六
「お前の父親はしょうもねえ奴だな」
「そうなんですよ、若くて綺麗なら誰彼構わず声かけるし、週三で風俗行くしで毎月うちの家計は火の車ですよ」
千の少し後ろを歩く樹は本当に困った様に溜息と共にそんな愚痴を零した。
「お前も一緒に行って童貞捨ててくれば?」
「嫌ですよ。お金がもったいないです」
「高校生のくせに硬派だねえ」
「俺には夢があるんです。夢が叶うまでは童貞でも別に良いんですよ。おかしいですか?」
少し苛立った様に樹は言った。千は体を少しだけ後ろに向け、不貞腐れた様に眉根を寄せている樹を一瞥した。呆れたように溜息を吐く。マフラーを勢いよく引っ張り、千は樹を自身の隣を強引に歩かせた。
「おかしくはねえよ。童貞だ、処女だ、やっただ、やってないだなんて下らない事を過敏に気にしてんのはお前ら学生くらいだ。そんなしょうもない事で人の価値を決めつけるのもな」
隣を歩く樹は千を控えめに見上げながら、静黙していた。
「童貞なんかいつでも捨てられるんだ。他にやりたい事がもう定まってんなら、夢に向かって突き進んでみな。たった一度の童貞卒業よりも得られるものは大きいと思うぜ?」
「お姉さん……」
感慨深く千を見つめる樹を冷たく見下ろし、千はジャケットのポケットに両手を突っ込んだ。
「簡単な奴だな、お前。こんな綺麗事で簡単に絆されやがって」
「は?」
樹の目に宿っていた活力が、感慨が急速に死んでいく。
「テメエの童貞事情なんかどうでもいいっつーの。夢でも何でも勝手に追えよ」
「お姉さんが童貞童貞言うから、話し合わせてるのに……。それとさっきも言いましたけど、あんまり大きな声で童貞童貞言わないで」
「はいはい、童貞童貞」
「言うなっつってんだろ」
「じゃあ一つ聞きたい事があるんだけどさ。さっき敦久にも聞いたがお前の学校に宍戸瑠璃って奴、居ただろ?」
父親同様に視線が下がり、表情からは生気が消失していく。猿でも分かるほどに分かり易い反応。クラスメイトが自殺した程度ならこんな陰鬱とした表情にはならない。会話をした事も無い他人を悼むほど、人は人情的ではない。イジメの内情を少しでも知ってしまったからこそ、こんな表情は生まれるのだ。もしくは関わっていたか。
「……お姉さん探偵か何か?」
「親父と同じこと聞くんじゃねえよ。明日から働く場所に変な噂が立ってたら気になるだろ?」
咄嗟に思い付いた誤魔化しにしては完璧だろう、と千は不敵に笑っていると、樹が驚いたように目を見開いていた。
「お姉さん、春高で働くの?」
春宵高校、略して春高。千は頭のメモの片隅に記録を取りながら、首を掻いた。
「用務員としてな。まあ私のことはいいんだよ。イジメがあったんだろ? お前の学校」
「え? あ、ああ、うん。学校は調査中って言って必死に誤魔化してるけどね。でも、イジメはあったよ。知らないのは教師と学校だけじゃないかな?」
「ああ、敦久もなんか言ってたな。生徒にだけバレたとか。って事はお前も知ってるんだよな? 宍戸瑠璃がやらされてたこと」
知っているに決まっている。敦久が話した情報は全て息子から聞いた情報だ。それをそのまま千に話しているに過ぎない。
樹はコートのポケットからスマートフォンを取り出すとロックを解除し、画面を数回押した。トントン、と心地よいタップ音が隣から聞こえてくる。そして、タップ音が聞こえなくなった数秒後に樹は千のジャケットを柔い力で引っ張った。
「これ見て」
スマートフォンを手渡された千は画面に映っている画像を見て、自然と瞳から熱が消えていくのを感じていた。画面に映る女の手足に力が入っているのが分かる。息筋が張っており、顔に力が入っているのもすぐに分かった。覆い被る男に股を開き、それを受け入れるしかない状況に苦悶してか、目尻には薄っすらと涙が溜まり、光を失った瞳は虚空を見つめていた。
