五
「言われなくても見にいくだけだっつーの。心配性も度が過ぎると害悪だな」
千は一人愚痴りながら、まだ見慣れない街並みに目を向けた。《大蛇》の一件を機にアパートを引き払い、隣町に引っ越した千達。だが、新たな家具の新調やその運搬、家具の組立などで、ゆっくりと街に出向く時間はあまり取れなかった。
また、緋乃の瞳は赤い果実の様に美しい緋色。類稀な美しさを誇る虹彩は日本人どころか世界中どこを探しても存在しない異端の瞳。迂闊に出歩けば、その異端さから注目の的になりかねない。どこで監視の目を張っているのか分からない国の包囲網に引っ掛かる可能性が多分にある。
「でも、ずっと家の中ってのもな……」
行動範囲が決して広いとは言えないアパートの一室だけというのは緋乃の精神衛生上あまり得策とは言えないだろう。緋乃が外の世界を知らず、限られた空間でのみ生活をしてきた箱入り娘ならば、限られた行動範囲でも問題はないだろうが、緋乃は違う。
彼女は元々、千達とは別の場所で暮らし、生きてきた。《白》と行動を共にしていた時期もある事を示唆する言動もあった。今は記憶を失ってはいるが、緋乃は外の世界を、千達を通して知った。
大空の広さを知った鳥は、鳥籠に居続ける事は出来ない。必ず果ての無い蒼穹を羽ばたく事を望む。千がそうであるように。今もそう望んでいるようにに。
「そこの綺麗なお姉さん。お肉が安いよー」
黙考して歩いていたせいか、千は掛けられた声に対して素早く反応した。俯いていた頭を素早く上げ、声の方向へと視線を向ける。そこには様々な種類の肉が入ったシンプルな外観のガラスケースの上に手を着いて、笑顔で千を手招きする小太りの中年男性の姿があった。
気付けば千は黙々と商店街に進入していたようだった。千に声を掛けたのは精肉店を営んでいる主人で、視線を奥に伸ばせば、野菜や魚、和菓子やパンなどをそれぞれ売っている主人が顔を出しては主婦達と楽し気に会話を交わしている。
千は精肉店の主人に近寄っていくと、表情を変化させる事なく肉屋の主人に真っ直ぐに視線を向けた。
「悪い。今持ち合わせがないんだ。それよりも一つ聞きたい事があるんだが、少しいいか?」
「あ、ああ。今は別に大丈夫だけど。なんだい? お姉さん探偵か何かなのかい?」
少しだけ楽し気に、小声で言った肉屋の主人は前傾視線で顔を千に近付けた。千は内心でほくそ笑むと、目的地の名を思い出しながら言った。
「いや、少し道を聞きたいだけだ。春宵高校って所に行きたいんだが」
千は首筋を擦りながら、肉屋の主人の表情を窺った。春宵高校というワードを言った瞬間に変化した主人の表情。先程までは高揚感で緩い顔をしていたというのに、一瞬で表情が悲嘆に暮れていく。鬱陶しいほどの哀愁が漂っていく。
「どうした? あんたも分かんないなら、別の奴に」
千の声にハッとなった主人は、明らかに作った笑顔を浮かべ、首裏を擦りながら言った。
「あ、ああいや、春宵高校か。春宵高校なら商店街をこのまま真っ直ぐ進んでいけば、見えてくるよ。お姉さんが何の用事で行くのか知らないけど、今は相手にしてもらえないかもしれないよ?」
「何で? 何かあったのか?」
千が白々しく言うと、主人はガラスケースの前に置いてあった丸椅子に座り、地面に視線を落とした。
「もう一週間になるのかねえ。春宵高校の生徒さんが一人、自殺したんだよ。高校の近くのビルから飛び降りてね、即死だったそうだよ」
千は現在位置からでは見えるはずのない高校とビルがある方角へと視線を向けた。人が死んだ。一つの若い命が失われた。それだけで世界は少し温度を失った様に思えた。背筋に奔る悪寒。千は表情を凝らせたまま、灰色に塗り替わりつつある空を見上げた。
「……自殺か。原因は?」
主人は千に手招きをし、千は主人に顔を近付けた。周囲を確認した後に、主人は手で筒を作り、そこに小さな声を通し始めた。
「うちの馬鹿息子も春宵高校に通ってるんだけどね。どうやら息子が言うには、イジメが原因らしいんだ。かなり酷いイジメだったみたいだよ」
「酷いってどういう風に酷いんだよ」
「援助交際ってあるだろ? その自殺した生徒さん、毎日援助交際させられてたんだと。で、何故かそれが生徒達にだけバレて」
生徒『達』にだけ情報が漏洩した。考えなくても分かる。意図的に情報は漏れた。漏らされた。イジメの首謀者が依頼書に載っていた三人なら、情報を漏らしたのはその三人だろう。
また、何故生徒にだけ情報が漏れたのかも、すぐに理解する。何故か、などとは思わない。人権の失墜。発言権の剥奪。上下関係の確立。つまり、生徒全体をイジメに巻き込むための布石。数の暴力には抗う事は出来ない。それがどれだけの力を持った人間だったとしても。
