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第三話 四

 アパートに着いた頃には、日はすっかり沈み、街灯が点き始めていた。帰りに寄ったスーパーの袋とクーラーボックス、手提げ袋をまとめて《青》が部屋に持っていき、起きてはいるが半分眠気眼の緋乃を千が抱き抱え、部屋へと運んだ。


 《青》が電気を点けてくれたのだろう。部屋の中は、どこも明るい。誤って壁に激突することも無く、千は居間までたどり着いた。


「緋乃着いたぞ。起きろー」


「……んー」


 目を擦りながら返事はしているが、まだ寝ぼけている様子だ。千は脱衣所まで移動し、洗面所の前に立った。片手で緋乃の歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を付けた。


「口開けろ。歯だけでも磨くぞ、虫歯になる」


 開けているつもりなのだろうが、緋乃の口はほとんど開いていない。元々の大きさを加味しても、歯ブラシが一ミリも入りそうにない程だ。


「おい、早く口を開けろ」


「……いや」


 緋乃の瞼が完全に閉じてしまった。


「寝るな。おい、緋乃」


「……ななちゃん、うるさい」


 寝ぼけているせいか、千を誰かと勘違いしている様だ。緋乃の母親だろうか。「なな」という人物に一人だけ心当たりがあるが、関係はない、気がする。世間は狭いと言えど、そんな偶然がそうそう起こるはずもない。


 一度、緋乃を床に下ろす。床に立たされたせいか、緋乃の瞼が僅かに上がる。


「私は、ななちゃんじゃない。早く口を開けろ」


「……むー」


 渋々といった感じで、緋乃は口を開けた。歯ブラシを容赦なく突っ込み、素早く歯ブラシを動かす。歯の裏や、舌もしっかりと磨き、コップに水を注ぐ。


「終わったぞ。口、濯いでいいぞ」


 言われた通りにコップに入った水を口に入れ、洗面器に吐き出した。数回繰り返した所で、タオルを緋乃に手渡し、口を拭かせる。


「……今日のななちゃんうるさい」


「緋乃、私はうるさくない。お前の可愛い歯を守りたいだけだ」


「何、馬鹿な事言ってんのよ?」


 呆れた声と共に、脱衣所に入ってきた《青》も緋乃と同じく、歯ブラシに歯磨き粉を付けた。豪快に歯を磨く姿は正に漢の中の漢。その後ろ姿には威厳が満ち溢れている。


「緋乃寝かせてくるから、先に風呂入っていいぞ」


 親指を上げている《青》を鏡越しに確認してから、千は頭がぐらぐらしている緋乃を持ち上げた。脱衣所から居間へと戻ると、押し入れから布団を取り出す。床に敷いた布団を足で整え、そこに緋乃を寝かせた。


「……おやすみ、ななちゃん」


「だから、私はななちゃんじゃ」


 千が言葉を全て言い切る前に、緋乃の意識はもう夢の中。穏やかな寝息が聞こえてくる。千は緋乃の隣に座った。口が半開きの寝顔を覗き込む。あまり感情の見せない彼女は、寝る時は年相応の表情になる。


 緋乃が公園で見せた笑顔には、今でも驚いている。初めてじゃないだろうか。一目で笑っていると分かる笑顔を見せたのは。その事に、嬉しさを覚えると同時に、一抹の寂しさを覚えていた。


 この少女も少しずつ成長している。彼女の中に燻っている心の闇も払拭されつつある。喜ばしい事だ。だというのに、それを寂しいと思ってしまうのは、


 この少女との別れが早まっている、と感じてしまうからだろうか。


「私達は、いつまで同じ時間を共にできるんだろうな……」


 千の独白は、降り始めた雨音に掻き消された。


 しばらくした後に、タオルを首に巻いて《青》が現れた。まだ半乾きの髪から湯気が立っている。千は立ち上がって、冷蔵庫から麦茶を取り出す。グラスに入れて、《青》に渡すと彼は喜んでそれを一気に飲み干した。


「なあ、《白》の本名って覚えてるか?」


「確か、梶尾奈那だったかしら」


 そう、確かそんな名前だった。「なな」という名の知り合いは《白》と呼ばれている女性しか千にはいない。


「《白》に子供なんていなかったよな?」


 《青》は驚いた顔をして、グラスをシンクに置いた。少しの沈黙の後、《青》は言った。



「いたわよ、確か」


 千の目が見開いた。《青》に掴み掛かりそうになるのを堪える。


「私達が研究所から去った後に、《白》だけ研究所に残されたでしょう?」


「ああ」


「あの後、一つの実験が行われてたのよ」


「その実験って?」


 急かす様に、《青》を見る。


「肉体に変化が生じた被験者が子供を生した場合に、その子供にも変化が見られるかどうか。相手はいないみたいだけどね、体外受精だって聞いたわ」


 理解の出来ない実験。これではただの被験体だ。人ではなく、実験動物。その事に強い怒りを覚える。だが、その怒りはこの場においては不要な物。千は拳を強く握って、息を大きく吸い込んだ。


「その子供は今、どこにいるか分かるか?」


「そこまでは私も知らないわよ。私も詳しい事は、あまり知らないし。私に聞くよりも、慧に聞いた方が早いわよ? 唯一の生き残りでしょ、一応」


「そうだな……」


 正直、あまり気乗りしなかった。事情を知っている《青》も同情の眼差しを千に向けている。


「とりあえず、私から連絡しとくわ」


「すまないな」


「いいけど、どうしてそんな事を聞いてきたの?」


「ちょっと気になる事があって、さ」


「何よ? 気になるじゃない」


「緋乃が私の事を、ななちゃん、って呼んだんだ。《白》と関係あるかな、ってさ」


 二人は眠る緋乃を見た。彼女の赤い瞳を思い出す。鮮やかな硝子細工の様に透き通った赤。先天的にも後天的にも、メラニンが欠乏している訳ではない彼女が、赤い瞳を有しているのは、少し特殊だ。天然とも思えず、かといって人工的とも思えない。


「もしかしたら、もしかするかもな」


「そうね。もしかしちゃうかもしれないわね」


 苦笑を浮かべながら、千は居間から出ていった。


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