第五話 二
車を公園の駐車場に駐車し、二人は公園へと向かった。時刻は午後九時四十五分。約束の時間よりも、早く到着していた。駐車場に一台だけ止まった白い乗用車。恐らくあの車は、《大蛇》の物だ。こんな夜遅くに公園に来る者など、擦れた学生か、外で性行為に及びたいカップル位だろう。
車から目を離し、さらに先に進もうとすると、《青》は白の常用者を訝む様に見つめていた。顎に手を添え、首の角度を少し斜めにしている姿は、探偵に見えなくもない。
「……あの車、私達がピクニックに来た時に、この公園に居た気がするわ。いや、この公園を出る時かしら。私達の後ろについた車じゃないかしら」
「確かに、そう言われてみればそうだな。……って事は、その時から」
「尾行されていたのかもしれないわ」
「平和ボケじゃ済まされないな、これは」
「私達の油断が、この事態を招いたのかもしれないわね」
「笑えないな、本当に」
二人は駐車場を抜け、公園の敷地内へ。芝生の上を歩き、雑木林に隠れながら進んでいく。LEDの照明が照らす公園内は夜でも明るく、公園全体が光に包まれていた。歩行者用の通路にも、遊具にも、芝生の上にも人は居ない。人払いを事前に済ませてあるかの様だ。いや、済ませてあるのだろう。民間人に見られては、色々と困る事をしようとしているのだから。
生憎と、この公園は雑木林に囲まれた、言わば自然の要塞。敷地外から公園の内側を見る事は高台から望遠鏡で覗かない限りは、難しい。監視カメラも、存在しないこの公園だ。内側の人間さえどうにかしてしまえば、余程のことが無い限りは人目に付かない。
通路に沿って二人は、歩を進める。足下に注意を払っているが、枯れ枝や枯葉を踏む時の音は、どうしても鳴ってしまう。現状で出来る対策は、音を最小にする様に心掛けるだけ、という事だけだ。
「どこにいるんだ?」
限りなく小声で解き放たれた独白は、強く吹いた秋風に呑まれて誰の耳に届く事は無かった。呟いたのは、ほとんど無意識だ。千自身がそれに気付かず、気付いたのは呟いた後だった。慌てて口を閉じる。これが仕事中だったらと思うと、目も当てられない。気にしない様に、と心を理性で抑えつけ、暗い雑木林を進んだ。
光と影の中間にベンチが見えた。照明が照らし、時折吹く秋風が木の枝をしならせ、影を落とす。まるで世界から切り離された様な存在感を放つ、そのベンチには見覚えがあった。弁当を食べたベンチだ。三人で、《青》の作った弁当を食べたベンチ。記憶の引き出しが次々と開けられていくのを感じた。
脳裏に次々とスライドショーの様に流れていく静止画は、どれも幸せな物ばかりだ。
あのベンチに緋乃が笑顔で座っている、そんな錯覚を覚えた。願望だったのかもしれない。三人でもう一度あのベンチに座って笑い合えたら、そんな憧憬があったのかもしれない。
千の肩を《青》が叩いた。雑木林の中では《青》の表情は分からなかった。だが、その行動の意図は理解していた。千が急に立ち止まったから心配になった、訳ではない。千が見ていたベンチよりも奥。公園の中央に造られた池の前に、人影が見えた。一、二、三、四、全部で四人。
黒のスーツを着たガタイの良い男が三人、そして、最後の一人は緋乃だ。緋乃は人口芝の上に横になっていた。
逸る気持ちを抑え、池に近付いていく。男達がハッキリと見える場所まで歩いた。横たわる緋乃を挟む様に立つ、二人のスーツの男。左側に立つ男は、身長は低いが、それを誤魔化すように逆立たせた短い黒髪が印象的だった。年齢は二十代とも、三十代にも見える様な容姿をしていた。
右側に立つ男は、身長は高いが、坊主頭で、一重瞼に低い鼻、鱈子の様に太い唇には赤味が無く、紫色に近かった。常に薄ら笑いを浮かべ、緋乃を見つめる視線は心の底から気味が悪い。
