第三話 二
車が停止したタイミングで千は目を覚ました。
開いていた窓が勝手に閉まりだす。《青》が運転席側から操作しているのだろう。
霞んだ視界を戻そうと、指で目を擦る。視界が戻った所で、座席から立ち上がろうとした。が、すんでの所で緋乃の存在に気付き、体を動かすのをやめた。彼女は千の膝を枕にして眠っていたのだ。
扉を開け、横で眠る少女の体を持ち上げた。外で待機していた《青》に緋乃を託すと、自身も車から降りた。凝り固まった体をほぐしながら、《青》に向き直る。《青》の顔には疲労が溜まっている気がするが、気のせいだろう。
「ここは?」
緋乃を抱っこすることが出来てご満悦の《青》が、やや呆れ気味に答えた。
「今日、公園にピクニックに行くって言ったでしょう?」
「あー言ってたなー」
「絶対覚えてないじゃない」
《青》の本気の落胆の声が聞こえてくる。少し申し訳ない気持ちになり、千は苦笑。《青》を促し、公園の内部へと向かった。駐車場には、かなりの台数の車が止まっていた。ほとんどが親子連れで、子供を連れ立って公園へと足早に消え去っていく。
どの親子も笑顔だった。仲睦まじく手を繋ぐ姿は、気味が悪く思えた。何故だろうか、などとも思わない。目の前の光景が、千の知っている親子像とは掛け離れているからだ。遊びに出掛ける事も無く、白い歯を剥きだしにして顔を向き合わせる事も無い。
本当にただ血を分けただけの他人。それが、千の親という存在に抱いている認識。肉親に牙を向けられる事しか知らなかった、千の根底を否定されている様で、すごく腹立たしい事のように思えた。それと同時に少しの寂寥感を感じたが、すぐに心の奥底に消えていった。
知らない世界が目の前に存在している。不安と高揚感が入り混じった理解に困る感情が、千の中を駆け巡った。
《青》に肩を叩かれ、親子連れの後ろ姿を凝視していた事に気付いた。
「大丈夫?」
「ああ、問題ない。少し、昔の事を思い出していただけだ」
「昔? 千ちゃんがギザギザハートだった頃の話?」
「私がセーラー服着て、ピチピチだった頃の話」
「あーそんな時もあったわね。あの頃はほんとに生意気で困ったわよ。なのに顔だけは良いものだから腹立たしい」
「そりゃどうも」
過去の話は早々に切り上げ、大人二人と眠る少女は散紅葉が彩る公園へと足を進めた。
公園と言っても、遊具はあまり存在していない様だ。全長約百メートルの滑り台が一つあるくらいで、他の遊具は見当たらない。人口芝生が植えられた、草原の様な光景が続き、ウォーキング、ジョギング用の通路がそれを囲う。公園の中心に作られた池には鯉が無数に泳いでおり、パンくずなどの餌を与えている子供の姿が多く見られた。
人工芝を歩いている途中で、ふと千は思った。
「公園って仕事以外で初めて来たかも」
「急に何のカミングアウトよ?」
「いや何となく……。寂しい奴って思っただろ?」
《青》は何も言わなかった。肯定したと捉えていいだろう。彼の切なそうな顔が妙に腹立たしいので肩を軽く小突く。軽く小突いたつもりだったのだが、その衝撃で緋乃が起きてしまった。《青》に睨まれたが、苦笑して誤魔化す。
目を擦りながら、《青》の腕の中で辺りを見回している緋乃。最初は、起きたら知らない景色が広がっていたせいか、不安そうにしていたが、千の姿を視界に捉えると、安堵の表情を浮かべた。
「……前田、歩く。下ろして」
可愛らしい声で言っているが、緋乃の口調は中々に冷淡だった。千は苦笑し、《青》は名残惜しそうにしていたが、緋乃を地面に下ろす。大地の感触を確かめる様に人口芝生に立ち、赤い瞳は芝生に落ちた紅葉を眺めていた。紅葉を拾い上げ、その葉のどこを気に入ったのか分からないが、長い時間、眺めていた。
「気に入ったの?」
《青》がしゃがみ込みながら聞くと、緋乃は首を縦に振った。
「……色が同じ」
緋乃の瞳の方がやや赤みが強いが、同系色である事には変わりはない。千もしゃがみ込み、紅葉を一枚拾った。葉と緋乃を見比べる。
「緋乃の方が綺麗だな」
無表情のまま緋乃の顔が赤らんでいく。白い肌のせいか、赤さが余計に映える。隣で《青》の盛大な溜息。
