第一話
ネオンの光が路地を包むラブホテル街。そこを歩く一人の女性。セミロング程の黒髪を一つに束ね、背は女性の平均身長より少し高いくらい。出るところは出ており、引っ込むところは引っ込んでいる、というバランスの取れた体型であった。顔は和風美人を思わせる造形の整った顔立ちをしているにも関わらず、化粧っ気が無く、目に出来た濃い隈がその美貌を台無しにしていた。
彼女は同じ業種の人間からは、残念美人と呼ばれることが多く、本名の梅村千の名で呼ばれる事はあまりない。
ラブホテルにいる理由は仕事。今日もその仕事帰りだ。男性と体を重ねる様な仕事ではないが、表立って言えるような仕事でもないのは確かだった。
ラブホテル街を抜け、住宅街を歩いていく。もう深夜二時ごろ。明かりがついている家は少なく、街頭だけが夜を照ら薄暗い路地。当然、外を出歩いている者も少ない。だというのに、目の前からは男性が三人歩いて来ているのが見えている。
まだ若い。
深夜に徘徊したい盛りの男子高校生といった所か。といっても、千もまだ成人したばかりの二十歳。彼らとそれほど年齢差がある訳でもない。世間的には十分若いといえる年齢だ。
男性三人とすれ違う。三人から三種類の強烈な香り。香水を使い始めたばかりの初心者にありがちな、香水の量を多くつけ、鼻が曲がりそうな程の強烈な匂いを体から放つ。この三人は正にそんな感じ。誰も忠告しないのだろうか、などと思いながら俯いて顔をしかめていると、誰かが千の肩を叩いた。
振り向けば、先ほどのすれ違った男性三人。全員が顔をニヤニヤとさせている。目的が分かりやすすぎる。千は内心呆れてしまった。
「お姉さん、こんな遅くに何やってんの?」
千は無視してそのまま歩き出した。取り合う必要もないだろう。何よりも、これ以上この場所にいれば、鼻が曲がる。
「ちょっと無視しないでよ」
強引に振り向かせようと千の肩を掴もうとした手を思い切り捻じ曲げた。その腕を背中側に曲げ、骨が折れる一歩手前まで、さらに捻じ曲げる。呻き声が男の口から漏れ、他の二人は突然の千の行動に身動きが取れず、その場に立ち尽くしていた。
「私と一発ヤリたいなら、その香水を何とかしろ」
立ち尽くしている男二人に向かって、腕を捻っている男を突き飛ばす。男は腕を抑えながら、目尻に涙を浮かべているが、そんな事は知った事ではない。
千は男達に一歩一歩殺意を持って歩き出した。
「お、おい逃げるぞ!」
三人は振り返ることなく走り去り、住宅街の闇へと消えていった。「情けないやつ……」とぼやきながら、千は再び歩き出した。
住宅街の外れ、そこに築二十五年の良い具合に年季の入ったアパートが立っている。アパートの側面に書かれた「ブルーオリビエ」の名前とは裏腹に、アパートの塗装は黄色。ブルーな要素はどこにもなかった。
二階建てのアパートで、部屋は全八室。一階、二階ともに四室ずつと、至って普通のアパートだ。駐車場も部屋の数と同じ数だけ用意されているが、入居者が半分しか埋まってないため、止まっている車は四台のみ。
そして、アパートの目の前に設置されている共用のゴミステーション。そこにはすでにゴミ袋が何袋か置いてある。透明のゴミ袋には可燃ごみと書かれており、そこで今日が火曜日なのだと改めて思い出す。
「後でゴミ出ししないと……」
そんな呟きを漏らすと、重なるように置かれたゴミ袋の一つがカサリ、と動いた。ビクッとなりながらも千はゴミステーションをしばし観察。ゴキブリか、猫か。カラスという可能性も無いわけではない。しばらく観察しても、這い出てくるのはゴキブリのみ。猫もカラスも出てくる事はなかった。
ゴキブリか……。
その場を離れようとした時、あることに気付いた。
一つだけ有色袋が存在したのだ。真っ黒の中身が見えない袋。かなりゴミが詰め込まれているのか、そのサイズはゴミ袋の中でもかなり巨大だ。
この街では、有色袋によるゴミの廃棄は禁止されている。ゴミ収集車が来たとしても引き取って貰えず、透明袋に中身を入れ替えて再廃棄されるまで、そのままゴミステーションに放置される。
「これが異臭騒ぎの原因になるって、私が《青》に怒られるのに。やめてくれよな、全く」
文句を垂れながら千は共用階段を上がり、自身の部屋である二〇五号室の扉の鍵を開け、扉を開けると中へと入った。靴を脱ぐことなく、部屋へと入るとゴミ箱の横に置かれた可燃ごみ用の透明袋を一枚手に取った。
すぐさま、ゴミステーションの前まで戻り、真っ黒のゴミ袋を持ち上げた。
「ん……? これは」
ゴミ袋を持ち上げた際、妙な違和感を感じた。ゴミが詰め込まれているとはいえ、これは可燃ごみだ。重いといってもたかが知れている。だが、このゴミ袋は想像以上に重い。持てないという程ではないが、想像していた重量よりも数倍は重いと感じられた。
妙だな、と思いながらも、袋を開けようと試みる。かなり固く縛られているため封を開くよりも、破ったほうが早い。袋を強引に左右に引っ張り、破っていく。
予想通り、野菜の切れ端やティッシュを丸めたゴミなどが破れた箇所から雪崩の様にこぼれ落ちた。
「大家に通報してやる」
