四
朝食を食べて一時間ほどした後に眠ってしまった緋乃に《青》がブランケットを掛けているのを尻目に千は茶封筒を机の上に置いた。それを見て、《青》がグラスに麦茶を注ぎ、緋乃の寝顔をスマホで写真を撮った後に机を挟んで千の前に座った。
「お前、何でこんな仕事引き受けたんだよ。未成年だろ、こいつ」
《青》は麦茶を一口だけ口に含ませると、茶封筒からコピー用紙を全て取り出した。それを机の上に綺麗に並べていく。本人の几帳面な性格が如実に表れたかのように並べられた順番も千が見やすいように工夫されていた。
「私も迷ったわよ。でも、ここを見て」
《青》が指で示した紙に書かれていたのは殺害動機。依頼書にそんな細かな情報が書かれている事は稀だ。殺し屋というのは金を貰って人を殺す。それだけ。依頼者の殺害動機も、事情も知らないまま仕事をこなし、そのまま時間の経過と共に互いに忘れていく。それが仕事人と依頼人の関係。
だから、千はどこか緊張感を持って依頼人の殺害動機に目を通した。文字の羅列を目で追っていく。だが、そこに書かれていた動機はそれほど珍しい理由では無かった。千や《青》からすれば陳腐でありきたりな理由だ。
この依頼人が十七歳の女子高生じゃなければ、陳腐でありきたり、何も珍しくはないと一言で片付けられた。
「復讐か……」
この殺人依頼は簡単に言えば、鹿野華茄の友人、宍戸瑠璃に対して行われたイジメによって宍戸瑠璃が自殺した事で端を発した復讐だった。イジメを行ったのは勿論、殺害対象の三人。イジメの詳細な内容は書かれていないが、自殺に追い込んだ程だ。陰湿で、醜悪で、悲惨なものだったに違いない。
「ええ。私達からすれば、もう見飽きた殺害動機だけど、高校二年生の女の子が私達に依頼してまで成し遂げたい復讐って少し興味が湧いたのよ」
「何だよ、興味本位で引き受けたのかよ」
「それだけじゃないけど、興味あるじゃない? 表の人間が私達みたいな外道を雇ってまで人を殺したいと思うのってどんな気持ちなんだろうって。私も千ちゃんも、十七歳の時には自分に降り掛かってきた揉め事は全部自分で片付けてきたし、自分で片付けられるだけの力もあったし。けど、この子は違うでしょ?」
「そうだな。どう見ても素人だな」
千は少女の写真が掲載された依頼書の一枚を手に取り、それをぼんやりと眺めた。写真の横に載っている少女の簡易的な紹介文を気が乗らないまま読み進めていく。
格闘技の経験も無ければ、スポーツの経験も無い。どちらかと言えば運動は不得手。《青》が情報を収集し、作成した依頼書にはそう書かれていた。実際に写真を見ても小生意気さは感じられるが、一見普通の少女の様にしか見えない。
確かに少女が千達を雇ってまで人を殺めようと思った気持ちは分からなかった。そもそも少女の気持ちを千達が理解する事など有り得ないのかもしれない。
《青》が言う様に千が十七歳の時、降り掛かって来た厄介事は全て自分で片付けてきた。
自らを縛る厄介の鎖は自らの刃で断ち切って生きてきたのだ。暴力で全てを片付けてきた千達に、少女の気持ちなど分かりようもない。知ろうとも思わない。交わる事の無い世界の人間の事情を知った所で千にメリットはない。
「悪いが私はパス。興味ない」
「何でよ? こんな依頼、これを逃したらもう二度と来ないわよ」
「ガキ同士の揉め事なんざ知ったこっちゃない。仇討ちしたいなら自分で勝手にしろ」
「出来ないから私達を頼って来てるんじゃない。この依頼を断る理由は特にないと思うんだけど」
「それは分かってるよ。けどなあ……」
千は机に肩肘を着きながら、唸る様な声で言った。その千の姿に《青》が鋭い視線を送る。気持ち鼻息も荒い。
「殺された子が復讐を望んでない、とか寒いこと言うつもりじゃないでしょうね」