木で作られた池を囲むように出来た柵に背中を預ける男。肩甲骨辺りまで伸ばした黒髪を後ろで留め、一重瞼の細い目が緋乃の顔を射抜いていた。鼻筋が通り、薄い唇は固く閉じられ、首筋には何かの花を描いた刺青が刻まれていた。
こいつが《大蛇》だ。
直感でしかないが、ほぼ確信していた。この男には独特の空気がある。威圧感というか圧迫感というか、この男には立っているだけで人を畏怖させる凄味がある。そんな事を感じ取ってしまうのは、人を殺す者同士だからだろうか。だとしたら嫌な共鳴だ。あの男と意思を共有したかの様な感覚に、勝手に嫌悪感を抱く。
どう動くか……。
千は地に伏し、四人の動向を眺めていた。横に倒れている緋乃は、どうやら気を失っている様だ。緋乃の顔は見えないが、何やら水に濡れている様にも見える。池にでも放り込んだのか? とも思ったが、緋乃の傍らに置いてある青色のバケツを見て、違うと察した。
長身の男が、バケツの取っ手を掴み、持ち上げた。男の顔の位置まで上がると、バケツは徐々に斜めに傾き、中に入っていた水が、緋乃の全身に打たれた。緋乃の体に水が当たる瞬間、水しぶきが上がり、滝の様に見え、緋乃の体が滝下で横たわる鯉の死骸の様にも見えた。
水を掛けられた緋乃の体が、ビクンと動いたのが見えた。意識が強制的に覚醒させられた様だった。絶えず注がれる水に体を丸めている。冬が近付くにつれ、気温が低下していくのと比例して水温も低くなっている。バケツに入っていた水が無くなり、秋風に晒された緋乃の体が、小刻みに震えている様な気がした。
すぐにでも雑木林から飛び出したい気持ちを静め、動向を見守る。緋乃を見つめる《大蛇》らしき人物は、無表情のまま、スーツの胸ポケットから携帯を取り出した。それを見て、千も慌てて携帯を取り出す。携帯の時刻を見れば、午後の十時を優に超えていた。
案の定、千の携帯に着信が入る。ワンコールで、千は着信ボタンを押した。木の陰に隠れながら、右耳に携帯を押し当てる。
「時間だ」
「ああ。今着いた所だ」
木の幹から少しだけ頭を出し、男達をつぶさに見た。一見、疑ってはいない様だ。
「早く来い。赤い目の少女が待ちわびているぞ?」
嘲るような口調は気にならなかった。細かく見ていたせいか、一瞬返答に遅れてしまう。
「……ああ。すぐに向かう。子供は無事なんだろうな?」
「ああ。無事だ。生きてはいるさ」
「すぐに行く。……後悔するなよ?」
「……後悔はしないさ、俺はな」
電話で喋っている男の視線がこちらを見た。ぶれる事無く、千達が居る雑木林の方を見ていた。いつ気付かれた? などとは思わない。あの男は《大蛇》。蛇は暗闇でも獲物を見つけることが出来る。
千は通話を着る事無く、立ち上がった。暗い雑木林から、光が差す芝生の上を歩いていく。千の後ろを《青》が続く。千達を見て、《大蛇》が不敵に笑い、スーツの男二人が、驚愕し、緋乃に立ちふさがる様に立った。緋乃はまだ千達には気付いていない様だ。スーツの男二人との距離が五メートル程で立ち止まった。一息もあれば、この男の懐に飛び込める。
「蛇は獲物を見つけるのが早いな」
「お前達がバレバレなだけだ」
「じゃあ、お前の部下は役立たずだな」
「こいつらには何の期待もしていない。ただのロリコンだ」
「死んだ方がいいなそいつらは。殺すぞ?」
「構わない。俺の部下に無能はいらない。殺れ」
千は携帯を長身の男に投げた。それとほぼ同時に、千は地面を蹴った。携帯は真っ直ぐな軌道を描き、男の額に激突。僅かに怯み、刹那の瞬間、男の両目が閉じる。男が再び目を開ける頃には、千は目の前に立っていた。右手には和式ナイフ。和式ナイフを男の胸のやや右側に突き刺した。皮を破いた後に、裂くのは肉。脂肪を断ち、筋肉を断ち、神経を断つ。