千は携帯を取り出し、ゴミ袋の写真をカメラで撮影した。撮影する瞬間、フラッシュがたかれゴミ袋が照らされる。撮った写真を気にする事無く、携帯電話をしまうと、自前の透明袋に袋を移し替えていく。袋が半分ほど埋まった所で、千は黒いゴミ袋を更に両手で破った。奥に入っているゴミを取り出すためだ。また雪崩の様に地面に落ちていくゴミの山。
だが、今回はそこで異変に気付いた。
ゴミ袋の中身を街灯がある場所まで移動させる。中身がよく見える様にする為に胸ポケットから携帯を取り出し、ライトを点け、ゴミ袋の中を照らした。
思わず息を呑んだ。自然と瞳孔が開いていくのを感じながら、携帯を胸ポケットに戻した。この中身よりも酷い光景を今まで何度も見てきた。自分でその光景を作り上げた事もある。だというのに、今まで見聞きしたどんな悪意よりも、質の悪い悪意に包まれていると、そう思わずにはいられなかった。
ゴミ袋の中身。そこには、一人の少女が入っていた。
ゴミに塗れたその少女は、服を一切着ていなかった。生まれたままの健康的な姿、などとはとても言い難いやせ細った姿。贅肉など欠片も無く、控えめに言っても皮と骨しかない。
何よりも千が目を向けたのは、顔以外の全身に青痣が出来ており、それは殴られ蹴られ踏み付けられた末に出来た、虐待の証明。所々火傷の痕も見られた。
顔には痣や傷を作らず、服を着せれば外からは見えない首から下に傷や火傷を作るというのは確信犯じみている。見た所、古いものから真新しいものまで、長きに渡って虐待を受けていたようだ。
顔を除く全身に付けられた痣や傷。明らかな栄養失調。この少女が今、危険な状態だという事は、医療知識に乏しい千でも容易に分かった。栄養や水分は満足に与えられず、いつからゴミ袋に入れられ捨てられているのかは分からないが、十一月に入ったばかりとはいえ、まだ気温は少し高い。脱水症状になっていたとしてもおかしくはない。
呼吸を確認し、少女の細い手首に指を当て、脈を確認する。呼吸も脈もある。一応、生きてはいるが、このまま放置すれば、そう遠くないうちにこの少女は命を落とすだろう。
ほとんど無意識にゴミ袋から少女を取り出し、腕に抱えた。恐ろしい程に軽い。驚きは最小限に、早々に二〇五号室へと向かった。
部屋へと入り、短い廊下を渡ると、すぐに居間へと到着した。千は一週間分の新聞紙を床に大量に敷き、そこに積み重なるように次々と新聞紙を重ねる。即興で作り上げた紙のベッドを作り上げると、そこに少女を寝かせた。ゴミ袋に入っていたこともあり、少女からは異臭が漂っていた。髪にも体にも、汗や野菜の切り屑、誰の者か分からない髪の毛が付着しており、とにかく汚れていた。
さすがに布団の上には寝かせられない。少女の全身を覆うように新聞を掛けてやると、千は冷蔵庫の前まで移動し、扉を開けた。
水も作り置きのお茶もある。何故か買った覚えのない経口補水液もある。何故入っているのかはすぐに答えが出たが、経口補水液が入っていたのは嬉しい誤算だ。目が覚めたら飲ましてやろう。
問題は、食料だ。この部屋には飲み物はあれど、食べ物は無い。消化の良い食べ物を作ろうにもそれを作る材料がない。調味料はあるが、さすがに醤油やソースをそのまま飲ませるわけにはいかない。
千は胸ポケットから携帯電話を取り出した。二つ折りの携帯電話で、いわゆるガラケーというやつだ。素早く電話番号を打ち込むと、発信ボタンを押した。何回かのコールの後、謎の音楽と共に着信待機時間に変わる。
うるさいな、この音楽。
音楽に興味の無い千には、その音楽が何なのかは分からないが、とにかく煩い音楽だという事は記憶した。煩いので耳から離して待っていると、携帯電話から男性の声が聞こえてきた事で、着信が繋がったのだと気付く。
「何、千ちゃん? 私、まだ仕事中なんですけどー」
野太い声と声の向こうから騒々しい音が漏れ聞こえてくる。電話の主は女口調で喋っているが明らかに男性の声だが、千に気にした素振りは無い。
「《青》。帰ってくる時に、何か消化の良いもの作って帰って来てほしいんだが」
「えー!? 何々!? 千ちゃん風邪引いたの!?」
騒々しいが、心配するような声。千は優しい笑みを浮かべながら言った。
「違うよ。帰ってきたら事情は話すから、よろしく頼むな」
「え!? どゆこ」
そう伝えると千は一方的に電話を切った。何かを言っていた気がするが、まあ大丈夫だろう。明日の朝には《青》は帰ってくる。その時に事情を説明すれば問題はない。実際に少女の状態を見せた方が、説明もしやすい。
千は少女を見つめながら、壁にもたれかかった。
これからどうするか。病院や警察に行けば、この少女の身元は分かるだろうが、両親に連絡が行ってしまう。両親があの手この手で真実を隠し、この少女を連れ戻そうとする恐れもある。この少女にとって、それは最良の選択ではないはず。それを見す見すさせる程、千も腐ってはいない。
ならば答えは一つ。この部屋で暫くの間、預かるしかない。非合法の闇医者の伝手も無いわけではない。明日の朝一にでも連れて行こう。
千は襲い来る猛烈な眠気に抗うことなく、瞼を下ろした。すぐに意識が朦朧になる。そうなれば早い。間もなく、千の意識はなくなり、息をしているのか分からない程の寝息が聞こえだした。