第三話 三
昼食を終え、後片付けも早々に済ませた三人は、食後の運動にジョギング用の通路を歩いていた。と言っても、緋乃は昼食を食べ終えた後に、昼寝に入ってしまったので、今は千の腕の中で穏やかな寝息を立てている。
二人の歩く姿は、とてもゆっくりだ。一生を寄り添い合った老夫婦の様に、緩やかに歩いていく。沈みゆく太陽は、大木に隠れて見えない。辺りを見回せば、公園にいた人々も大分少なくなっている。結構な時間、この公園にいる様だ。
ひらひらと舞い落ちる紅葉が緋乃の頭の上に乗った。それを優しく払い除ける。公園に来てすぐにもそんな事があったな、と思いながら、千は一度緋乃を持ち直した。起きないか心配になったが、起きる気配無い。
緋乃は本当に良く寝る子だった。
「この子の記憶が戻ったら、どうするの?」
緋乃の記憶はほとんど戻っていない。名前すらもまだ思い出せていない。
「記憶が戻れば、両親の手の届かない所に逃がすさ。私達といるのは緋乃の為にならない」
本当にそれでいいのだろうか。何故かそんな疑問が浮かんだ。
「私も《青》も、普通の生活をしてないし、普通じゃない生活をしてきた。緋乃には普通に生きていってほしい。私は緋乃に普通を与えてやる事はできないから」
「……そうね。私達は、人が踏み込んではいけない場所に足を踏み込んでる。この子にはまだ、真っ当に生きていける未来が残されているのよね。私達が捨てた普通の生活をまだこの子は選び取れるのよね」
「ああ。私達は記憶が戻るまで守り抜いて、緋乃の見えない所から見守っていけばいいさ。この子が私達を忘れたとしても」
「ええ。この子が私達と再会しない未来が作られているといいわね」
「そうだな」
二人は長い時間を掛けて、公園内を歩いた。駐車場に戻る頃には、日は既に夕焼け。駐車場に止まった車の台数もかなり減っていた。
後部座席に緋乃を横に寝かせて、その上から千が来ていたジャケットを掛けた。千は助手席に乗り、シートベルトをして待機。トランクに荷物をしまっていた《青》が、トランクの扉を勢いよく閉めるとすぐさま運転席に乗車した。
エンジンが掛かる。相変わらずうるさい、と内心文句を言いながらも、車は発進した。
駐車場の出口から道路へと進入する為に、右に方向指示器を出した。中々、車が途切れず進入出来ないでいると、後ろに白い乗用車が並ぶ。《青》の焦りは増し、ハンドルを握る手に力が入るのを見た。
車が途切れた瞬間を見計らって、前進。すぐにハンドルを回し、右に曲がる。難なく道路に合流出来た。
「ペーパードライバーなのに、やるじゃないか」
「これくらい余裕よ」
「手、震えてるぞ」
《青》の震えた手は見ない様にした。見ていると、千まで不安になりそうだ。相変わらず一定の速度で進む車。千は外の景色に視線を移し、ぼーっとしたままそれを眺めていた。
「朝はどうなるかと思ったけど、何とか無事にピクニックに行けたわね。千ちゃんのおかげね」
皿が割れた音で緋乃がパニックになった姿が脳裏に浮かぶ。それに重なった自身の過去も。
「私のおかげなのかは知らんが、緋乃も楽しめたみたいだし、良かったよ」
そう言いながらも千は別の事を考えていた。緋乃に両親と遊んだ事が無くて寂しくないか、と問われた時、千は曖昧な返事しか返せなかった。ずっと考えていたのだ。
大人になった今、両親と遊んだり、旅行に出掛けたいとは思わない。それが揺らぐことはない。それが大人になった今の千の考えだからだ。それでも、大人になった今だからこそ、気付ける事があった。
幼かった梅村千は違う。幼き千は、確かに親の寵愛を求めていたのだ。無条件に愛される事を望んでいた。楽しい時には笑い、傷付いた時には泣き、感情を共有する事を、本心では望んでいたのだ。
緋乃が朝パニックになった時、千は彼女を落ち着かせる為に、抱き締めた。両親に抱き締められた事が無い千は、経験から導き出された行動、ではなく、自分が両親に望んでいた願望を無意識に緋乃に行っていたのだ。
あれこそが、偽らざる本心。千が生きていくために切り捨てた「普通の親子」への憧れだったのかもしれない。
千は苦笑する。幼い子供にそれらを気付かされたという事を。直接的ではないにしろ、緋乃が居なければ気付かなかったのは事実。子供というのは本当に末恐ろしい。
「千ちゃん、知らない道に出たわ」
焦った様に片手で千の肩を揺らす《青》の額には大量の汗が浮かんでいる。手汗も酷い事になっているので、出来れば触らないでほしいが、このままでは手を離してもらえなさそうなので、携帯を開く。
「私の携帯って地図出せるのか?」
「私のスマホ使っていいから」
《青》のスマホを操作し、地図アプリを起動する。ヌルヌルと動く画面の中で地図が展開され、千は住所を入力していく。いくつか経路が表示され最短ルートを選択すると、スピーカーから音声案内が開始された。
「ほら、これで大丈夫」
「千ちゃんが案内して!」
「……はいはい」
ちゃんと帰れるのだろうか、という心配と共に車は発進した。フロントガラスが割れるんじゃないだろうか、と思う程の眼力で前方を見つめているが、運転自体はかなり安全運転だ。問題はない、はずだ。
「ゆっくり帰ればいいからな。無理はするなよ、マジで」
「余裕よ……。私は、ミハエル・シューマッハなんだから」
千はもう何も言わなかった。