スマートフォンの画面には一枚の写真が表示されていた。裸の若い男女がベッドの上で濃密に絡み合う状況が鮮明に映し出されていた。男の顔はモザイク処理が施されている一方で、女の顔には何の処理も施されてはおらず、顔も、ベッドの下に落ちている制服も、不自然に手前に置かれた生徒証も赤裸々に映っている。
依頼書に載っていた女と画像の女の顔が一致する。
写真の真ん中に居るのは間違いない。宍戸瑠璃だ。
「この画像に映ってるのが宍戸瑠璃か?」
「うん。実はこれだけじゃないんだ。一月前から写真は送られて来てて」
商店街を抜け、信号で止まった千は同じく足を止めた樹に携帯を返し、新たな画像が表示された携帯を受け取った。
最初に見せられた画像は二週間前に送られてきたもの。差出人は不明。次に表示されたのは一月前。こちらも差出人不明。宍戸瑠璃が映っているのは先程と変わらない。当然ながら、先程とは映っている男性は違った。先程の若い男とは違い、典型的なメタボ体型で、右腕に肘から肩にかけて大きな一文字傷があった。
「こんなデブに抱かれるくらいなら、死んだ方がマシだな」
千は口角だけを上げながら、淡々と言った。感情が急速に希薄になっていく。怒りすらも抱かない。心に滲み込んでいたあらゆる感情の色が抜け、透明になっていくのを感じていた。
「……そうだね。知らない人に抱かれるってどんな感じなんだろうね」
千は樹に携帯を返し、ジャケットのポケットから二つ折りのガラパゴス携帯、通称ガラケーを取り出すと、画面を開いた。メールボタンを押し、自身のアドレスを表示する。
「知るか。聞きたいなら死んで聞いてこい。おい、その画像、私のケータイに送ってくれ」
苦渋の表情を浮かべる樹は黙って千のケータイを受け取り、千のメールアドレスを自身のスマートフォンに打ち込み始めた。慣れた手つきでフリック操作を行い、すぐに樹は画像を添付したメールを千の携帯に送信した。千の携帯が小刻みに震え始める。
「はい、送信したよ」
「おお、ありがとな」
千は携帯を受け取ると送られたメールを確認し、画像が正常に表示できることを確認するとジャケットのポケットに無造作に放り込んだ。その後、二人は信号が変わるまで待ち、交通量の多い道路を無言で見つめた。ジャケットに手を突っ込み、冷淡に突っ立っている千に対し、樹はどこかそわそわして千に視線を送っていた。
他に聞くべき事はあったか、と千は脳内をフル稼働し、問いを絞り出した。
「なあ、イジメの主犯はまだ分かってないんだってな。お前何か知ってるか?」
大雑把かつ適当な物言いに樹は訝しむ様に千を見つつも、口を開いた。車の走行音に紛れて男性にしてはやや高い声が届く。
「メールの送り主を誰も知らないっていうのもあるんだろうけど、皆責任から逃げたいんだと思うよ。このメールを見て、実際に関係を迫った先輩は多いし、陰で悪口言ってた奴も多いから」
「そんな簡単な理由かねえ。で? お前は?」
「え?」
歩行者用信号機が点滅し、千は歩き始める準備を開始した。赤色の光が点滅する速度が何故だか遅く感じる。思考を加速させているからか。それとも、気乗りしていなかった気持ちが、さらに気落ちしているからなのか。
「お前はその糞みたいなメールを見てどうしたんだ?」
「俺は……」
樹が全てを言い切る前に、千は信号が確かに変わったのを見て、前に歩き始めた。背後から多くの足音に混ざって、声は聞こえてきた。弱弱しく、覇気の感じられない情けない声が。
「遠くから何も言わずに見てただけだよ」
「さすがはヘタレ童貞。堂々たるヘタレっぷりだ」
「それ関係ありますか?」
千は樹の問いには答えることなく、信号を渡り切った。それ以降、二人はとくに会話をする事無く、真っ直ぐに歩行者専用道路を歩き続けた。ジョギングしている青年やベビーカーを押す母親とすれ違うも千は特に興味を示す事無く、既に視界の端に映っている校舎の姿に視線を向けた。
