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第四話 二

 高級住宅街に進入した車は、ゆったりとした速度で奥へ奥へと進んでいく。車道には高級そうな服やアクセサリーに身を包んだ買い物帰りの主婦、その傍らには、同じく高級ブランドの服に身を包んだ小学生が母親に付き添う姿が見えた。


 車を更に進め、二人が乗る車はあるマンションの前で停止した。全五十階の高層マンション。地上からでは最上階を視認する事は難しく、見上げようとしたが、その前に首の骨が悲鳴を上げた。


 すっかり慣れたハンドル操作で《青》が駐車場に車を止めると、二人は外に出た。強いビル風が二人の体を突き刺そうと、猛っているが二人は素知らぬ顔。呆れた様な顔で、高層マンションを見つめた。


 高級住宅街にそびえ立つタワーマンションは、異質だ。少なくとも、この住宅街の中には少しも溶け込めていない。蜥蜴の群れの中に竜が一頭だけ混じっている様な、そんな感じだ。その位、異質な雰囲気を放っていた


 マンション全体に施された黒々とした塗装。花や木に囲まれた入り口は、まるで幻想世界の森の様で、小さな噴水まである。外から見ただけでも広すぎると思うエントランスは、高級ホテルに間違って来たのではないかと錯覚させ、思わず携帯電話を取り出し、住所を確認した。合っている。ここで間違いはない。


「何回来てもホテルにしか見えないよな、ここ」


「ええ。私達すっごい場違いよね」


「こんなに高くする必要あるのか?」


「高いところに住みたいんじゃない?」


 溜息を吐きながらも、二人はエントランスに向かった。ガラス張りの自動扉を潜ると、カメラが内蔵されたインターホンと入り口と同じガラス張りの扉があった。


 《青》がズボンのポケットから鍵を取り出すと、インターホンに付いた鍵穴に差し込む。入らないのでは、と一瞬不安に思ったが、問題なく根元まで鍵は穴へと吸い込まれていった。


 左に鍵を回すと、閉まっていたガラス張りの扉が自動で開いた。二人は堂々と中へと入る。


 エントランスを超えると、入居者用のラウンジが存在し、受付には顔立ちのはっきりとした綺麗な女性が座っており、ラウンジの至る所に設置された、高級チェアとテーブルには入居者と思われる人々が優雅にお茶を楽しんでいた。彼らは千と《青》を訝む様に見ていたが、すぐに視線を外した。安心し切った顔でお茶を楽しんでいた。


 セキュリティが万全だと信じているのだろう。百パーセント安全な防犯などないというのに、呑気な連中だ、と思う。オートロックの扉を越えてきたのだからあの二人は、大丈夫。このマンションの入居者、もしくは客だ。入れたのだから、悪い人ではない、善人のはずだ。そう思っているのかもしれない。

 

 この世に絶対というものは有りもしないというのに。


 二人はラウンジからエレベーターに乗り込んだ。四十九階のボタンを押し、扉を閉める。エレベーターは静かな作動音に包まれながら上昇していった。宙に浮いている感覚が足を通して全身に伝わってくる。


 千はこの感覚が苦手だ。しっかりと地面に足が着いていない感覚が、生きているという実感を薄れさせる。気絶する直前の、脳内が浮ついている感覚と重なり、小さなこの箱が、過去を掘り起こそうと躍起になっている気がして、苦手だった。


 デジタルで表示された階数の数字を見つめる。早く着け、と心の中で反芻する。四十九階に到着すると、扉が開き、千は足早に外へ出た。


 廊下に敷かれた絨毯を歩き、二人は目的の部屋の前までたどり着くと、インターホンを押した。扉から少し離れて待つ。


 鍵が開く音。ガチャリとなった後にドアノブが斜め下に傾いた。扉が少しだけ開かれると同時に、黒のスーツの上に白衣を着た女性が姿を現した。


 何日も風呂に入っていないのか、ぎっとりした黒髪を黒いシュシュで一つに纏め、全体的に整った顔立ちだというのに、目の下に出来た濃い隈が魅力を半減させている。千と違う種類の残念美人であった。


