫らしている幼い少女。頬には涙痕が確かに残っているのに無表情のままの緋乃を見て、千は穏やかな笑顔を投げ掛ける。
すると、部屋を飛び出した緋乃は千の足に飛びつき、短い腕でがっしりと千の右足を抱き締めた。二度と離さないと言わんばかりに腕の力が強まり、彼女の熱い吐息がジーンズを通り抜け、伝わってくる。その温もりを微笑ましい気持ちで感じながら、千は小さな頭を柔く撫で回した。
「ちゃんと、泣き止んだな。偉いぞ」
「……頑張った」
足から顔を離し、潤んだ瞳を千に向ける緋乃。その姿が褒美を求める犬の様に見えて、千は思わず緋乃を抱き上げた。子供らしい温かな体温。軽い体重。少しだけ膨らみを帯びた頬。花柄の寝間着から少しだけ覗き見える痣と傷。虐待の証拠。それらも時間と共にあまり目立たなくなってきていた。
千の胸に顔を埋める緋乃は全体重を千に預け、両手で千のTシャツを掴むと少しだけ眉を顰めた。
「……千ちゃん、汗臭い」
「かもな」
千は自嘲気味に笑い、扉に向かって手を伸ばした。ドアノブを回し、扉を開ける。扉を開くと、壁にもたれ掛かり、苦笑いしている《青》が千と抱えられている緋乃を見て、さらに苦笑を強めた。
千は手に持ったダウンジャケットを《青》に手渡し、勝手に閉じた扉の鍵を閉める。
「ごめんなさいね、千ちゃん」
「別にいいさ。それよりも汗流したいから緋乃、頼む」
「緋乃、あっちでココアでも一緒に飲みましょ。ね?」
「……いや」
千の胸に顔を埋め、掴んだ服を一向に離そうとしない緋乃を《青》が引き剥がそうとするが、緋乃は小さな頭を小刻みに横に振り続けるだけで、一向に離れようとはしない。《青》も本気で引き剥がす訳にもいかず、困り顔で千を見た。
「緋乃、風呂に入ったらすぐに部屋に戻る。だから、少しだけ《青》と一緒に居てくれるか?」
「……いや」
「ちょっと、地味に傷付くんですけど」
「少しだけだ。お前がココア飲み終わる前には戻る。だから、《青》と」
「いや」
「ちょっと、千ちゃん。発言は慎重に。私が死んじゃう」
娘に同じ時を共有する事を拒否された《青》は、見るからに意気消沈し、目尻に涙を浮かべながら視線を落とした。
どうするべきか、と千は腕に抱えた緋乃を抱え直した。娘からの拒否は鋭利な刃物を心臓に突き刺される痛みに等しい。不用意に案を出せば、《青》の身が持たない。鬱陶しい程にベソを掻くオネエが生まれかねない。次に出す問いは慎重になる必要があるだろう。
千と緋乃、そして《青》の三人は一先ず脱衣所へと移動し、洗面台の前まで行くと立ち止まった。鏡に映っている自分に自然と目が向く。走ったせいか乱れた髪が汗によって頬に張り付き、千に抱き着いている緋乃の頬には涙痕がまだハッキリと残されていた。
娘の頬には涙痕が。父親の目尻には涙が。
千は大きな溜息を吐き、《青》の腕を肘で軽く突き、緋乃の背中を柔く叩いた。
「あー、久し振りに一緒に入るか? 風呂。シャワーしか浴びねえけど」
緋乃の顔が瞬時に上がり、《青》が素早く千に振り向いた。
「……入る」
「え? 私も?」
「当たり前だろ。久し振りに背中流してくれよ」
《青》は驚いたように千を見ては何度も瞬いた。何度目か分からない瞬きの後に《青》の視線は表情こそ変わっていないが、少しだけ陽気に千を見つめる緋乃に移ろいだ。それを見た数秒後、《青》は目を細め、首を横に振った。
「有り難い提案だけど、私は止めておくわ。こんな狭い風呂に三人は少しばか窮屈だし」
「そうか。じゃあ、ココアでも入れて待っててくれよ」
「はいはい。緋乃に変なことしないでよ。間違っても、明日から私とは一緒にお風呂入りたくないなんて事が起きないようにしてよね」
「しねえよ。どんな風呂の入り方したらそんな風になるんだよ」
「じゃあ、着替え持って、置いておくから」
「ああ、ありがとう」
脱衣所から嬉々として出て行く《青》を見送った後に、千はようやく服から手を離した緋乃を床に下ろした。緋乃の服を少しばかり強引に脱がし、素直に脱がされるままになっている緋乃を見て、千は表情を緩めた。自身も豪快にTシャツを脱ぎ捨て、下着も慣れた手付きで外していく。
「先に行ってろ。すぐ行くから」
全裸になった緋乃は千をじっと見上げ、その場から微動だにしなくなっていた。何を言いたいのか、すぐに理解する。怖いのだろう。目を離した隙に千が再び居なくなるのではないか、と。
「分かったよ。すぐに脱ぐからちょっと待ってろ」
緋乃はこくん、と頭を振り、千が服を脱ぎ終わるまで、忠犬の様にその場から一歩も動かなかった。