片道二車線の合計四車線の道路を挟んだ千達の反対側にあるのが春宵高校だろうか。私立高校に相応しい広大な敷地に建つ四階建ての白い校舎。新設だからか、遠目からでも綺麗な様相を保っているのが分かる。近隣には住宅街が立ち並んではいるが、真っ先に焦点が校舎へと向く。
それ程までに校舎全体が街並みに溶け込めていなかった。異物。千には春宵高校がそう映った。
そして、春宵高校の前。道路を挟み、信号を渡った先に存在する商業ビルに千の視線は自然と移ろいだ。
あのビルか……。
春宵高校の眼前に建つ商業ビル。高さ三十メートルのビルの屋上から宍戸瑠璃は飛び降り、自殺した。救急車と警察が到着した時点で宍戸瑠璃は蘇生不可能と判断され、監察医務院に搬送。検視の結果、事件性はないと判断され、遺体は遺族の下へ引き渡された。その後、宍戸瑠璃は火葬され、葬儀も終わっているという。
飛び降りた直後の一般人が撮影した写真も依頼書には乗っていたが、文字通り血の海だった。頭部は破損し、肉体は軟体生物の様に人では有り得ない体勢で地面に転がっていた。考えなくとも分かる。即死であったことは。
千は無言のまま、春宵高校の前に存在する信号で再び歩みを止めた。だが、千の視線は高校ではなく宍戸瑠璃が飛び降りたビルを見上げ、地上から屋上までの高さを再確認していた。高い。屋上までの距離が遠い。網柵を越えた僅かな足場に立ち、地上を見下ろし、宍戸瑠璃は飛び降りた。
飛び降り自殺の死体など腐るほどに見てきた。高所から飛び降りる事を強要させたこともある。けれど、そこに一切の感情を乗せる事は無かった。乗せない術を知っていた。無情に、冷酷なまでに非情に徹する事が出来ていた。
だというのに、何故だ。何故、心はこんなにも揺れ動く。
動揺しているのか? 見知らぬガキがたかだか一人死んだくらいで。
分からない……。
千は奥歯を噛み締めながら、口角を無理矢理に上げた。視線が鋭くなっているのが分かる。心の内側から溢れる怒りが抑えきれない。心を揺らす何かが分からない事に対して、苛立つのを止められない。
「お姉さん?」
樹の震えた声によって、千は信号が青に変わっている事に気付いた。ビルの前に並べられた供え物のペットボトルと菓子パンが入った袋が風に煽られて右に倒れる。心配する様な視線を千に向けている樹に、一瞥する事も無く千は歩き始めた。
「ここが春宵高校か?」
横断歩道を渡り切ると同時に千は言った。樹は小さく首を縦に振る。
「うん、そうだけど。中までついて行った方がいい?」
「いや、いい。ありがとな。お前はさっさと帰れ、邪魔だ」
虫を払う様に手をひらひらと振ると、樹は眉根を寄せて、千を見た。歩行者用の信号機が点滅を開始する。
「テスト期間の貴重な時間を割いて、道案内したっていうのに」
「だから、礼は言っただろ。もう帰っていいぞ」
「言われなくても帰るわ。勉強しなくちゃいけないから」
「おお、頑張れよ。頑張ってHow to SEXしろよ」
「しつこいよ。じゃあ俺はもう帰るから」
点滅中の信号を駆け抜け、樹は帰路についた。歩く速度が明らかに早く、息筋が浮かんでいるのは一目瞭然だった。
「からかいすぎたか」
千は歩き去る樹を目で追うことなく、携帯を取り出し、時刻を確認。時刻は十一時三十分を過ぎた所で、あと十秒ほどで三十一分になろうとしていた。千は携帯の着信履歴を開きながら、校門を潜ると《青》という名前で埋め尽くされた着信履歴から一番上の《青》を選択し、発信ボタンを押した。
呼び出し音が鳴り始めた携帯を右耳に当てながら、千は周囲を見渡した。
校門を入ってすぐに巨大な円形の花壇が姿を見せ、色取り取りの花が風に揺れては芳しい香りを周囲に運んでいる。その花壇の奥に校舎は建っており、右側には誰も居ない閑散としたグラウンドが、左側には二階建ての体育館と思わしき建築物が存在した。
テスト期間中という事も会ってか、見渡す限り敷地内に生徒は見つからず、人の声一つ聞こえない。
