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エピローグ

 朝日が昇る頃、千達は大家へと連絡した。丁度起床したらしく、近所に住む大家は十分程で、アパートに現れ、部屋を見て絶句した後、激怒した。丸い顔を真っ赤にして、壊れた扉や剥がれた壁や床を見て、千と《青》は一時間もの間、説教を受ける事になった。


 数日後に部屋の修繕費を大家から請求された千達は、早々に支払い、アパートもそのまま引き払った。引き払う理由は、そう難しい事では無かった。単純に防犯上の問題と、《大蛇》が千達の情報を調べ、このアパートまで来てしまったからだ。


 簡単に、とは言わずとも、比較的安易に千達の情報が得られてしまう事は判明した。情報が一度集まった以上、その情報の行方がどこかに流れる可能性も無くは無い。ここらで一度拠点を変えておくのも悪くはない、という《青》の判断でもあった。


 現在は、最低限の荷物を持って、車で次の転居先のアパートまで移動中だった。家具などはほとんど売り払い、持ってきた物といえば、二人がクローゼットに隠していた木箱と、衣服くらいだ。


 信号が赤に変わり、車は停止線の前で綺麗に停止した。誇らしげな顔で運転している《青》の顔に少し腹が立つが、娘の前で格好を付けたいのだろうと、納得した。


 助手席で欠伸を掻き、横断歩道に目を向けると、黒のドレスに身を包んだ女性が、同じく黒の日傘を差しながら歩いていた。その歩き姿には品性を感じさせ、優雅さも感じさせられたが、背景には全く馴染めていなかった。彼女だけが世界から切り離されている様な、彼女はどこかこの世ならざる者の様な雰囲気があった。


 何故か彼女に目線を向けてしまう。これが俗にいうカリスマ性というものか、と内心思っていると、その女性がこちらを見て、微笑んだ様な気がした。


 千は数回、瞬きをした後、それが錯覚だと気付いた。目の前を歩く女性は千に微笑むどころか、常に前を向き続けている。今のは何だろうか、陽炎が見せた幻だったのだろうか。


 横断歩道を渡り切った女性が車とは反対方向へと歩いていく。遠ざかる背中が、誰かの後ろ姿と重なる。


 誰だろうか。それ程、遠い過去の事ではない気がするのに、思い出せない。実験のせいで脳に支障を来しているのだとすれば、慧を徹底的に痛め付けなければならないが、恐らくは違う。千がそれ程、気にして見ていなかっただけの話だ。


 勉強と同じ。ノートにただ書くだけでは覚える事は難しい。覚えようという気概があって初めて頭に刻まれていく。


 千は覚えようという気概が欠けていたのかもしれない。


 「……ヘビ」


 後部座席の助手席側に座っている緋乃が声を発したので千は振り返った。緋乃は窓の外を指差し、その先には細長い白色の蛇がウネウネと地面を這っていた。自由に動き回る姿には、羨望の眼差しを向けると

同時に、千は一人の女性が脳裏に浮かんだ。


 偽物の《大蛇》。黒いドレスを着た女性と被ったのは、偽物の《大蛇》だ。その事に気付いた頃には、既に黒いドレスの君はもう居ない。彼女の名前や情報は何一つ分からないし、調べてもいない。名前も生い立ちも知らないが、それでも彼女が《大蛇》になった経緯は知った。


 彼女が、精神が崩壊するまで辱められ、人を殺すプロに仕立て上げられ、《大蛇》の影武者として生きていくことになっても死ぬ選択をしなかった理由が、今なら分かる気がした。


 千は緋乃を守る為に、死ぬ覚悟を持ち、絶対に死なない覚悟を持った。千と《青》が命を落とせば、緋乃もそう遠くない内に命を落とす事になる。国の人間に捕まれば人生の大半を、実験対象として過ごす日々を強制される。それは生きているとは言わない。息をしているだけの肉塊だ。


 命を賭して、生還する。これが、千が己に課した枷。絶対順守の誓い。


 彼女も千と同じだったのではないだろうか。彼女も何かを守ろうとしていたのではないだろうか。彼女の精神を縛る為に、両親、兄弟、恋人、友人、の誰かを人質に捕ったのではないだろうか。今となっては、何とも言えないが緋乃と共に過ごした今の千だからこそ、そう思う事が出来た。


 自分の命を削ってでも守りたい命。千にとってのそれは、緋乃になった。


 生まれてから二十歳になるまで、数奇な人生を歩んできたと自負している千だが、初めて人を愛おしいと思えた。空っぽの心に温かい何かで埋まっていくのを感じた。その何かは、言うまでもない。愛だ。


 まさか、こんな小さな少女に教えられることになるとは。


 千は笑って、笑いながら緋乃を見た。


 突然笑い出した千に、緋乃と《青》は怪訝そうな視線を向ける。


「千ちゃん、どうしたの? 気持ち悪いわよ?」


「……怖い」


 二人の視線を交互に見て、千は前を向いた。歩行者用の信号が点滅を開始する。


「私は無敵だから、安心していいぞって事だ」


「どういうこと? さっぱり分からないんだけど」


「……怖い」


 色々と言葉足らずだった、と千は違う言葉を模索した。もっと、分かりやすくシンプルな言葉を。そして思いついた。少し気障な気もするが、こういう時は変に捻った言葉は言わない方が良い気がした。


「緋乃。お前は私が守ってやる。これからもずっと。そういうことだ」


「私の娘はまだ嫁には出さないわよ?」


 後ろで顔を真っ赤にしている緋乃は黙ってしまったが、《青》が千の肩をバシバシと叩く。尋常じゃないくらいに痛い。


「ほら、信号変わったぞ?」


「まあ、変な男連れてこられても困るんだけどね」


 信号は青に変わり、車が前に走り出す。


 緩やかに進む車。見慣れた街並みから、知らない景色に映え変わる。新しい街に来たのだと、ようやく頭が認識を始める。


 変わる景色の中で、千は車の中から空を見上げた。


 白い雲。青い空。赤い太陽。


 住む場所が変わっても、これだけは変わる事なく存在し続ける。


 不変の存在が、違って見える時が来たとしたとしたら、それは死ぬ時だ。


 ならば、死ぬその時まで、その絶景は後に取っておこう。


 流れる雲を見つめていると、ジャケットのポケットに入った携帯が鳴った。携帯を手に取ると、非通知からの着信だった。


 千は着信ボタンを押し、耳に当てた。相手が喋り出すのを待つ。


「……四年ぶりですね、《蒼》さん?」


 その声に千は慄然とした。


 その声は知っている声だ。一度たりとも忘れた事は無い。


 電話の声に耳を傾けながら、千は街並みを見た。


 ああ、新しい街に私はやってきた。

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