ろっ骨をすり抜けたナイフは、そのまま心臓を突き刺した。ナイフ越しに伝わってくる心臓の鼓動が二回。二回の鼓動を感じた後に心臓は終焉を迎えた。
ナイフを勢い良く引き抜くと、男の胸から勢いの強いシャワーの様に、血が噴射した。前に倒れだす男の体には目もくれず、千はナイフを引き抜いた勢いをそのまま利用し、体を独楽の様に回転させ茫然としている背の低い男に向かっていった。
硬直したままの男は、千の姿を瞳に映す事しか出来ず、振るわれたナイフを無抵抗で受け入れた。横一直線に振るわれたナイフが、男の喉元を切り裂く。喉仏あたりから、グラスから水が溢れる様に血が流れていく。男の口端に泡が溜まり、その泡に血が混じり赤に染まっていったのと同時に、長身の男が地面に頭から倒れた。
十秒もしない内に、背の低い男も地面に倒れ、向かい合う様に倒れている二人は、目を開けたままだ。まるで死んだことをまだ認識していないのか、まだ生きているのではないか、と思わせるほどに目には生気が宿っている様に見えた。
「お見事だ。さすがは、梅村天の娘。そのナイフ捌き、お前の母親を見ている様だったぞ」
《大蛇》が何かを言っているが、まあいいだろう。どうせ戯言だ。
千と《大蛇》に挟まれるように倒れている緋乃を見た。恐怖からか人工芝を見つめていたが、男二人が倒れる音と《大蛇》の発言を聞いて、ゆっくりと顔を上げた。
赤い瞳が徐々に水平から上空へと向けられていく。脛、太股、腰を通過し、そこから一気に緋乃の視線が上がる。千と《青》の顔が視界に入った。大きな瞳が見開かれる。赤い瞳と視線が交錯する。恐怖と水冷に震えていた緋乃の体に、歓喜が追加される。
喜びを体で表しながらも、状況が掴めていない様子の緋乃に、千は優しく微笑んだ。
「緋乃、怖かったら目閉じてろ。すぐに、終わらせる」
「終わらせる? 偽の《大蛇》にてこずっていたお前が、俺を終わらせる? どういう冗談だ?」
千は和式ナイフに付着した男達の血液を、長身の男のジャケットで拭った。完全に血液が拭えた事を確認した後、千はナイフを《大蛇》に向ける。
「あの女は本当に、殺し屋か?」
「殺し屋だ。俺達が二年の間、あいつを育ててやった。精神を壊すまでが大変だったがな」
「綺麗な顔してたからな。さぞ、お楽しみだったんだろ?」
愉快そうに《大蛇》は笑った。その声に緋乃が怯えているが、距離だけで言えば《大蛇》の方が近い。迂闊には動けない。
「性欲を持て余した奴は、いくらでもいる。集まったのは三十四人だ。すぐに集まったよ。綺麗な女にはすぐに男が集う。二年間、不眠不休で男達の相手をさせたよ。最初は抵抗していた様だが、一か月もすれば、もう下準備は終わりだ。絶望の中にいるやつっていうのは、少し希望をちらつかせてやれば、すぐに食いついてくる。殺し屋に仕立て上げるのもすんなりいった。割と優秀な女ではあったが」
《大蛇》は千を見た。興奮した様子で、息を吐き、唾を飛ばした。
「梅村千。お前は最高の女だ。お前は俺と同じ、壊れた奴の目をしている」
「……何を言っているのか知らんが、お前は最高のゴミ野郎だな。私はゴミを拾って側に置いてやる趣味は無いんだ」
「口の減らない女だ。まあいい。力ずくでも、お前は俺の物にするつもりだった」
《大蛇》は柵にもたれ掛かっていた体を起こし、千を見つめた。その瞳は思春期の少年の様でもあり、成熟した男性の様でもあった。武器を取り出す様子は無く、《大蛇》は拳を構えた。ゴツゴツとした硬そうな拳。
「千ちゃんは、昔から変な男にはモテるのよね」
《青》の右手には、白鞘に収められた脇差が収められていた。鞘を抜き去り、芝生に無造作に捨てると、刀身が露わになる。照明に反射する刀身に映し出される乱刃の波紋は、あまり興味の無い千ですら美しいと思えた。