「やあ、久しぶりだね、千、《青》」


 虫の息、という言葉が似合う程に、声に勢いが無い。力無く壁にもたれ掛かっている姿はどうみても末期の引き籠りだった。彼女の白衣には「江ノ島慧」と書かれた名札が安全ピンで留められており、名前の横に彼女の若かりし時の姿が写っていた。まだ千達が実験を受けていた頃の写真。


 彼女は千達が実験を受けていた研究所の職員の生き残りだ。実験終了後から半年後、研究所で働いていた職員は慧以外の全員が、何者かに殺されたと聞いていた。


 実験データは無くなり、職員の死体が積み重ねられた研究所は、数日後、謎の爆発事故によって跡形もなく消し飛んだ。明らかな情報漏洩を恐れた者達が行った証拠隠滅。被験者の三人、職員の慧、当事者の四人からすれば深く考えずとも、その答えにたどり着く事が出来た。


 そこまでが、千が知っている情報。それ以上の事は、目の前の彼女しか知らない。知りたければ彼女に聞くしかないのだ。その為に、千はここにいる。


「久しぶりに見たけど、相変わらずだな、お前」


「君達が来るっていうから部屋を片付けていたんだよ。《青》は部屋が汚いと話を聞いてくれなくなるから」


「当然じゃない。慧の部屋になんか本当は入りたくないわよ」


 苦笑を漏らしながら、慧は扉を大きく開いた。


「とりあえず中に入ってから話し合おう。玄関先で話すようなことではないだろう?」


「ああ。《白》に関わる話だからな」


 慧の視線が僅かに下がった事には気付かないフリをして、千と《青》は部屋の中へと入った。


 居間へと通された二人は、部屋の惨状を見て絶句した。中身が空の栄養ドリンクが机や床の上に大量に置かれていた。空になった瓶の中に、見た事の無いラベルが張られた透明の瓶が置いてあるが、二人は視線をすぐに別の場所に移した。どうせ、慧が自作した効果が期待できない栄養ドリンクだろう。


「これのどこが掃除したんだ?」


「ええ。掃除の基本もなってない糞部屋だわ」


「これでも綺麗になったんだけどね。コーヒー飲むかい?」


 千と《青》は口を揃えて、慧の申し出を拒否した。この部屋で、慧が出すコーヒーなど怖くて飲めない。一度でも毒が入っているかもしれない、と疑ったのならば飲まない方がいい。仮に出されたとしても、口を付けることはしない。


 千は壁にもたれ掛かり、《青》はソファに腰掛けた。何故か、一眼レフカメラを持っている慧は千へとにじり寄った。


「やっぱり、千にはスーツが似合うと思ったんだよ。出来ればスカートが良かったんだけどね。パンツスーツというのも悪くない」


 鼻息は荒く、千をカメラ越しに見つめる慧の姿は、完全に不審者だった。千は何も言わず、黙って被写体になっていた。様々なポーズをさせられ、様々な角度でシャッターを切っていく。その一瞬一瞬を慧はカメラに収めていった。


 千が何も言わずに指示に従っている理由。これが《白》の情報を獲得する為の交換条件だからだ。情報を教える代わりに、被写体になれ、というのが慧の出した条件。千がスーツを着て、化粧をしているのも慧の指示。情報がそれだけで手に入るというのならば、簡単な条件だ。


 三十分程、撮影が続いた後、慧は満足した様にカメラを机の上に置いた。そして、千を見ると穏やかな口調で語り出した。


「写真っていうのは撮影した瞬間に、過去の物へと変わってしまうんだ。もう二度と同じ物は撮れない。一秒にも満たない現在を切り取って、人間の脳の代わりに覚えていてくれる、それが写真という物だと私は思っているんだよ。人間の脳は忘れる様に出来ていると、どこかで聞いたことがあるだろう? それは人間が苦痛に耐えられないからなんだ。苦痛を忘れさせてくれる代償に、喜びや嬉しかった事も忘れてしまう。だから、人はカメラを持ち、写真を収めるのではないかと私は思う。千も《青》も、もし忘れたくないと思う思い出があるのなら、写真を撮ってみるといいよ。今、切り取っておかないと、思い返す事も出来ない。 特に千は、そういう経験があるだろう?」