「そんな寒いこと思ってねえよ。復讐なんて所詮は自己満足だ。自分が満足さえすればいいんだよ。そうじゃなくて、私が言いたいのは自分一人で成せない事はするべきじゃないんじゃないかって事だよ」
「でも、この時この瞬間にしか抱けない思いもあるでしょ? この選択しかないって盲目的になる事だってあるでしょ?」
千は肩肘を着いた右手で口元を隠すと、焦点を依頼者の写真に当てた。《青》の言っている事は十二分に理解が出来る。この依頼を断る理由が別段ない事も、本人が千達に殺人を望んでいるのならば、殺し屋として依頼人の意思を尊重すべきなのも理解している。けれど、この子供同士のいざこざに介入しようとはどうしても思えない。
その理由は千自身にも分からないけれど。どうしてここまで、この依頼を煙たがるのか、自分でも明確な理由には到達できていないけれど、この依頼を二つ返事で了承しようとは思えなかった。
「自分の選択が間違っているのか、正しいのかは選択して行動してみない事には分からないものよ、若いなら尚更ね。それにね、これだけ思い切った行動が出来るのはこの子の気持ちがそれだけ強いからじゃないかしら。若いからって今まで暴力とは無縁の世界で生きてきた女の子が人を殺してくれなんて絶対に言えないわよ」
「そりゃそうだが」
千が眉根を寄せ、まだ首を縦に振らない所を見ると《青》は机に両腕を乗せ、前傾姿勢で千を見つめた。
「選んだ選択が間違いでもいいじゃない。私達は教師でも親でもないんだから、無責任でいいのよ。私達に出来るのは依頼を完璧にこなす、ただそれだけよ」
千は視線をコピー用紙が並べられた机から《青》の膝元ですやすやと眠っている緋乃に向けられた。穏やかな寝顔を浮かべ、ブランケットを握る姿には思わず微笑んでしまうほどの愛らしさがあった。
「そう……だな。少し神経質になってたのかもしんないな」
千が微笑んでいるのに気付いてか、《青》は緋乃の頭を起こさないように優しく撫でた。
「そうね。私達も無責任じゃいられない環境に身を置いてるんだもの。神経質にもなるわよ。私達はいつまでこの子と一緒に居られるのか分からないんだし。本当なら引き受ける依頼にも気を配らなきゃいけないのよね」
千達が過去に受けた一年間に亘る人体実験。国が秘密裏に開発した薬物を飲まされ、激しい頭痛と眠気という副作用に襲われた非合法の実験によって千達の居場所や動向は基本的に国に監視されていると言ってもいい状態だ。
被験者の運動能力の検証などという名目で再実験している事にはなっているが、それもいつまで続くのかは分からない。実験が終了になれば、恐らく千達は消されるだろう。文字通り木端微塵になった研究所や研究者達の様に。
また、緋乃の存在は報告していないとはいえ、いつ国に緋乃の素性と居場所が国に知られる事になるか分からない。それも時間の問題だろうという事は千も《青》も漠然と理解していた。いつまでも隠し通せるものではない事は。
「ま、この程度の依頼なら問題ないだろ。依頼人が女子高生って事を除けばそれほど難しくも珍しくもない依頼だし」
「普段は依頼者も匿名の場合が多いし、気にしない方がいいわよ。それで、この依頼を引き受けるって事でいいのよね?」
「ああ。あんまり気乗りはしないけどな」
千が首を縦に振ると、《青》は静かに立ち上がり、クローゼットに足音も無く近づいていった。扉を開き、エプロンと三角巾を取り出すと扉を閉め、千の前へと静かに腰を下ろした。花柄のエプロンと同じく花柄の三角巾が机の前に広げられる。
「これは? 分かってると思うが私は家事が」
「知ってるわよ、掃除洗濯料理家事全般、千ちゃんがどれも壊滅的なのは。ここよ、ここ見て?」