「緋乃を狙った理由は何かしら? 返答次第で、手加減するかどうか決めてあげる」
優しい口調で言っているが、《青》の表情は真逆の感情に染められていた。
「知りたければ、聞きだしてみろ」
「《青》。やるぞ」
「ええ」
先に動いたのは《大蛇》。緋乃には見向きもしないまま、千に向かって直進。千は一度《青》と視線を交わす。千は後方に後ずさりながら、迎え撃つために和式ナイフを一度、シーフにしまう。放たれる《大蛇》の右の拳は千の顔面に向けられた。いや、顔面ではなく狙いは顎。千は体を僅かに右に傾け、ギリギリで拳を避ける。すぐさま、追撃が迫る。
左の拳が千の脇腹を狙って既に撃たれている。千は右手の甲でそれを逸らすと、更に数メートル後退。千は右太股からファイティングナイフを引き抜き、それをそのまま右手に持った。
右手のナイフをすくい上げる様に、《大蛇》の脇腹付近に目がけて振った。躱される。躱された瞬間に左手を腰に回す。サバイバルナイフを一気に引き抜き男の首元目掛けて横に薙いだ。《大蛇》の上半身だけが後方に下がっていくが、そこで読み違えが起きる。
最初に躱したナイフよりもサバイバルナイフは十センチ長い。ナイフの長さを読み違えた事で、《大蛇》の首元にナイフの切っ先が食い込む。皮を破り、血が一筋こぼれだす。が《大蛇》は地面を強く蹴り、後方へと跳んで、力任せにナイフを躱した。《大蛇》は受け身を取った後、すぐに起き上がる。
起き上がった直後、《大蛇》は右に跳んだ。《青》の脇差が大蛇の左腕を切り落とさんと、振るわれようとしていたが、不発。振り下ろされた脇差の剣先から、芝生を吹き飛ばさんと刃風が巻き起こる。心の中で舌打ちを漏らしながら、千はサバイバルナイフをシーフにしまう。
さっきの一撃で息の根を止めておきたかったが、外してしまった事を今更言ってもしょうがない。二人の刃は《大蛇》を仕留める事は出来なかったが、状況は悪くはない。むしろ、最初よりも良い方に変わった。
《大蛇》を緋乃から引き離す事に成功した。最初に千が狙われる事は、容易に想像が出来た。千が後方に下がったのは、緋乃から《大蛇》を引き離す為。千が相手をしている間は、《青》は自由になる。千が一度《青》と視線を交わしたのはその為だ。
二人の即席の作戦は見事に成功した。緋乃を背後に、《大蛇》を前方に。一先ずは、緋乃を取り返す事が出来た。まだ油断は出来ないが、それでも状況はこちらに有利だ。千は右手のナイフを握り直す。
「久し振りだ。こんなに昂っているのは。梅村千、やはり俺の所に来い。今なら丁重に扱ってやる」
「自分より雑魚の部下になるなんてあり得ないな」
《大蛇》は声を上げて笑っていた。大爆笑と言ってもいい。目の前の男は戦闘中に腹を抱えて笑っている。これを隙だと思っていいのか、判断に悩んでいると《青》が青褪めた顔で、千の耳に顔を近付けた。
「千ちゃん気を付けて。少し様子がおかしい」
「ああ。戦闘中に大声で笑い出す奴は、大体何か隠し玉を持ってる。それかただの馬鹿だが、どっちだろうな」
「今の内に、緋乃を非難させといた方がいいかもしれないわね」
「そんな事が出来ると思っているのか、梅村千、オカマ」
不気味な笑みを浮かべている《大蛇》は、上着の裏ポケットから何かを取り出した。注射器だ。長く伸びた銀の針から、透明の液体が一粒漏れる。
ドーピング……?
針が《大蛇》の右肩に刺さる。《大蛇》の親指が押子を沈め、液体が体内へと一滴残らず注入されていく。液体が空になった注射器を《大蛇》が強引に左手で引き抜き、地面に捨て、着地と同時に《大蛇》の左足が注射器を粉々に踏み潰した。
首を右に左に曲げ、首の骨を鳴らし、その場で数回飛び跳ねている姿は、蛇というよりは動物園ではしゃぐ猿の様に思えた。
「行くぞ?」