 千は答えなかった。それは肯定している事と同義ではあるのだが、分かった上での沈黙だ。そういう経験は確かにある。あるが、その過去と向き合う事は千にはまだ出来そうにない。臆病な虫が過去へ繋がる道を塞いでしまっている。


「千が研究所を出た後、何をしていたのかは黙っていてあげるよ。これでも情報屋紛いの事もしていてね。君達の情報も一応調べているんだよ」


 知っているのだろう。千が犯した過ちの数々を。現在に至るまで気付けなかった、無知で幼稚だった頃の千の事を。千が最も知られたくない過去、暗く奈落の底の様な場所で蓋をし続けている過去の遺恨。それを慧は知っているのだろう。


 情報は他者を調べている時は頼もしいと思うことが多い。だが、その矛先が自身へ向けられた途端に、恐ろしい怪物が姿を現す。情報が牙となり、心の壁を食い破っていく。丸裸にされた心すら食い破られそうで、鳥肌が止まらなくなる。


 今が正にその状況だ。慧に心を見透かされている気がして、それ以上、彼女の目を見る事が出来ない。


「これ以上は言わない事にするよ。私は戦えないからね。君は若いけど戦闘においては一流だと聞いているよ。そんな君からしたら、私は蟻を踏み潰すのと同じくらい簡単に殺せるはずだ。けど、あと一つだけ千に言うよ」


 その言葉は恐ろしい程に優しく紡がれた。


「君の心に深く刻み付けられた傷は、君では治せないよ。君が治せるのはせいぜいかすり傷程度だ。君の心の傷を治せるのは、君ではなく他人だ。最終的に立ち上がるのは君自身の足でも、そのきっかけをくれるのはいつも他人。他人が作った芸術に、人は生きる活力を見出すことがある。隣に居てくれる他人が心に空いた空洞を埋めてくれる事がある。それら全ては他人がもたらしてくれた癒しだ。千もその癒しを見つけられるといいね」


 千は何も言えなかった。俯いたまま床を見つめる事しか出来なかった。


「偉そうに言ってみたけど、どうだい? 科学者に見えたかい?」


「台無しになったわね」


「そうか。まあ心という物は目に見えない物だ。私は他人にしか心の傷は治せないと思っているが、自力で治せる人間もいるのかもしれないね」


 千はハッキリと落ち込んでいた。こんなにも自分は弱かったのか、と心の中で嘲笑。言い返せなかった自分が、図星を突かれて動揺している自分が、たまらなく悔しかった。奥歯を噛み締める。


 千の肩を誰かが叩いた。千は顔を上げ、その人物を見た。《青》だ。穏やかな優しい笑みで、千を見下ろしていた。それは落ち込む娘を慰める父親の様な笑み。


 千は苦笑で返した。苦笑で返すのが、今の千の精一杯。だが、これでは駄目だ、と千は額を右の拳で軽く小突いた。気持ちを切り替えなければ、慧の顔を見る事が出来ない。


 一度大きく息を吐き、千は前を向いた。慧を真っ直ぐに見る。


「私の傷は私にしか治せない。他の誰にもだ。それを否定する奴がいるなら、誰だろうが私が殺す」


 なんて子供染みた発言。なんて虚勢。思春期の少年少女が言いそうな言葉をこの歳で言う事になるとは。だが、千は自身の言葉に恥じてはいなかった。


 これこそが、千の偽らざる本心。これから先、何度否定されようと、意見を覆されようとも、変わる事は無い。はずだ。


 千の言葉を聞いた慧の表情は優しかった。


「まだまだ子供だね。でもいいんじゃないかな、千がしたい様にすれば。私は応援するよ」


「勝手に言ってろ」


「そろそろ本題に入って欲しいんだけど」


 千と慧はあっ、と間抜けな声を漏らす。その二人を見て《青》は溜息を漏らした。


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