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第五話 四

「おい」


 千は感情を含ませない声で言った。《大蛇》が千を見て、緋乃の首を絞めていた手を少しだけ緩めた。意図して緩めた訳ではないだろう。千を見て無意識に緩めてしまったのだろう。


 瞳の色が変化している。虹彩が黒から蒼へ。どういう事だ? そんな所だろう。


 千はナイフを引き抜いた。右手にファイティングナイフ。左手に和式ナイフ。右手は逆手、左手は順手に持つ。


 千はそれ以上、歩を進めなかった。《大蛇》との距離は残り二メートル程。今の《大蛇》なら関係の無い距離だ。それを不思議に思ったのか、《大蛇》は呆然としていた。腕に力を入れる事なく、千を観察していた。


「どうした? 怖気づいたか?」


 嘲笑を含ませた様な声。《大蛇》は訝しんでいたが、《青》が接近してくるのを見て、緋乃を《青》に向かって投げ飛ばした。緋乃を優しく受け止めた《青》は地面に座り込み、彼女を抱き締めている。親子の感動劇には一切目を向けずに、《大蛇》は千の方へと体を向けた。


「その目は何だ?」


「目だよ、目。見てわからないか?」


「まあいいだろう」


「早く来いよ。手加減してやるから」


「言っただろう? 俺は後悔しないと。後悔するのはお前だ」


 《大蛇》の左足が千の鳩尾を狙って突き出された。先程までは視認する事すら、まともに出来なかった蹴りが、今は止まって見える。


 これが人体実験を受けた末に身に付いた異能。時が止まって見える程の超動体視力。虹彩が変色し、黒から蒼へと変わるが、常時変色している《白》とは違い、変わるのは短時間だけ。瞳の色が変わっている間だけ、動体視力は急激に上がる。


 突き出された蹴りの軌跡を予想し、千は左に数センチだけ動いた。これだけで、蹴りは避けられる。避けながら、右手を顔の位置まで上げ刃は下に、左手はへその位置まで上げ刃は上に。《大蛇》の蹴りが、腕を通り過ぎるのを待機。


 足が通過した瞬間、右手を垂直に落下、左は上方へと押し上げた。右のナイフは脛から脹脛を貫通。左のナイフはその逆、脹脛から脛へと貫通し、刀身の先端が突き出た。まるで大蛇の首元へと喰らい付く竜の顎の様にも見えた。


 嗅ぎ慣れた臭いが、鼻に届く。血だ。芝生に落ちる血液に頬を紅潮させ、千は胸の内を興奮させた。千は後退しながら、ナイフを手前に引いた。傷口を拡大させながら、ナイフを引き抜く。《大蛇》の足から血が溢れ出し、緑色の芝生の一部が赤い鮮血に染められていく。


 芝生へと仰向けに倒れ込んだ《大蛇》は、切り裂かれた左足を両手で押さえていた。《大蛇》の手に血液がべっとりと付着していくのを見て、千は更に興奮を覚えた。


 無言で、左足を押さえている両手の親指を切り落とした。芝生に落ちる親指を見ながらナイフを横に走らせた。人差し指、中指、薬指、小指の順に切り落とすと、親指を追って、順に芝生の上に落ちて行った。


 指の無くなった両手では足を押さえる事が出来ず、力無く腕は芝生の上に落ちた。


 「手は、もう要らないな……」


 《大蛇》の体に馬乗りになると、両手のナイフを振り下ろした。手首から上、指の無い手が力無く落下していく。生命線が意外と長いじゃないか、と下らない事を考えながら、千は次に切る場所を考えていた。が、《大蛇》の表情を見て千は思考を止めた。


 痛みと恐怖に怯える《大蛇》の顔。まるで、《大蛇》が迫っていた時の緋乃ではないか、と。もうこの男に戦闘を続行させる気力は無い。戦意が無いというのなら、これ以上は問題ないかもしれない。


 手首から先は切り落とされ、左足は死んだと言っていい。心身共に深手を負った、この男はもう戦えない。


 千も戦意を緩めた。


 それを感じ取ったのか、《大蛇》は安堵の息を漏らした。心の底から安心している様だ。



「すまなかった。俺の負けだ。赤い目の少女にも手荒な真似をした、すまない」



 もうこれ以上、追撃の必要はない。この男は謝罪をしたのだ。今までの非礼を詫びた。千だけではなく、緋乃にも謝罪をしたのだ。


 だから、もういい。これで終わりだ。


 この男を許す訳ではないが、《大蛇》という男が見せた誠意に敬意を表して、この場は見逃してやろうではないか。千は静かに微笑んだ。




 見逃してもらえると、そう思っただろう?