「よくもまあ、そんな気障なセリフ言えるわね。もう私達の青春はとっくの昔に終わったのよ……?」
「綺麗だから綺麗って言っただけだ。私が《青》を褒めないのは……そういう事だ」
「そろそろ私に優しくしても損はないのよ?」
「……そろそろ行くか。せっかくのピクニック日和だし」
大人二人が立ち上がると、それに倣う様に緋乃も立ち上がった。
芝生を囲む通路まで出て、他の親子に混ざって三人も散歩に勤しんだ。緋乃の歩く速度に合わせて流れていく風景は、新鮮だった。三人を追い抜いていく親子や中年のジョギングマン。犬との散歩に精を見出す高齢の夫婦など、普段は目を向けていなかった日常が、視界に次々と飛び込んでくる。様々な人間の、様々な表情がゆっくりと観察できた。
通路に沿う様に生え並ぶ大木のおかげか、空気は新鮮で、日中でも通路には日陰が多い。木々から覗く木漏れ日も、肌寒くなってきた秋風の中では心地良い。
夏の面影はもうどこにもない。それで良かった、と思う。真夏の猛暑だったらと思うと、ゾッとしてしまう。もし緋乃を見つけたのが、秋ではなく夏だったら、密閉された黒い袋の中に入っていたのは死体だったかもしれない。この少女とこうして公園を歩く事も無かったかもしれない。
そう思えば、唐紅の葉も悪くないと素直に思えた。
「私達ってこうして歩いてると、親子に見えるのかしら?」
そう言った《青》の口調はどこか弾んでいた。憧れでもあったのだろうか、と思いながら、緋乃の頭に落ちた葉を本人に気付かれない様に、優しく払う。
「どうだろうな。私が母親に見えているのか分からないが、《青》は私と同じ干支だから今年で三十二」
「年齢は言わないで」
ほとんど言ったんだが、と思いながらも続きを言う事は無かった。そのやり取りを見て、緋乃は微笑を浮かべ、二人もそれを見て笑みを浮かべた。
遠目から見たら、親子に見えなくもない光景だった。
異音が鳴った。音がする方へと視線を向ける。《青》もこちらを見ていた。となれば、千と《青》の間にいる、緋乃が音の発信源という事になる。
今度はハッキリと緋乃から異音が聞こえてくる。大きな音だ。思わず二人は苦笑した。
「そろそろお昼にしましょうか」
「そうだな。あのベンチでどうだ?」
空いていたベンチを確保し、そこに緋乃を座らせる。
「お弁当取りに行ってくるから、二人は座ってて頂戴な」
「悪いな」
「いいわよ、全然」
千も緋乃の横に腰掛ける。横長のベンチは大人が三人座ったとしても余裕がありそうな程だ。《青》が戻ってきたとしても余裕で座れるだろう。
携帯電話をジャケットから取り出し、時刻を確認すれば午後一時を回ろうとしていた。空腹になるのも無理はない。よく見れば、芝生にシートを広げて昼食を摂っている親子連れがちらほら見える。時折、不思議そうにこちらを見ているが、あまり気にはならなかった。
彼らから見れば、三人の関係は少し歪に見えるかもしれない。母親と呼ぶにはあまり相応しくない若い女性に、化粧を施した女装家、小学生低学年程に見える少女。親子として見るには、少々訳有りに見える。少なくとも千ならそう見る。
こちらを一度は見る大半の連中は、刺激が欲しいのだろう。訳有りだと勝手に決めつけ、想像と妄想で勝手に推論立て、大きく膨らんだ真実味の薄い空想を、面白おかしく他人に話したいだけなのだ。平凡な日常に変化を、刺激を求めて、非日常性を他人に求めているのだ。今も、千と緋乃の関係性を大喜びで予想し合っているに違いない。
唇の動きを見れば、何を言っているのかは大体分かる。こちらを見てくる大半がその類の話をしていた。
「……千ちゃんはお父さんとお母さんいる?」
人間観察を止め、千は横目で緋乃を見た。彼女の視線の先は、仲睦まじく弁当を食べている親子。それを羨ましそうに眺めていた。
「一応、な」
「……お父さんとお母さんと遊んだことある?」
「ないな。両親と会話したのも数える位しかない」
「……寂しくない?」
静かに紡がれた緋乃の問いに、千はすぐに答えられなかった。少し前までならすぐに答えられたはずなのに。少しの沈黙の後、千は淀みながらも口にした。
「寂しくは……ない」
と、思う。少なくとも現在の生活で寂しさを感じた事は無いはずだ。
なら、昔は?