《青》が指差した場所。エプロンの丁度胸辺りに縫われていたのは文字だ。それを《青》は満面の笑みを浮かべながら指差していた。
『春宵高等学校』
エプロンには桜色の美しい刺繍でそう縫われていた。千も知っている私立高校の名前だ。千達が現在住んでいる『コーポ佐野』からそれほど離れていない場所に位置する新設高校。まだ設けられてから十年程しか経っておらず、徒歩で二十分もあれば到着するだろう。
それに春宵高校は依頼人の鹿野華茄が在籍する学校で在り、自殺した宍戸瑠璃が在籍していた高校でもある。
「で? 近所の高校がどうかしたのかよ」
「その近所の高校でたまたま清掃のパートを募集してたのよねえ」
《青》が満面な笑みを崩さずに千を眺望した。嫌な予感がする。もうほとんど《青》が何を口にしようとしているのか予測できている。
「へえ、そりゃ困ったな。親切に私が掃除業者に連絡しておいてやるか、タウンページタウンページ」
千が床に手を着き、重い腰を上げようとすると、素早い動きで《青》が千の左肩を押し込み、強制的に床に座らせた。どれだけ力を入れても立ち上がる事は出来ない。《青》の強靭な筋肉が千の動きを完全に押さえつけている。
千はゆっくりと《青》の表情を見た。先程までの満面な笑顔は蝋で塗り固められたかのように固まり、細い瞳から覗く瞳からは悍ましさすら感じさせる。
千は思わず息を呑んだ。紡ごうとした言葉を瞬息に飲み込んだ。
「もう応募しといたから、私が。タウンページで。だから、明日から千ちゃんよろしくね」
「ふざけんな、私が掃除のおばちゃんなんかできるわけ」
「よろしくね?」
《青》の握力が徐々に高まっていき、千の左肩が軋み始め、痛みが全身に広がり始める。痛みによって全身から力が抜けていく。
千は引き攣った笑みを浮かべると、口角を震わせながら、何とか声を上げた。
「分かった、分かったよ。行けばいいんだろ?」
「さすが、千ちゃん。私が見込んだ女だわ」
「最初から行かせるつもりだったくせに、どの口が言ってんだよ」
肩から《青》の手が離れ、千は震える手を何度か握り締めた。痛みが左肩から左手の先端まで残留しており、握力が大幅に低下しているのを確かに感じ取る。
このゴリラ……。
そう内心で思いながら、千は冷えた麦茶で口を潤わした。季節は冬ではあるが、室内は春の陽気にも似た暖かさに包まれている。緋乃と暮らす様になってから購入を決めた家庭用暖房器具、石油ファンヒーターが正常に稼働しているおかげで部屋は常に寒冷とは無縁の状態に保たれていた。
その為、冷えた麦茶は炬燵で食べるアイスの様に最高のパフォーマンスを発揮していた。
「なあ、《白》の情報って何か進展無いのか?」
「進展も何も今は調べてないわよ」
「え? 何でだよ?」
「え? 何でだよ? じゃないわよ。今の私達に《白》の情報なんて全然全く必要ないでしょうよ。国は《白》の行方を追ってるんだし、今の私達が情報を集めた所で百害あって一利なしよ」
「そうか。そうだよな」
千は横目で緋乃を眺めつつ、再び麦茶を口に含んだ。机にグラスを置くとグラスに入った氷がカラン、と響き、その音に反応してか緋乃の肩が一瞬だけ跳ね上がる。起こしたか、と思ったのも束の間、すぐにそれが杞憂だと気付いた。緋乃の小さな寝息がすぐに聞こえてくる。
「仮に本腰入れて《白》の情報を集めても、きっと集まらないわよ。国相手に何年も一切の情報を漏らさずに身を隠せているんだから。私達の情報網じゃ無理無理」
「あの情報屋モドキの研究者は役に立たないか?」
「無理でしょ。あの情報屋モドキにお金払うくらいなら、緋乃の服の一着でも買うわよ」
「研究者としては一流なのかもしれないが、所詮は情報屋モドキだしな。無理か」
