第五話 一
掛かった時間は約十五分。千の予測よりも大分早い。二人は車に乗り込み、すぐに出発した。アクセルが強く踏まれた。エンジンが火を噴き、速度が上昇していく。スピードメーターの針がすぐに八十キロを超えた。
千は携帯を胸ポケットから取り出し、開いた。時刻は午後八時五十分。この分なら余裕で午後十時までに公園にたどり着く事が可能だ。だが、まだ安心は出来ない。時刻通りに行けたからといって、緋乃の安全が保障されている訳ではないのだ。最悪の事態というのも、考えておかねばならない。
胃が痛む。
胃を悪魔に掴まれ、力強く握られているかの様だ。痛みを紛らわす為に、右の太股に付いたナイフの柄に手を伸ばし、掴んだ。握って、放す。それを数回繰り返す。胃痛を紛らわせる事には成功したが、心をざわつかせる波を押し止める事が出来ない。
動揺の波が心の防波堤を破壊し浸水していく。考えておかなくてはならないとはいえ、どうしても、最悪の光景ばかりを思い浮かべてしまう。光を失った緋乃の顔ばかりを浮かべてしまう。
初めて非科学的な物に頼りたくなった。目的地に一瞬で移動してくれる扉があるというのならば、すぐに出してほしい。手遅れになる前に、早く。
千が俯いていると、運転している《青》の穏やかな声が耳に届いた。
「私、緋乃が私の娘だって知って、どうしていいか分からなかったの。娘を持てるなんて思ってもいなかったし、これから先も作る気なんてなかったから。私達の命を国が握っている以上、後何年生きていけるのかも分からなかったし。本当に死人みたいな、いや、死人だったと思う。生きる意味も持ってなくて、何も考えずに仕事を千ちゃんに回してるだけの、息をしてるだけの肉の塊だったと思う」
何も言わなかった。千も同じ事を思っていたからかもしれない。漠然と殺し屋を殺すだけの日々。生きる意味など、実験を終えた日からまともに考えた事も無い。《白》と同じ仕事をすれば、何かが変わるかと思って始めた殺し屋狩りも、劇薬には成り得なかった。千も、生きているとは言えない様な生活を送っていたのだ。
「緋乃が来てから私、生きてる、って思えたのよね。あの子が来てから、ただいまっていうのが楽しみになって、行ってきますって仕事に行っても、すぐに帰りたいって思う様になった。あの子が来てから初めて普通の生き方をした気がしたわ。あの子が私達に教えてくれたのよね、平凡な日常の中にある小さな幸せを。あの子が私達を絶望から救ってくれたのよね」
全て《青》と同じだ。緋乃が来てから、他人に対して何かをしてやろうと思う様になった。緋乃に玄関で送ってもらうのが嬉しくて、緋乃が喜んでくれるのが嬉しくて、その笑顔を見る為なら、何でもしてやろうと思えた。救っていたつもりで、実は救われていたのだ。
人は失ってから失った者の大事さに気付く、と誰かが言っていたが、本当にそうではないか。失ってから、緋乃の存在の大きさに気付いている。失ってから大事だ、と気付いてしまった。
「私、またあの子におかえりって言ってもらいたい。私のご飯を美味しそうに食べてほしい。血の繋がりなんて関係ない。私はあの子に笑っていてほしい。だから、私は助けたい」
「私もだよ。緋乃の為なら私は何でもできると思った。私の人生全て捧げて守りたいと思ったよ。その為なら私は、国を敵に回してもいいって思ったよ」
《青》は声をあげて笑った。大笑い。千もそれにつられて笑う。
「全く、千ちゃんに娘を掻っ攫われるかもしれないわね。私が女だったら惚れてるわよ」
「私も女なんだが。でも、私達と一緒に居たくないって言われたらさすがに傷付くかな」
「そうよね。これから反抗期が来て、思春期が過ぎる頃には私達ウザがられるかもしれないわね。悲しい
わ」
「《青》とは別々に洗濯してくれって言われるかもしれないな」
「やだー。加齢臭の対策しなきゃ」
「その為には、取り返さないとな。私達のお姫様を」
「そうね」
やっとだ。やっと幸せな未来の形を浮かべる事が出来た。血の涙を流す緋乃じゃない、嬉しそうに笑う緋乃の姿を。嬉し涙を浮かべてくれたら、嬉しい。もしかしたら、その涙につられて泣いてしまうかもしれない。
ああ、早く会いたい。
千は、掴んでいたナイフを離した。もう、胃痛は無い。迷いも無い。次にナイフに触れるのは、緋乃を助ける時。敵を排除する時だ。必ず、助ける。千はその決意を吐き出すかの様に、息を吐いた。
車が右に方向指示器を出したと同時に、小さな振動音。携帯電話のバイブレーション機能だが、千の携帯では無い。となると、《青》の携帯という事になるのだが、彼は運転中。《青》が片手で千に携帯を渡した。表示された携帯番号は引き籠り科学者の番号。すぐに画面を人差し指で押した。
「何か分かったのか?」
スピーカーモードに切り替え、音量を最大に変更する。膝の上に乗せ、手を離した。電話の向こう側で、ゴソゴソと何かが動く音が聞こえる。
「……千かい?」
慧の声だ。懐疑的に発したその声の後に、紙をめくる音が聞こえた。
「ああ」
「《青》には千から伝えてくれ。君達に電話をしてきたのは、恐らく《大蛇》と呼ばれている殺し屋だ」
千はすぐに答えた。
「いや、《大蛇》なら私が殺した。死亡した事も確認した。何かの間違いじゃないのか?」
確かに肉を、脈を切った。その瞬間に伝わった手の感触が間違いなく《大蛇》の死を確信している。間違いなく殺したのだ。
偽物だったのか?