幼少期の梅村千は?
答えが喉まで出掛かった所で、正面からクーラーボックスと手提げ袋を持って《青》が現れた。千は思考を止める。子供が時折、口にする悪意の無い疑問は恐ろしい。それ以上は考えない様にした。
「お待たせ。お昼にしましょう」
緋乃を挟む様に《青》もベンチへと腰掛けると、クーラーボックスの蓋を開けた。クーラーボックスから出されたのは、五段に積まれた弁当箱と水筒。手提げ鞄からは、紙皿と箸、ウェットティッシュが取り出された。ウェットティッシュで手を拭き、紙皿と箸を受け取る。
「今日のお弁当は自信作よ」
《青》が次々に弁当箱の蓋を開いていく。弁当箱の中身を見て、緋乃の顔が明るくなる。それはもう分かりやすく。
弁当箱の中身は、ハンバーグにタコさんウインナー、鳥の唐揚げに卵焼き。ナポリタンや焼きそば、グラタンに海老フライと子供が好きそうな料理がずらりと並んでいた。
しっかりサラダも作ってあり、栄養が偏る事の無い様に、バランス良く作られた弁当だった。緋乃が好物だと言っていた茄子もちゃんと入っている。甘いタレがかかった茄子の天ぷらは、色眼鏡無しでも食欲をそそられる。
「さあ、お食べなさい」
いただきます、と三人は手を合わせた後、料理を皿に乗せていく。千が何を取ろうか悩んでいると、《青》の箸が動き出す。千の皿に大量のサラダが乗せられていく。
「千ちゃんはいつも不摂生なんだから、今日くらいはバランスよく食べなさい」
「野菜しか食べないのはバランスがいいとは言わないと思うんだが」
「普段はお肉しか食べてないでしょ、我慢しなさい」
仕方なく、皿の上に乗ったレタスを食べる。ドレッシングの味。野菜本来の味の良さ、というのが千にはよく分からない。結局は、ドレッシングの味になってしまうのだ。ならば、ドレッシングを飲めばいいじゃないか、とさえ思ってしまう。飼育された兎の様に、野菜を食べていると、緋乃が千の皿の上に茄子の天ぷらを乗せた。
「……千ちゃん、茄子美味しいよ」
緋乃……茄子も野菜だぞ?
「ありがとう、緋乃」
茄子の天ぷらに噛り付く。確かに、揚げてから時間が経っているというのに天ぷらの衣はサクサクで、甘ダレは程よい塩梅に仕上がっており、後味も良い。だが、違うのだ。千が食べたいのはこれではないのだ。
溜息が聞こえた。《青》だ。《青》の深い溜息。
「緋乃はこの偏食女を見習っちゃだめよ。健康はバランスの良い食事、規則正しい生活から生まれる物なのよ。分かった?」
「……分かった。前田も茄子」
緋乃が茄子の天ぷらを《青》の皿にも乗せる。それを嬉しそうに一口で《青》は口に入れた。
千は水筒を手に取り、蓋を開けた。水筒に入った液体を飲む。すぐにそれが麦茶だと気付いた。普段から、《青》が作り置きしている麦茶だ。慣れた味というのは、それだけで何故か安心する。お袋の味、というやつかもしれない。水筒を傾けていると、隣で緋乃が咳き込んだ。食べ物が喉につっかえた様だ。千はすぐに水筒を緋乃に手渡し、麦茶を飲ませる。緋乃が麦茶を飲んでいる間、彼女の背中を擦る。
「大丈夫か? ゆっくり飲め?」
「……ありがとう。もう大丈夫」
お礼を言った後、緋乃は千に水筒を返した。水筒の蓋を閉めながら、再び皿の上の野菜に手を伸ばす。遠い目で野菜を食していると、ジャケットの袖を引っ張られ、引っ張られるがままにそちらへ振り向いた。
緋乃が箸でハンバーグを掴み、千に差し出している。皿に乗せない所を見ると、直接食べてほしいのだろう。これを食べれば絶対にからかわれる気がする。一瞬、どうする、と考えていると、《青》が恨めしそうな嫉妬の眼差しを向けている。千は考えるのを止めた。
千は勢いよく緋乃が差し出してくれているハンバーグを口に入れた。勝ち誇った顔で、《青》の方を見る。悔しそうにしていると思ったが、《青》は穏やかな笑みを浮かべていた。何故だろう、とハンバーグを噛みながら、《青》の視線を追う。すぐに答えは見つかった。
