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第四話 一

 普段は、食卓になっている机の上に置かれた置き鏡。そこに映るのは紛れも無い千。普段の化粧っ気の無い素顔と、洒落っ気の無いシンプルな格好では無い。黒のパンツスーツを身に纏い、《青》が施した良い塩梅の化粧、セミロングの黒髪を綺麗に結い上げ、後頭部に蝶を模した髪留めで留めてある。どこからどう見ても、立派な大人の女性だった。


「馬子にも衣装って、こういう事を言うのよね」


 千の姿を見た《青》はケラケラと笑っていた。それに不快感は無い。自分で見ても笑ってしまう程なのだ。むしろ、笑ってくれた方が、気が楽だ。


 慣れないスーツという事もあり、何度も鏡を見てしまう。襟を正し、ボタンを留め直し、シャツの皺を伸ばす。何回目かも分からない服装チェックを終えると、千はようやく鏡の前から離れた。


「そろそろ行くわよー」


 千が携帯を開いて確認していると、《青》が車の鍵を持って部屋の隅で佇んでいた。目的地までは《青》が送ってくれるとのことだ。ピクニックに行って以来、運転に余裕を持てたのか、《青》は車に乗る機会が多くなっていた。


 携帯をスーツの胸ポケットにしまうと、おやつのどら焼きを食していた緋乃と目が合った。恥ずかしそうに目を逸らされる。顔も若干赤面している。どうしたのだろうか、と顔を近付けると、緋乃の顔が更に真っ赤に染まった。耳まで赤くなっているが、本当にどうしたのだろうか。


「大丈夫か? 熱があるんじゃないのか?」


 自身の額と緋乃の額を両手で触れ、体温を測るが、問題は無さそうだ。


「……だ、大丈夫。千ちゃん行ってらっしゃい」


 明らかに様子がおかしい。千が更に顔を近付けようとした所で、《青》の声が背後から掛かる。


「照れてるだけよ。千ちゃんお化粧してるから」


「あ、そういう事か。どうだ、緋乃。様になってるだろ?」


 緋乃は食べかけのどら焼きを両手で持ちながら、首をコクンと、縦に振った。


「……千ちゃんきれい」


「改まって言われると恥ずかしいな……」


 頬を掻きながら、緋乃から目を逸らす。


「言わせたくせに。ほら、もう行くわよ」


 その言葉に頷き、千と《青》は玄関へと移動した。穿き慣れないヒールを穿いていると、軽やかな足音が背後から聞こえてくる。緋乃が玄関まで来ていたのだ。  


 緋乃は眠りに着く時間が早い。遅くても午後八時には寝てしまう。深夜に仕事に向かう事の少なくない二人が、緋乃と顔を合わせる時間はどうしても少なくなりがちだ。


 そのせいか、彼女が起きている時間帯に千や《青》が外出や帰宅すると、玄関まで来て送迎してくれる様になったのだ。ピクニックに行ってから二日が経ったが、少しは緋乃も心を許してくれているのかもしれない。


 黒のヒールを穿き終えると、千は背筋を伸ばした。少しだけ目線が《青》の目線に近付き、緋乃の頭が遠ざかる。目線が変わるというのは、世界が少しだけ違って見える気がして面白い。振り返って、玄関マットで千を見上げている少女に目を向ける。少し寂しそうな表情を浮かべているのは、気のせいだろうか。動かない表情の中では断定は出来ないが、そうであってくれると少し嬉しい。


「緋乃、行ってくる」


「……行ってらっしゃい」


 小さな手が彼女の胸辺りで、ひらひらと横に振られている。千も手を振り返しながら玄関を出た。続いて《青》も玄関を出て、外に出た。


 扉が閉まり切る直前まで緋乃を見つめながら、扉は静かに閉ざされた。二人は扉に鍵を掛けない。しばらくすると、鍵が閉まる音が外に聞こえてくる。緋乃が閉めているのだ。緋乃が小さな手で鍵を閉めている状況を想像して、二人は顔を緩ませた。


 名残惜しそうに扉から離れ、共用階段を下りる。黒々としたアスファルトの上を歩きながら、二人は車に乗り込んだ。シートベルトを締めている間に、《青》がエンジンを掛けた。エンジンの音がけたたましいのは相変わらず。車が振動を始め、体も少しばかり振動を始める。


 五月蠅いエンジン音も、鬱陶しい振動も、気にはならなかった。ある事を考えていたからだ。おそらくは《青》も同じ。


 早く帰ろう、出来るだけ早く。


 そう心に誓って、二人が乗る車は駐車場を出て、前へと進んでいった。



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