第四話 四
誰も喋ろうとはしなかった。
《青》は茫然と俯き、慧はばつが悪そうに視線を《青》と床を行き来している。千は《青》に何と声を掛けていいか分からず、慧に質問すべき内容を考えていた。今の《青》に何かを言っても、彼の耳には届かない。彼に必要なのは時間だ。考えを整理する時間。《青》が機能しない以上、千が話を進める必要がある。
静寂を打ち破る様に、千は口を開いた。
「《白》の子供は今、どういう扱いになってるんだ?」
緋乃の事は、あえて触れなかった。まだ言うべき段階ではない、と思ったからだ。まだ少し慧を疑っている部分がある。それを払拭できない限りは、言うべきではない気がする。
「ハッキリとした事は私も言えないけど、国が《白》の娘を探している可能性は高いと思うよ。彼女の娘は生死不明で、行方も不明だ。どんな見た目をしているのかも分からないけれど、生死が判明するまでは探し続けると思うよ。その為に国は《白》を探すのに躍起になっているのかもしれない」
慧は既に時間が経ち温いであろう、コーヒーを啜った。
「最近、上海で《白》を見たという情報を聞かなかったかい?」
すぐに思い当たった。《大蛇》の依頼を受けた日の事だ。《青》から電話を受け、上海に《白》が居る可能性が高い、そう聞いた。それが何だというのだろうか。
「あれは私が流した嘘の情報だよ」
「そんな事をして何の意味がある?」
「国の動きを見たかったのさ。私の情報で国がどう動くのか、ね。そして私の思い通りに動いてくれた」
慧は子憎たらしい笑みを浮かべながら、千を見た。千も慧の狙いに気付く。気付き、呆れた。国家相手に何をしているのだろうか、と。溜息を漏らさずにはいられなかった。
国を利用して、《白》の生存確認を慧は行ったのだ。
「お国の方々は嘘の情報を流してすぐに、上海に人を大勢送ったよ。この時点で行方不明になってる《白》が生きている可能性は急激に高まった。死体を確認するだけなら、三人もいれば事足りるからね。相変わらず《白》の行方は分かってはいないけど、それは国も同じだったのさ。彼らも《白》の情報を掴めていない。だから、嘘の情報に何の疑いもなく飛び付いた」
慧は左手で撫でる様に下唇を触れた。
「国は《白》と彼女の子供が、一緒にいると踏んでいるのかもしれない。被験者の情報が欲しいだけなら、君達を狙えばいい。わざわざ行方が分からない《白》を狙う必要が感じられない。やはり、彼らが欲しいのは被験者ではなく、その子供なんだ」
「それだと、研究所を襲った連中は誰になる? 子供を作らせろ、って命令したのは国の奴らなんだろ? 実験中に研究所を爆破、なんて馬鹿な真似をさせるとは思えないんだが」
「すまない。そこまでは私も知らないんだ。内部分裂か、別の敵対組織か、考え出せば切りがないけど、あの実験を揉み消す必要が出たのは間違いない。元々、非人道的な実験だったのは間違いないんだ。不都合が出るのは時間の問題だったよ。それよりも、不思議に思っている事があるんだよね」
慧は、その言葉の続きを言い淀んだ。言いづらそうにしている慧の代わりに、千が口を開く。
「私達が生かされている理由か?」
慧は苦笑を漏らす。
「そう。一番の当事者である研究者、科学者達は研究所と共に一人残らず消された。私は運良く生き延びてはいるけれど、君達を国が生かしている理由が分からないんだ。言い方は悪くなるけど、必要なのは被験者ではなくデータだ。そのデータは既に国は持っている。情報を持った被験者を野放しにする理由、君達が今、一番情報を持っているというのは明らかなのに、国が動かない理由がどうしても分からないんだよ」
眉根を寄せる慧は首を横に傾げた。千は腕を組み、人差し指で脇腹を擦った。
「私達が生かされている理由は、恐らく私達がまだ『実験中』だからだ」
千の言葉に慧はキョトンとしていた。寄っていた眉も元に戻る。
「もう一度言ってくれるかい?」
「被験者の運動能力の変化についての検証、だそうだ。本当にそんなモノを見ているのかは知らないけどな」
慧は黙った。知らない様子だ。仇を憎む復讐鬼の様な目つきで床を眺めている。それを見て千も自虐的な笑みを浮かべる。
「三年前。私達の所にあいつが来た」
「あいつ?」
「蓮路だ。よく知っているだろ?」
「ああ。もちろん知っているさ。この研究を始めた、資産家の一人じゃないか。知らないわけがないだろう」
「そう、その蓮路が私達に実験の追加を持ってきた。実験が終わって数年が経った後に私達に持ってくるって事は、《白》にやらせたかったんだろ」
「そうだろうね。《白》は君達の中で一番、運動能力が高かった。《白》にやらせたいと思うのが普通だ。彼女を捜索していたが、見つける事は叶わなかった。だから、君達に白羽の矢が立った、そんな所だろうね。それで、その実験はどういう検証方法で行われているんだい?」
「私達の仕事を蓮路に連絡して、あいつらが勝手に見に来るだけ、って事らしいけどな。詳しい事は私も知らない」
「詳細な情報は与えない、蓮路らしいね。という事は、実験の期限も分かっていないのかい?」
千は首を縦に振った。実際、実験の詳細は詳しくは教えてもらえていない。曖昧な言葉で濁され、肝心な実験内容ですら、有耶無耶のまま話は進んでいった。黙って受けろ、詳しくは聞くな、断れば殺す。最初から千達に拒否権など無かった様に思えた。
「本当は何を見ているのかは知らないが、私達が消されるのは、その実験が終わったその時なのかもしれないな」
まるで独り言の様に千の言葉は紡がれた。慧の表情が深い悲しみを帯びる。《青》は相変わらず床を見つめたままだ。目尻の下がった慧の瞳が千を見る。震えた唇がゆっくりと動き出した。
「君達は、それでいいのかい?」
「いい訳ないだろ。私達にも死ねない事情がある。いや、たった今出来た。おい《青》。お前は死ねない理由が出来た。そうだな?」
《青》の体がピクッと動いた。
「お前はあいつを守らなきゃいけない義務が出来た。そうだな?」
《青》の視線が動く。彼の瞳に映ったのは無論、千。
「お前があいつの面倒見れないって言うんだったら構わない。私があいつを立派な大人にしてやる。お前の代わりにあいつを」
「私の子よ! 私が面倒みるわ! 私があの子を守り抜いて見せる」
大きな声が室内に響く。何の話をしているのか理解出来ていなかった慧は、驚きのあまり、ソファから逃げる様に転がり落ちた。慧がソファから落ちた結果、彼女の体が机に激突し、大量の空き瓶が床に落ちた。
「あいつを守れるのは私達だけだ。だから、私も《青》もまだ死ねない。死ねないんだよ」
「話が見えないんだけど……」
千と《青》は床に落ちた瓶を拾っている慧を見た。見たというよりは睨んだ、と言った方が正しいかもしれない。殺気を込めた視線を二人は慧にぶつける。彼女は二人の視線に気圧され、部屋の端まで後ずさった。恐怖を紛らわせる為に、瓶を強く握っている姿は、どう見ても内向的な引き籠りだった。
「お前、私達を裏切らないって、断言できるか?」
「え? 裏切るつもりはないけど……。え、何? 怖いんだけど」
小さく竦みあがった慧を見て、二人は邪悪な笑みを浮かべた。こいつも巻き込もう。二人の考えが一致した瞬間だった。
「今、私達の部屋に《白》の子供が居るって言ったら信じるか?」