緋乃が笑っていたのだ。本当に満足そうに笑っていた。普段の無表情からは想像出来ない、愛らしい笑顔。それは年相応の少女が見せる無邪気な笑み。
千は、口内のハンバーグをゆっくりと飲み込んだ。緋乃の表情を見て、千も思わず微笑んだ。彼女の頭をそっと撫でる。不意に、彼女の頭を撫でたくなったのだ。
頭を撫でると、嬉しそうに目を細めた緋乃と《青》を見ながら、口を開いた。
「ありがとう。美味しかったよ」
「……前田のおかげ」
「ちょっと急にやめてくれる? 照れちゃうから」
そっぽを向いた《青》には何も言わなかった。そっぽを向いている間に、肉を食べる。紙皿に鳥の唐揚げやハンバーグを乗せ、次々と口に入れていく。少し意地汚い気がするが、背に腹は代えられない。
緋乃がこちらを見ていたが、千は自分の口にそっと指を当てる。黙っていろ、という意味だったのだが食べ物を口に入れすぎて、喋れないせいで緋乃は、良く分かっていない様だった。
緋乃が千を心配する様に見ている。先程の自分と同じ様に、喉に食べ物を詰まらせている、と勘違いしているのかもしれない。
緋乃の手が《青》の服を掴む。その瞬間、千の顎が物凄い速度で小刻みに動き出す。
飲み込め。口内の咀嚼物を飲み込むんだ私。
《青》の首がゆっくりと動き出す。千の顎は更に速度を上げるが、これ以上は、人として、女として駄目な気がする。だが、止められないのだ。《青》は意外と、言い付けを守らない相手に対しては厳しい。
ふと、甘い考えが頭をよぎった。《青》は今年で三十二歳の立派な大人だ。これくらいの事では、怒らないのではないかと。
ならば、このまま口に含んだまま行こう。リスの様に頬を膨らませ、少し冗談っぽくお茶目に振る舞えばいける、そんな希望が見えた気がする。
《青》が振り返る。すぐに、千を見た。次に弁当箱から大量に消えた鳥の唐揚げとハンバーグを見る。状況もすぐに理解した様だ。
後は、冗談めかせば問題ない、という希望はすぐに打ち砕かれた。冗談っぽく装う暇も無かった。
「おい、貴様。私が何て言ったか覚えているか?」
もうすでに怒っていらっしゃったのだ。口内の咀嚼物は空気を読み、食道をすっと通過していく。
《青》の声は普段の女口調ではなく、生まれ持ったマイルドな声に、低音を足した威圧感を感じさせる声に変わった。
「はい。謹んで野菜を食べようと思った所存です」
《青》の迫力に圧倒されたせいか、変な口調で喋っていた。《青》の顔が近付き、彼の鼻息が当たる程の距離まで来ると、そこで《青》は止まった。
「貴様の為に、実はスペシャル健康ドリンクを作ってある。飲めよ?」
「嫌な予感しかしないぞ。大丈夫かそれ」
《青》はクーラーボックスから紫色の水筒を取り出した。水筒から既に毒々しい。蓋を開け、有無を言わさない迫力で千に手渡した。
中身を見ると、紫色のドロドロした液体が入っていた。鼻を近付け、息を吸い込む。思わず、咳き込んだ。鼻の奥を通り抜け、喉を強烈に刺激する謎の臭い。何を抽出してこの液体を作ったのか分析することもしたくない。
「早く飲めよ」
震える右手を左手で押さえながら、スペシャル健康ドリンクを少しだけ口に含んだ。口内を侵食する粘度の高い半固形の液体。鼻に腐臭にも似た、強烈な臭いが突き抜け、一瞬、気を失いそうになる。何とか堪えながら、飲み込むとスペシャル健康ドリンクを《青》に突き返す。
「これは無理だ……。人が作り出してはいけない物だ。お前は禁忌を侵してる」
自分でも何を言っているのか良く分かっていなかった。脳の機能を著しく低下させるスペシャル健康ドリンク。危険物認定してもいいかもしれない。
恐るべし、スペシャル健康ドリンク……。
「しょうがないわね。さっさと口直しにこれでも飲みなさい」
そう言って、クーラーボックスから取り出したのは、凍らしたペットボトルだった。それを受け取り、蓋を開けた。程よく溶けたその中身は、シャーベットに近い。ひんやりとした冷たさが手の平から伝わってくる。その中身は千も良く知っている。
毒々しい紫色をした、スペシャル健康ドリンクだった。




