第四話 五
緋乃に関しての情報を全て慧に話すと、慧は唖然としていた。言葉を失い、黙ったかと思えば、空瓶をビニール袋に黙々と入れ出した。静かな現実逃避。
千は白衣の襟を掴み、床を引き摺って行く。無理矢理、慧をソファに座らせると、彼女の目の前に立った。
「お前には、緋乃の為に一生捧げてもらう。いいな?」
「……はい」
「もし、緋乃に変な真似をしようとしたら殺すわよ。いいわね?」
「……はい」
「じゃあ、情報屋紛いのお前に調べて欲しい事がある」
「いやー、本職の方に調べてもらった方がいいと思うよ?」
千は笑った。笑うだけで、言葉は無い。沈黙が続く。慧の鼻息だけが聞こえてくる。気の毒に思う程に、慧の表情がコロコロと変わる。救いを求めて、《青》を見るが《青》も千と同じく笑顔だった。沈黙に耐えられなくなったのか、慧は突然、立ち上がった。
「私、江ノ島慧、喜んで調べさせてもらうよ。何でも言ってごらん?」
歪んだ笑みがこぼれる。笑みを堪える事はしなかった。
「お前は、私達に行っている実験の詳細と、緋乃が今、どういう扱いになっているのか調べろ」
「時間掛かるよ? それ」
「構わないわ。でも、なるべく早く」
慧は力が抜けたかの様に、ソファに座った。ソファの背にもたれながら、ほっと息を吐いている。緊張していた様だ。させたのは千と《青》なのだが。
「君達は何をするんだい?」
その顔には、私ばかりが働くのは割に合わない、とそう書いてある気がした。一発、殴ってやろうかとも思ったがすぐにやめた。殴れば、部屋が散らかる。そうなれば、文句を言い出すに違いない。
「私達は、《白》の居場所と緋乃を捨てた奴を探す」
緋乃は、最初ゴミ袋に入れられ、痣や傷が全身に蔓延り、記憶も失っていた。《白》がやったのだろうか、という考えは千の中には無い。それは確信していた。《白》が虐待していたとすれば、緋乃は今頃、あの世逝きだ。
「《白》の手掛かりがあるのかい?」
「無い。これから探す」
慧が噴き出した。豪快に唾を飛ばした。
「見切り発車もいい所だね。だが、研究者としては分からないでもない。分からないから追及し研究する。未知を解明するのが私達だからね」
「論点がずれるから黙れ」
「千、私に当たりが強くないかい? 説教した事を根に持ってるとか?」
「違う」
即答。その言葉に感情は乗っていなかった。
「《白》についてはこれからだが、緋乃を捨てた奴には心当たりがある」
確証はないが、と付け足す。千は携帯を取り出し、開いた。画像フォルダの中から、一枚の写真を選択する。
その写真には、ゴミが写っていた。野菜の切れ端、ティッシュペーパー、スーパーのチラシなど、可燃ごみだという事は一目で分かった。
《青》はすぐに気付いた様だ。このゴミが写っている場所は、千達が住むアパートのゴミステーションだと。写真に写ったゴミ袋が黒い事にも。
このゴミ袋は、緋乃が入れられていたゴミ袋だ。だが、訝む様に《青》は見た。これのどこに緋乃を捨てた人物を特定する手掛かりが存在するのだろうか、と。どこを見ても、ゴミしか写ってはいないではないか、と
「ここを見ろ」
千は画面の右端を指差した。《青》と慧が画面を覗き込む。二人とも老眼を発症しているのか、見え辛そうな顔をしている。この老人共、と思いながら千は画像を拡大させた。老眼疑惑の二人もハッキリと確認できたようだ。
写真に写っていたのは、郵便物の送り状。小さい文字ではあるが、送り先、送り主、両方の名前が確かに見える。当然、住所も記載されている。
「これで緋乃を捨てた、かもしれない奴の所に行けるわけね」
「まあ、これがカモフラージュの可能性もあるからな。調べてみない事には始まらないさ」
そうね、と《青》が呟いた。携帯電話を閉じようと、人差し指に力を入れようとした瞬間だった。
携帯の画面が、先ほどまでのゴミ袋が写った画像から、着信画面に切り替わった。
画面に映る電話番号は知らない番号だった。携帯に登録してある番号なら、名前が表示されるはず。名前も表示されないという事は、本当に知らない人物だ。
《青》が電話を出る様に促し、慧は苦笑しながらも一歩、千に近付いた。慧も電話に出ろ、と言いたいらしい。
千は携帯の着信ボタンを押した。この場にいる全員に聞こえる様にスピーカーモードに切り替える。千以外の二人は息を殺し、成り行きを見守る姿勢に入った。千も聞こえない様に、静かに鼻で息を吸って、吐いた。
「誰だ?」
「赤い目」
男の声だった。若い男の声。落ち着き払ったその声は、森林を流れる川の清流を思い浮かばせた。
三人は顔を見合わせる。赤い目と言えば、思い浮かぶのはアパートに残してきた少女の事。だが、まだ緋乃の事を指しているという確証は無い。千は頷いて、言葉を紡ぐことにした。
「何の事を言っているんだ」
「赤い目の少女を預かっている」
心臓が跳ね上がった。目玉が飛び出そうになる程に、見開かれる。何とか呼吸だけは正常なフリをした。電話で良かった、と思った。対面していたら、動揺を一発で見抜かれていた。他の二人を見れば、千と同様に、目を見開きながら茫然としていた。