 千は《大蛇》の首に左右からナイフを突き刺した。頸動脈を完全に断ち切る。《大蛇》の口からマグマの様に血がこぼれ出し、千を見つめたまま《大蛇》は絶命した。


 ナイフに付いた血を《大蛇》のスーツで拭き、シーフにしまうと千は立ち上がった。《大蛇》の死体を見下ろす。瞳孔が開いた瞳がこちらを見ている。


「後悔したのはお前だったな」

 

 千は振り返った。そこで気付いた。常人離れした動体視力が、それを完璧に捉える。視線を外す事すら許されない。永遠に時が止まっていてくれたなら、どれだけ良かった事か。初めて、この視力が無ければ良かったと思った瞬間だった。


 緋乃がこちらを見ていたのだ。怯えた表情。それは先程まで、《大蛇》に向けていたものだ。小さな手が《青》のシャツを掴んでいる姿は悲痛を感じさせる。この少女の中で千は恐怖の対象として映ってしまった。映させてしまった。


 感情に呑まれた結果がこれだ。助けようとした存在が、千の存在を拒否してしまっている。笑えない。本当に笑えない。


 見ないでくれ、そんな顔で。拒絶しないでくれ、と願う瞳はまだ蒼色のまま。


 この瞳のせいか。この瞳が緋乃にあんな顔をさせているのだろうか。ならば、この瞳を潰せば、笑ってくれるのだろうか。また笑顔を見せてくれるのだろうか。


 そう思えば、自然と手が伸びた。ゆっくりと人差し指が白目に触れる。痛みは感じない。このまま指を押し込めば眼球を抉り取れる。視神経ごと抜き取って、捨ててしまおう。それで全てが解決するのならば。


 指に力を入れようとした瞬間、《青》の手が千の腕を掴み、目から遠ざけた。さっきまで、目の前にあった指が少しずつ移動していく。


「何してるの!」


 怒声が耳の内側に響く。その声が僅かに正気を取り戻させる。だが、緋乃の顔が見られない。怖くて見る事が出来ない。


「この目のせいでそんな顔をさせる位なら、こんな目、要らないんだよ!」


 泣きそうな声で吐き出された言葉は、緋乃を更に怯えさせてしまう。どうしてこうなってしまったんだ、と更に顔が悲痛に歪む。


「そんな顔させるくらいなら、こんな目要らないんだよ……」


「けど、千ちゃんがその目を使って《大蛇》を殺してなかったら、緋乃は死んでいたのよ?」


「けど、その結果がこれだ。怖がらせる為に、来たんじゃないんだよ」


「それでもあの時、千ちゃんが助けられなかったら、この顔も見れなかった。私達がした事は、普通の子供は受け止められない。これが普通なのよ。むしろ、泣きださないだけ緋乃は普通の子供よりは強いわ。いい? 恐怖って感情は誰にでもあるの。こんな仕事をしてる私ですら、《大蛇》に対して怖いと思った。千ちゃんだってそうでしょう?」


「だけど」


「私ですら恐怖した《大蛇》を殺した千ちゃんを、緋乃が怖がるのは自然な事でしょう? 私だって怖いと思う。でも、私も緋乃も千ちゃんが優しいのを知ってる。千ちゃんが与えてくれた優しさを緋乃は知ってる。緋乃が泣き出さずにいるのは、千ちゃんだからなのよ。分かった?」


「……ああ、分かった。少し混乱してたみたいだ、悪い。緋乃も悪かったな」


「別にいいわ。千ちゃんが取り乱すなんて、珍しい姿も見れたし」


「私だって取り乱すことくらいある。……ほら、もう帰るぞ」


 千が踵を返そうとした所で、誰かが上着を掴んだ。誰が掴んだのかなんて、すぐに分かる。弱弱しい力で掴み、それと同じくらいの力で引っ張られる。


「……千ちゃん、抱っこして」


 《青》の腕から身を乗り出し、必死に千にしがみ付いている緋乃の姿には、愛おしさすら覚える。


 《青》の腕から落ちそうになる緋乃を慌てて支え、そのまま自身の腕の中に収める。水に濡れ、大分体が冷えているが、それでも生命の鼓動は感じられる。生きているとハッキリと言う事が出来る。


「助けられて良かった。またお前の顔が見られて良かった」


 緋乃の体を強く抱きしめる。緋乃の細い腕が首の後ろへ回り、肌が直に触れ合う。耳元で鼻を啜る音の後に、次第に嗚咽が緋乃から発せられる。緋乃の緊張が解れたのだ。心を支配していた負の感情が解き放たれたのだ。


 緋乃の背中を優しく擦っていると、目の前に立つ《青》が千を睨んでいた。何か言いたげにこちらを見ている姿は、母親に娘を取られて嫉妬している父親そのものだ。


「緋乃が抱っこしてって言ったんだが」


「いいわよ別に。別に悔しくなんてないから。寂しいとか思ってないから」


「……前田は、髭がチクチクするからイヤ」


 《青》は黙って、歩いて行った。顔に絶望を浮かべ、スマホを取り出していた。


 画面に映っているのは『永久脱毛、料金プランご紹介』と書かれた脱毛サロンのホームページ。苦笑を浮かべながら、千も《青》の後に続く。


「……ありがとう」


 千の胸に顔を埋めている、緋乃は小さな声でそう言った気がした。


 この子を一生守って行こう。命を落とすその日までは、身勝手にこの子を守って行こう。心からそう思えた。


 だから、この子が自分達の下へと帰ってくる間は、言い続けることにしよう。


「おかえり、緋乃」

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