ましてや、それが性欲を持て余し、責任感も希薄、善悪の基準が最下層に位置する学生ともなれば、行動に移す者は間違いなく存在する。
「無援助交際が始まった、と」
「察しがいいね、お姉さん。俺も息子に聞いただけだから、本当かどうかは分かんないけど、上級生に強姦紛いの肉体関係も強要されてたんだとよ」
「あんたの所の息子、随分詳しいな。その乱交パーティに参加でもしてたのか?」
怒るかもしれない、と思いつつも千は浮かんだ言葉をそのまま声に変換した。もし、息子が強姦紛いの乱交に関わっているのならば、普通は黙秘しようとする。息子の不祥事を率先して公にしようとする親は居ない。
誤魔化すために怒り、声を荒げるか。それとも不細工な愛想笑いを浮かべ、話を濁すか。
「どうだろうねえ、うちの息子はヘタレな上に自尊心だけは一人前だからなあ。きっと今も童貞だよ、ヘタレ童貞。どうだいお姉さん、息子の童貞貰っちゃくれないかい?」
千は主人の息子に対する酷評に静かに笑い声を上げた。すると、主人も朗らかに笑みを浮かべ、陰鬱とした空気を二つの笑声が中和していくのを千は感じていた。
「童貞捨てたいだけなら風俗にでも行きな。じゃあ、あと一つだけ聞いていいか?」
「おお、いいよ。何でも聞いてくれ」
「イジメの主犯はどうなったんだよ? 被害者が自殺したって事はそれなりに大事になったんだろ? しかも、援助交際を強要してたなら、罪に問われてもおかしくはない。しょっぴかれたか?」
「いや、確か主犯は分かってないんじゃなかったかな。今も調査中って聞いたよ、俺は」
「分かってない? どうしてだ?」
千は思わず瞠若した。《青》の依頼書には確かにイジメの主犯格三人の情報が載せられていた。名前も素顔も分かっている。イジメの内容に関しても簡易的にだが、記されてはいた。だというのに、何故今も調査中という名目になっているのか。
分かっているのに世に公表できない理由があるのか、それとも本当にまだ調査中なのか。
「どうしてって言われてもねえ。俺にはさっぱり。お、さっきまで噂されてた童貞息子が帰って来やがったよ」
ほれほれ、と主人が指差す方向を見てみれば、ブレザーの上に学校指定のコートを羽織り、首には茶色のマフラー。両手には手袋をした完全防寒の高校生が千達の方向に向かって真っ直ぐに歩いていた。ツンツンとした直毛の黒い髪が風に靡き、その度に冬の寒気に顔を顰めていた。
「ん? どこかで……」
「おや、知り合いかい?」
数秒間、黙考した後に、千は首を横に振った。
「いや、気のせいだ。この街に引っ越してきて間もないし、あんなパッとしない奴、知らん」
「はは、お姉さんはズバズバ言うねえ。うちの上さんを見てるみたいだよ。恥を承知で言うがお姉さん、本当に息子の童貞をもらっちゃくれないかい?」
親父がそう言った瞬間に童貞の息子が全速力で走り出した。青ざめた顔は痛々しく、浮かんだ脂汗は息子童貞説を真実に一歩近付ける。
「おい、糞親父! 客に何言ってんだよ!」
「おかえり、樹。ほら、大事なお客さんなんだからちゃんと挨拶」
千の方をチラチラと鬱陶しいほどに目配せしながら、樹は頭を軽く下げた。
「どうも、高原樹って言います、十七歳です」
「何でお客さんに自分の自己紹介してるんだよ、馬鹿息子。いらっしゃいませだけでいいっての。あ、俺は高原敦久、四十五歳」
「親子で自己紹介すんな、めんどくさい」
千は蔑む様に二人を見た。その視線を受けてどこか嬉しそうな敦久と樹は互いに目が合うと表情を真面目なものへと変えた。
それを見て、千は踵を返し、二人に背を向けた
「ま、色々と話聞けて助かったよ、ありがとさん」
「もう行くのかい? 美人が店の前に居てくれると自然と注目されるから助かるんだけど」
「テメエの上さんでも店の前に置いとけ。私はもう行くが、おい、そこの童貞。春宵高校まで私を案内しろ」
「確かに童貞ですけど、あんまり大きな声で言わないで」
樹が嘘を口にしているとは思えなかった。敦久は丸椅子から立ち上がると、樹の肩を叩き「いいか? しっかりとチャンスを掴み取って来い」「本人の前でやめろよ、馬鹿親父」と無駄な会話を息子と交わしていた。
「そんな下らない会話してないで、さっさと行くぞ」
「樹、行ってこい。お姉さんはまた来てね」
「敦久、次は客として来るよ」
ぶっきらぼうに言いながら、千は歩き出した。
「美人に急に名前で言われるのって意外と良いな」
千の背後から大きな溜息が吐き出され、千は背後を睥睨しながら舌打ちした。