それから千が服を脱ぎ終えた事を確認した緋乃は千に手を伸ばし、抱っこを要求。千は溜息を吐きながらも素直に要求を呑んだ。肌と肌が密着し、互いの体温が直に伝わり合う。緋乃が吐いた息が丁度首筋に当たり、千は体を小刻みに震わせた。
扉を足で蹴り飛ばすかのような勢いで開き、千達は脱衣所からバスルームへと移動した。シャワーから水を出し、温度を調節する為にハンドルを回す。シャワーから出る水を手で触れ、温度を確認。最初は殺人的な水の冷たさに苦悶していた千だが、十秒ほどでシャワーは少し熱いくらいの温水に変わった。
「さ、今日は特別に私が洗ってやるから、座れ座れ」
バスチェアに緋乃を座らせ、千は右側からシャワーを右肩から徐々に全身に当てていった。
「頭濡らすぞ。目つぶれ」
緋乃が目を閉じた事を確認した後に、千は躊躇することなくシャワーを頭に当てた。十分に濡れた事を確認し、シャンプーとリンスを順序良くこなしていく。そして、リンスが完全に流した事を確認し、ボディタオルで緋乃の全身を弱い力でこすっていく。
途中から緋乃本人が自分で全身を洗っていたが、ぎこちない洗い方を見て、千がすぐに交替した。小さな体にシャワーを掛けながら、千は緋乃の視界に入る場所に腰を下ろした。
「いいか、緋乃。私も《青》も、時にはお前と一緒に居られない時がある。それは分かるか?」
緋乃は無言で頷いた。シャワーから放出される水が床に勢いよく落下する音が少しだけ大きく聞こえる。
「今日はたまたま帰って来ることができたが、帰って来れない時も当然ある。それも分かるか?」
緋乃はまたも無言で頷いた。無表情で小さく頷いた。小さな手が静かに握られたのが視界に映る。
「でもな、緋乃。すぐに帰って来ることは出来なくても、私達は必ずお前の所に帰ってくる。私達はお前の前から絶対に消えたりはしない」
必ず、絶対に、そんな無責任な言葉を使った事を、口にした後に後悔した。必ず帰って来る、そんな未来を保証できないと知っているのに。仕事が絶対に成功する訳では無い事を、身を以って知っているのに。
いつまで緋乃の側に居続ける事が出来るのか、千達ですら分からないのに。
未来を確定する様な言葉を使うべきでは無かった。でも、分かっていても、言わなくてはならないと思った。緋乃の為に、自分の為に。
放たれた言葉は想いを生み、それはやがて信念に変わる。
必ず帰って来よう、絶対に生き残ってやる、そんな強い意思を生む。
「……約束」
千の眼前に突き出されたのは可愛らしい小指。千や《青》の指とは違う短く細い指。その突き出された指が示す意味を考える事は無く、千は自然と右手の小指を緋乃の小指に絡めた。
「……約束だ。お前が泣いてたら必ず助けに行ってやる。だから、安心しろ。な?」
絡めていた指を離し、濡れている緋乃の頭を千は撫でた。喉を撫でられている猫の様に目を細めている緋乃を見て、千は表情を緩ませた。少しだけ目が細まり、口角が僅かに上がる。千も気付いていない程に自然に浮かんだ微笑み。
真っ直ぐに千が微笑んでいるのを捉えた緋乃は呆けた様に口を半開きにし、いつもはぼんやりと気怠そうにしている瞳が微かに驚愕に染まる。西洋人形の様に真っ白な頬はほんのりと朱に染まった。
けれど、その呆然も長くは続かず、前髪から滴り落ちる水滴が手の甲に落下した瞬間に我に返った緋乃は息を呑み、視線を右往左往した後に、素早く千に背を向けた。万引きしようとしている中学生の様な挙動不審さだった。
「……私も約束、する。ずっと、千ちゃん達と一緒に居たい、から、もう泣かない」
千に背を向けたまま、訥々と一生懸命に考えながら言った様子の緋乃は小さな肩を小刻みに震わせていた。だが、その震えは悲しみによるものではないとすぐに分かった。朱に染まった耳。地の肌が白いせいか、朱に染まった部分がより浮き彫りになる。
「極端だな……まあでも、そっか。お前がそう決めたんならそれでいいんじゃないか?」
千はシャワーで髪を洗いながら言った。乱れていた髪が一瞬で濡れ、水を吸った重みで地面に向かって伸びていく。千は濡れた前髪を掻き上げながら、シャンプーのボトルに手を伸ばした。
「でもまあ、たまになら泣いてもいいと思うぞ、私達の前でくらいなら。子供は泣いて何ぼな生き物だからな」
泡立てたシャンプーを豪快に髪に絡ませながら、千は自身に向いた緋乃の視線から目を逸らした。すぐにシャワーで泡を流し、次々と流れ作業の様に全身を洗っていく。体が火照っているかの様に熱いのは温水を浴びているからだ、と心の中で言い訳をしつつ、千はハンドルを回し、シャワーを止めた。
「出るぞ、緋乃。ココアが冷める前にな」