赤茶色のレンガ造りの花壇を沿う様に歩き、大量に咲いているシクラメンをイタズラに引き千切っていると、右耳に当てていた携帯電話から鼻を啜った様な音がスピーカーから漏れ聞こえていた。それは聞き様によっては泣き声の様にも聞こえた。
千は携帯の画面を見て、着信中になっている事を確認。千の携帯と繋がっているのは確かに《青》である事もしっかりと確かめる。そして、間違いが無い事を確認すると、すぐに右耳に携帯を当て直した。
「あ、おい《青》。少し聞きたい事があるんだけど、今大丈夫か?」
「……千ちゃん。今どこ?」
小さな声で紡がれた声は震え、呼吸は荒い。鼻を啜る音は回数を増し、携帯から漏れた肉声は明らかに男性の声ではなかった。
千もよく知っている少女の声。間違えるはずもない。緋乃の声を聞き間違えるはずがない。
「緋乃か? 悪い、《青》に代わってくれるか」
しばらく待っても、緋乃の荒い吐息が途絶える事は無く、吐息は徐々に大きくなっていく。それから無言で十秒ほど待っていると、ほとんど泣き声の様な脆弱な声が携帯のスピーカーを揺らした。
「…………千ちゃん、どこに、行っちゃったの?」
「今は仕事で……」
そこまで言い掛けて、千は口を閉じた。緋乃の荒い呼吸音を聞いて、震えた声を聞いて、自分でも不思議に思う程に、自然と口は閉じた。すぐに頭を回転させる。
千がこの学校に出向こうと思った理由は、依頼書に書かれていた内容と周囲の認識の差が著しく開いていないかどうか、確かめる為だった。依頼書に書かれていた情報が間違っていないか確認しに来た、と言ってもいい。
《青》が収集した情報を信頼はしている。が、完全に信用するのは危険だ、というのが千の考えだった。人間は失敗する。失敗しない人間などいない。誤情報を《青》が掴む可能性は零ではない、という事を千は知っている。
だが、依頼書に書かれていた情報の裏付けは完全にではないが、一応取れた。宍戸瑠璃が死亡した直接の原因はイジメであったこと。イジメの内容が同級生に援助交際を強要され、その事実が全校生徒にのみ広められたことや、上級生からの肉体関係を拒否できない状況に貶められたことも新たに知る事が出来た。
イジメの主犯を誰も知らない理由は不可解だが、メールの送信者が不明な事と、送信された画像を利用して、新たなイジメを派生させた者が居るのなら、情報は漏洩しにくいのかもしれない。高校生に徹底した情報漏洩対策が行えるのならば、イジメがあった事実を無かったことにするのも不可能ではないだろう。
高校側が、イジメが存在した事実を把握しているのかは分からないが、調査中と嘯いている裏側にどういう意図があるのか調べる必要もあるのかもしれない。
だが、それを調べるのは今日じゃなくてもいい。最悪、調べなくてもいい。千は探偵ではないから。本来なら、こんなことをする必要は無いのだから。
千は校舎に向かっていた足を止め、踵を返した。校舎に背を向け、風に揺れる寂寥感溢れる花々が美しい花壇に目を向けた。
「緋乃。すぐに帰るって《青》に伝えてくれるか?」
「……ちゃんと帰ってくる?」
大きく鼻を啜った後に、緋乃は縋る様に声を出した。そんな風に千には聞こえた。
「当たり前だろ? すぐに帰るから、私が帰るまでに泣き止んどけよ。約束できるか?」
「……うん。約束できる」
緋乃が小さな手で携帯を耳に当て、首を縦に振っている姿が容易に想像できるくらいには喜びを前面に表した返事だった。ぼんやりとした口調ではあるが、緋乃も出会った頃に比べれば感情を表面化する様になったように思う、と千は瞑目し、口角を人知れず上げた。
「良い子だ。じゃあ、《青》に伝言よろしくな」
「……分かった。前田に伝える」
千は携帯をポケットにしまうと、全速力で校門を抜け、高校を出た。運良く変わった信号を駆け抜け、ジョギングしている青年を追い抜き、昼時になり、人が多くなった商店街を千は人目を気にする事無く走り去っていった。




