第一話 二
千が目覚めたのは朝の五時ごろ。まだ日は出ていないが、空は白んできている。部屋にこもった異臭を換気するために、窓を開けた。朝特有の澄んだ冷たい空気と、小鳥の囀りが一日の始まりを強制的に感じさせられる。
少女の小さな寝息を聞きながら、体を伸ばす。そのまま洗面台へと向かうと、蛇口を捻り、水を出した。水を両手で器を作りそこに溜める。その水を優しく顔に打ち付ける。覚醒しきっていなかった脳が動き始める。タオルを手に取り、顔を拭きながら、歯ブラシに歯磨き粉を少量付けた。三分ほど磨いて口をゆすぐ。タオルで口を拭き、そのタオルを首に掛けると少女の眠る居間へと戻った。
少女はまだ寝ていた。覚醒の兆しも無い。このまま起きないのではないだろうか、などと思いもしたが、その時はその時だ。
携帯電話を開き、時刻を確認する。現在、午前五時三二分。《青》が少女の朝飯を持って帰ってくるのは、約三〇分後。それまでは眠る少女と二人きり。
「よく寝るな、しかし。私ももう一寝入りするかな」
と言いつつも、既に眠気は無い。覚醒した意識は眠りを拒み、何かしらの行動をすることを所望している。とは言ってもこの少女が目を覚まさなければ、何も行動を起こせない。
この少女を一人でここに置いておく訳にもいかないし、眠ったこの少女を連れて外を出歩くのは、千が好奇な目で見られかねない。結局、この少女が目を覚まさない事には、今日という一日は何も始まらないのだ。
玄関に向かい、ドアに付いた郵便受けから新聞を抜き取り、居間に戻る。壁にもたれながら新聞を広げると、まず目に入ったのがアイドルグループの一人が覚醒剤所持で逮捕、という見出し。容疑を否認し続けている、という文面を見て恐らく嵌められたのだな、と感じた。
同じグループ内の人間なのか、ライバルグループなのかまでは分からない。興味もあまりない。芸能界という荒波で生き残っていくために、手っ取り早く自分より人気や知名度がある人間を蹴落とす。先輩や後輩は関係ない。勝ち残る為に、犯罪まがいの行為にも手を染める。芸能界じゃなくてもよくある話だ。
このアイドルは運が無かったのだ。このアイドルグループに所属した事も、この同僚達と共に働くことになったのも。嵌められたとしても、そうじゃなかったとしても。当事者ではない千からすれば「運が無かったね」の、その一言で片付けられて終わり。
目の前で眠る少女も同じ。当事者ではない者からすれば、運が無くて可哀想だったね、の一言で終わる。全員が他人事なのだ。同情し、薄っぺらい偽善の言葉を誰もが投げかけるだろう。
誰も彼女を助けようとはしない。事件になってからテレビのインタビューに顔出しNGで出演する、近所の主婦や友人と同じ理由だ。虐待や事件の香りを感じ取っておきながら、事件が起きるまでは何も行動を起こさない。
物事が動き出すのは、いつも全てが終わった後。事前に助けられる事など、ほとんど皆無。
この少女が答えだ。この少女がゴミに捨てられるこの日まで、誰も助けようとはしなかったのだから。
千は、新聞を地面に置いた。そのまま少女に掛けてやろうか、などと考えもしたが《青》に怒られることを想像し、すぐにやめた。新聞を取ると言い出したのは《青》なのだ。彼は毎朝新聞を読むことを楽しみにしている為、少女の手前、怒りはしないだろうが、いい顔もしないはず。
「……んっ…………」
少女の呻くような声。
千は立ち上がった。冷蔵庫の中から、キンキンに冷えた経口補水液を取り出す。少女の前まで移動し、千は彼女の顔の前で座った。
少女の瞼がゆっくりと開く。千は少女の目を見て、持っていた経口補水液のペットボトルを手から落としそうになった。
完全に開かれた瞼。重なり合う視線。
少女の瞳は、透き通る鮮血を見ているかの様な、赤色だった。