疑問が浮かぶ。元々、得られた情報が少ない殺し屋だった。《大蛇》と呼ばれる殺し屋が複数人いたとしてもおかしくはない。千が殺したのは、《大蛇》の偽物、抜け殻だったのかもしれない。
「千が殺したのは《大蛇》の偽物かもしれない。もしくは、偽物を使って君達の事を探っていたのかもしれないね。それか、その偽物が邪魔になって君達に処理させようとしたとか」
「だが、私が殺した女は自分が《大蛇》だ、って認識していた。……どういう事だ?」
「催眠かもしれないね。《大蛇》だと思い込む様に暗示を受けていたのかもしれない」
「そんな事が可能なのか?」
「まあ催眠というのは超能力ではないからね。やろうと思えば誰でも実現可能だよ。だけど、人格を新たに刷り込むというのは、かなり難しいと思うよ。演技する訳ではなく、その人物だと完全に思い込んでいる訳だからね。かなり長期的に催眠を施さないといけないと思う」
「出来ない訳じゃないんだな?」
「出来ない訳ではないよ。難しいだけでね。まあ本物の《大蛇》が何をしたのかは大体想像がつく。千が殺した《大蛇》が女性だというなら、別に酷い拷問を掛けなくても、精神を徹底的に痛めつける方法がある。千も見たことがあるだろ?」
「ああ。集団で強姦、だろ?」
見た事はある。現場に出くわした事も、被害者女性が死を望み、千がその通りにした事もある。千が見た被害者は二人だけ。何かに怯え、虚ろな目で何かを見ていた。辛い現実を受け止めきれない、と幻想に意識を飛ばしている様だった。それが悪い事だとは思わない。辛い現実と必ず向き合う必要はないのだ。物語の主人公ではないのだから。
「そう。男性に集団で暴行されるっていうのは、普通の女性にとっては耐え難い恐怖だ。ましてや、それを行うのがプロの殺し屋だからね。拷問と同じだよ。その女性の恐怖は計り知れないよ。精神を完全に殺したその後に、催眠を行えばいい。人は自分を守る為なら、何にでもなれるから」
《大蛇》は精液が付着したティッシュが顔に張り付いた時、過剰に反応を示した。両親に救いを求め、自分を守る為に必死に、身を小さくしていた。ティッシュが紙に付着した瞬間、催眠が解けたのかもしれない。正気に戻った女の前にはナイフを手に持った女が一人。過去に受けた仕打ちを思い出し、パニックを起こしたのかもしれない。
その仮説が正しかったとすれば、千は被害者の女性を殺害したことになる。思わず右手で頭を押さえた。助けられたかもしれない、という後悔が押し寄せる。
「何の為に偽物を用意したのかは分からないけど、気を付けた方がいい」
「心配するな、その変態糞男達は私が一人残らず殺してやる。それだけか?」
「怖いよ。一応、用件はそれだけ」
特に返事をすることも無く、千は通話を切った。もう話すことは無い。携帯を《青》に返却し、千は外の景色を見た。
ラブホテルのネオンが妙に腹立たしい。ラブなんて大層な名称を付けるのなら、全国に愛を普及させろよ、と訳の分からない怒りをぶつけたくなる。
「そろそろ着くから準備してね」
その言葉と共に、車は更に速度を上げた。




