二
目が覚める前から、その時刻が日中であると漫然と理解した。窓から差し込んでいる光が顔全体を照らし、瞼の裏が白の光に包まれているのが分かる。間違いなく太陽は姿を現していて、燦然と大地を照らしているのだろう。
千は暖かな光に導かれるように重たい瞼を上げた。光の眩しさに耐えかねて、瞼を完全に開くまでに数秒が掛かった。カーテンは完全に開いたままで、僅かに開いた視界には清澄な青空が広がっていた。
寝惚け眼で白雲の流れを追っていると、美しかった自然の景観が筋肉の鎧に包まれ、LサイズのTシャツをパツパツにしているオネエによって塞がれてしまう。千はあからさまに顔を苦痛に歪ませ、フライパンを手にしているオネエのご尊顔を見上げた。
「おい《青》、どけ。私の視界を穢すな」
「起きて早々、失礼なこと言わないでくれるかしら。緋乃が真似したらどうすんのよ」
「こんな世の中だからな。良い子ちゃんじゃ生きていけねえよ」
「そんな乱暴な言葉遣いでも生き辛いわよ。それと、ちゃんと布団で寝てよね。風邪ひいても知らないから」
うるさいな、とぼやきつつ、千は上半身を起こした。床に右手を着き、左手で目を擦る。床で寝ていたせいで凝り固まった背中や腰をほぐすと、円形のローテーブルの上に用意された朝食を食べている赤い瞳の少女に視線を移した。
一生懸命に箸を動かし、目玉焼きを一口大に切っては口に運んでいる少女は千の起床に気付くと箸を止め、千の傍らにてこてこと寄って来る。
そして、千の左隣に腰を下ろすと、鮮やかな赤の瞳で千を見上げ始めた。幼いながらも整った顔立ち。その顔立ちは母親の血を前面に受け継いでおり、父親の面影は見る影もない。
千は緋色の瞳を持つ少女の頭を柔く撫でると、大きな欠伸を掻いた後に口を開いた。
「父親に似なくてよかったな、緋乃。《白》様様だ」
「どういう意味よ、それ」
緋乃の実の父親である《青》こと前田剛二は緋乃が目玉焼きを食べていた皿にソーセージを三本乗せると、キッチンへと消えていく。そして、カチッと音がした後に火が点いた音がすぐさま聞こえてくる。
「千ちゃんも朝ご飯食べるでしょ?」
「ああ、食べる」
千が顔を洗う為に立ち上がろうとした時、傍らで千を見上げていた緋乃が千のシャツを弱い力で引っ張った。不意に引っ張られた千は転げ落ちる事は無かったが、僅かによろめき、無理矢理に緋乃の赤い瞳と視線が重なる事となった。
「……おはよう、千ちゃん」
「あ、ああ、おはよう緋乃。それだけ……か?」
緋乃は首を縦に振ると、無表情で自身の朝食が乗った皿の前に移動した。すぐに朝食を食べ始める。
「ほら、さっさと顔洗って来なさい。みっともない」
《青》にタオルを渡されながら、千は洗面台へと移動した。洗面台に付いている鏡に映った自身の顔は予想以上に酷く、寝惚けているせいか瞼は半分ほどしか上がっておらず、睡眠不足の証である目の下の隈は二度と消えそうにない。
寝癖で跳ねあがったセミロングの黒髪は売れないロックバンドの様でもあった。残念な美人と称される事が多い千ではあるが、鏡に映っている千の顔は残念に更に拍車をかけていた。
千は蛇口を捻り、水を出し、それを両の手ですくった。冬を迎えた日本は蛇口から流れる水すらも氷の様に冷え冷えとしたものに変え、千は水に触れた瞬間に全身を震わせた。
それから体を震わせながら、手ですくった水を顔に打ち付けた。それを三回繰り返した後に、《青》に渡されたタオルで豪快に顔を拭く。
タオルを顔から離し、完全に覚めた視界に映ったのは洗面台の横に設置されている洗濯機。の上に置いてある茶封筒だった。茶封筒には繊細な美しい字で「千ちゃんへ、仕事よ♡」と書いてあるのが嫌でも目に入る。
千は眉根を寄せ、舌打ちしつつ、茶封筒からB4サイズのコピー用紙を数枚取り出した。壁にもたれ掛かりながら、目を通し始める。
そこに書かれていたのは間違いなく殺人依頼。人を殺してほしいというお願い、が書かれている。そこに書かれていた内容を読み込んでいく内に千は「ん?」と首を傾げ始めた。
殺し屋を殺す殺し屋。裏社会の管理者、監視者。ルールを調律する者。などと《青》が勝手に言っている事が多い千の恥ずかしい異名だが、やっている事は基本的に依頼を受けて人を殺している殺し屋と変わらない。
時には殺し屋以外の人間を殺す事もあれば、揉め事を仲裁する様な仕事もしたりする。だから、この依頼が千に来たとしても何もおかしくはない。
だが、この依頼人の年齢と職業がどうにも気掛かりだった。
鹿野華茄、年齢十七歳、職業女子高生。それが依頼人の年齢と職業だった。依頼人の詳細なデータを読み進めていっても、鹿野華茄は完全な表の人間であることは明々白々の事実だ。父と母、そして妹との四人暮らし。サラリーマンの父に、専業主婦の母。中学三年生の妹。やはり、どれだけ依頼書を読み返しても、何もかもが平々凡々な家族である事以外、書かれてはいない。
おかしい、というのは一目瞭然。そもそも未成年の依頼を引き受けた事が千には無いし、基本的に受けるつもりなど毛頭ない。理由は簡単。依頼料を祓えないからだ。
殺人の依頼は未成年に払えるほど低額ではない。駄菓子屋で菓子を買うのとは訳が違うのだ。表と裏のバランスを崩す可能性がある危険を冒し、証拠隠滅、などの事後処理も綿密に行う以上はどうしても依頼料は高額になる。
「《青》の奴……何でこんな依頼持って来たんだっての、面倒臭い」
依頼書を更に読み進めていくと、当然だが殺害対象のデータが現れた。
殺害対象は三人。三人とも同じ高校の同級生。男子が二人、女子が一人。どれも表の人間であり、写真も併せて載らせられているが、三人とも容姿端麗で優等生染みた容姿をしている。
一見、悪事を働く人間には思えない。が、外面など幾らでも取り繕う事が出来る。善人の仮面は誰にでも作れるし、被る事が出来る。断言するにはまだ早いだろう。
「何でもかんでも殺せば解決するって考えなのか? 最近の子供は」
千は溜息を吐きながら、紙をめくった。それとほぼ同時に大きな足音が洗面台に近付いてくるのが聞こえてくる。その大きな足音に紛れて小さな足音が近付いて来るのも千の耳には明瞭に聞こえていた。
《大蛇》の一件から一月が経ち、もはや聞き慣れつつある足音。
コピー用紙を茶封筒に再び入れ直し、千は茶封筒の封を再び閉じた。そのまま茶封筒を右腋に挟み、千はタオルを洗濯籠の中へと放り込んだ。
「……千ちゃん、遅い」
《青》のパツパツのTシャツを掴んでいる緋乃が唇を尖らせながら、言った。その様子に千は内心穏やかな気持ちで赤い瞳の少女を見下ろした。
「全くよ。せっかくキャサリン特製の味噌汁が温まったっていうのに」
「知らねえよ。ほら、飯にするんだろ、戻れ戻れ」
三人は再び洗面所からリビングへと戻り、《青》が作った朝食を意気揚々と食べ始めた。