「無理よ無理。それで? なんで急に《白》の情報なんて聞いてきたのよ?」
千は既に朧になってしまった夢の断片を思い出しながら言った。
「久し振りに見たんだ。研究所に居た頃の夢を」
「あー、もうなんかそれフラ」
「違う」
千の口調は無意識に強くなっていた。
「そんな強く否定しなくてもいいじゃない。まあ、千ちゃんがどうしてもって言うなら? 調べてあげない事も無いけど」
悪戯めいた笑みで千を見る《青》から千は緩やかに視線を外した。
「いや、別にいい。たった今、脳裏の片隅から忘却した。私は《白》なんて女は知らない」
「なんでそんなに素直じゃないのよ。緋乃と暮らして少しは素直になったかと思えば」
「そんなたかだか数か月で人の本質は変わらねえよ。だがまあ、お前がどうしても調べたいって言うんなら調べてもいいぞ」
《青》の口から大量に漏れ出る吐息。横目で彼の表情を覗くと、眉間に皺は寄り、目は据わっており、鼻が膨らんでいるのが見えた。すぐに視線を再び外す。
「……もうそれでいいわよ。調べとくわね」
「悪いな」
「いえいえ。千ちゃんが傍若無人なのは今に始まった事じゃないし、もう気にならないわよ」
「そうかい。じゃあ、私は敵情視察と行こうかね」
千はクローゼットから黒のダウンジャケットを取り出すとそれを白のTシャツの上から羽織った。ジャージから紺色のジーンズパンツに履き替え、そのままリビングを後にしようとする。
「……目立たないからその格好でもいいんだけど、もう少し千ちゃんも洒落っ気があるといいわよねえ。ご近所さんからも、ちゃんとすれば美人なのに勿体ないわよねえ、って言われてるんだから、もう少しちゃんとしたら?」
「綺麗な女が見たいならファッション誌でも買えよ」
「確かにそうだけど、本の中の美人よりも目の前の美人の方が稀少価値高いじゃない?」
「知らねえよ」
素っ気なく返した千はリビングを抜け、玄関へと向かった。すぐに三和土にたどり着き、寒さに震えながら冬に似つかわしくないサンダルに手を伸ばす。
「千ちゃん、学校までの地図書いておいたから使って」
強引にダウンジャケットのポケットにねじ込まれた《青》の腕。彼の腕がポケットを抜けた瞬間に千はポケットに手を突っ込み、中身を確認。入っていたのは確かに紙。二つ折りに畳まれた紙を開くと、簡易的でありながら、目的地までの行き方が分かり易い地図が記されていた。
「お前、過保護が過ぎるぞ」
ドアノブに手を掛けながら、苛立った様に千は言った。
「あのねえ、もう何年一緒に居ると思ってるのよ。あんたの親よりあんたと親睦深めてる自信あるわよ。だから、心配ぐらいさせなさい」
「……そうかい」
ドアノブを回し、扉を開く。その瞬間に入り込む冬の空気が少しだけ緩んだ千の心を締めていく。この扉を潜れば、依頼が始まる。泡沫の無血な夢は終わり、人が人を殺める倫理が欠落した世界が訪れる。
刃を、神経を研ぎすませ。情は捨てろ。刃が血に塗り替えられた時、至福の瞬間は現れる。
「じゃあ、行ってくる」
「そんなに気合い入れても、働けるのは明日からだからね。勝手に依頼人とコンタクト取らないでよ」
「気持ち切り替えてんだから、察しろよ」
「仕方ないでしょ。千ちゃん、たまに勝手な行動するんだから。釘刺しておかないと」
「あーはいはい。気を付けます」
「本当に分かってるの? ちゃんと返事なさい」
千は肩を掴もうとした《青》の腕を払い除けると、扉を完全に開き、外へ一歩踏み出した。
「だーもう、うるせえな。聞いてるっつーの。私は行ってくるから緋乃のこと頼んだぞ」
扉を強引に閉め、千は共用階段へと足早に向かった。背後から《青》が何かを言っていたが、それらを全て無視し、ほぼ駆け足で千は階段を駆け下りた。