本当に僅かな時間の狼狽を、心の裏側に押し退けた。長い沈黙は動揺してます、と公言しているのと同じだ。
千は机の上に置いてあったボールペンを手に取り、自身の腕にスラスラと文字を書き連ねていく。
「お前、名前は? 自分の名前も言わずに、話を聞いてもらえるなんて思ってるんじゃないだろうな?」
腕に書いた文字。「この電話の男を調べろ」そう書いて、二人に見せた。電話中という事もあり、あまり、長文で細かな指示は出せなかった。それでも二人は黙って頷き、居間を出て行った。この場に残されたのは千一人。スピーカーモードを解除し、携帯を右耳に当てた。
「今から言う場所に来い。お前に拒否権は無い。同居しているオカマも必ず連れて来い」
名を告げる事はなく、男の口から、場所の名前が告げられた。メモを取る必要は無かった。千の知っている場所だ。《青》も知っている。
尾行されていたのか。いつだ、いつからだ。緋乃を拾った時か、《大蛇》を殺した時か、公園にピクニックに行った時か、次々と疑問が浮かび続ける。
「時間は?」
「午後十時」
それだけ言うと、男は通話を切った。通話が切れた事を確かにする電子音が、携帯から漏れている。携帯を持つ腕をだらりと、下ろした。携帯を握る手に思わず力が入る。足音が聞こえる。大きな足音。
《青》だった。《青》が千の肩を掴む。彼は何かを言っていたが、何一つ聞き取れなかった。彼の一言一句を全て耳が拒絶していた。千は頭の中でずっと時間の計算をしていたのだ。
現在の時刻が午後七時三十分。一度アパートに戻る必要がある。アパートまでが約一時間。準備は遅くても三十分もあれば終わる。アパートを出るのが九時として、公園まで約一時間。今すぐに戻れば、余裕で間に合うはずだ。
《青》に両肩を掴まれ、ようやく千の意識は現実へと引き戻された。汗が頬を伝っているのを感じながら、《青》の腕を振り解いた。
「千ちゃん、聞いてたの?」
「帰るぞ。話は帰りながら聞く」
「どうしたのよ? 何を言われたの?」
「緋乃と一緒に行った公園を覚えてるか?」
「ええ。覚えてるけど……」
「午後十時にそこに来い、だそうだ。恐らく罠だ。準備がいる」
男が指定してきた場所。それは、緋乃とピクニックをした場所。初めて三人で出掛けた場所だ。その場所を選ぶ理由は何だろうか。分からない。いくら探しても答えが見つからない。答えが見つからないイラつきから、千は唇を噛んだ。
電話の男が悩む千を見て、笑っている様な気がした。思わず千はソファの背もたれを殴った。手が痛む。だが、気にはならない。手の痛みよりも、怒りの方が勝る。これこそが、目的なのかもしれない。千達を精神的に揺さぶる事こそが、目的なのかもしれない。
「本当に緋乃が連れ去られたのか確認する必要もある。行くぞ」
千が居間から出て行こうとすると、メモ用紙を持った慧が行く手を塞いだ。
「千の携帯に掛けてきた携帯のGPSをたどって居場所を調べたんだ」
「どこにいる?」
「君達が住むアパート」
「そうか」
千が慧の脇をすり抜け、《青》が強引に慧を突き飛ばした。突き飛ばされた慧が床に転がる音がしたが、二人は振り向くことはしない。
玄関で靴を履き、鍵を開ける。ドアノブに手を触れようとした所で、背後から足音。小走りだ、と気付く。千は玄関扉を見つけたまま、《青》は背後を振り返った。
「どうしたの?」
「君達が預かっている《白》の子供は、もう普通には生きてはいけない。君達が、その子に関わり続ければ、君達はいずれ国と敵対する事になる。君達は」
「私達は多分、近い内に国から切り捨てられる。その時が私達の最期。さっきも言ったが、私達には死ねない理由がある。だから、国が私達を殺そうとするなら、私達は国と敵対する道を選ぶ。国が緋乃を殺そうとするなら、私達が守り抜いてやるさ。もし、お前が私達に協力できないって言うなら、慧。お前はここで殺していく」
千は振り向き、慧を見た。瞳に感情の色は無い。返答次第では本当に殺すつもりでいた。武器など無くとも、人は殺せる。対人戦闘の経験が無い慧など、訳は無い。慧の次の行動を観察していると、彼女は手に持ったメモ用紙を握り潰した。
何かを決意した様に千を射抜いた慧の瞳は、目を逸らしたくなる程に、真っ直ぐだった。曇り無き純粋な瞳。純粋な探求心だけを理由に研究に没頭する科学者を見ている様だった。
「……携帯の電源は切らない様に。私は情報を集めて、ここから随時、君達に伝えるよ」
「お前も来るんじゃないのか?」
「運動不足の引き籠りは役に立たないと思うよ?」
「そうね。慧を連れて行くメリットは無いわね。邪魔にしかならないわよ」
「そうだな。おい、引き籠り。何かあったら連絡しろ」
「分かった。……癒しが欲しい」
ぼやく慧は無視して、千は扉を開けた。一歩外へと踏み出す。扉を閉める事なく、早足で歩きだした。絨毯を踏む力が、つい強くなる。廊下の静寂を歩行音で埋め尽くそうと必死になる。
エレベーターの扉の前に立つと、千はエレベーターのボタンを強く押した。




